第14話 守るための一撃
スリングから石弾が離れた。
革紐の回転によって蓄えられていた力を一気に解き放たれ、石弾は草原を渡る風を切り裂き、低く唸るような音を残して先頭の騎手へ飛んでいった。サランの指先には放った瞬間の反動が残り、革紐に擦られた掌へ熱を持ったような痛みが走る。
刃物を片手に掲げ、逃げ始めた人々と家畜ばかりを見ていた若者は、自分へ何かが飛んできていることに気づかなかった。
石弾が顔面へ直撃し、鈍い音とともに若者の頭が大きく後ろへ仰け反った。掲げていた腕から力が抜け、刃物が宙を舞って地面へ落ちる。驚いた馬が鼻を鳴らしながら数歩走り続ける間に身体は鞍から横へずれ、そのまま乾いた土と草を巻き上げながら転がっていった。
舞い上がった土埃が風に流され、サランの頬へざらついた感触を残す。
当たった。
安堵より先に、石が人の顔へ食い込んだ光景が脳裏へ焼きつき、指先がわずかに震えたが、後続の騎手たちはまだ止まっていなかった。
「なっ――」
先頭の仲間が突然鞍から消えたことで、後ろの騎馬が慌てて手綱を引いた。馬が首を振って地面を乱暴に掻き、その横では別の一騎が進路を変えたため、さらに後ろから来ていた馬とぶつかりかける。
一直線に野営地へ突っ込んできていた九騎の勢いが、そこで初めて鈍った。
「射ろ! 今だ!」
サランの後方から男の声が飛ぶと同時に弦が震え、短弓から放たれた矢が乱れ始めた騎馬へ飛んでいった。
敵もようやく攻撃されていると理解し、身体を伏せる者や馬を横へ振る者が現れる。その一人が避けきれず、飛来した矢を肩口へ受けた。
「ぐっ!」
男の身体が大きく傾き、肩から赤い染みが広がる。落馬こそしなかったものの、片腕が下がって武器を取り落とし、馬も騎手の乱れに引かれるように進路を逸らして集団から離れていった。
他の矢は草へ突き刺さったり、馬の脇を抜けたりしたが、それで十分だった。先頭を失ったうえに矢を浴びた騎馬は左右へ散り、互いの進路を塞ぐ者や、仲間を置いて野営地の外側へ回ろうとする者まで現れている。
サランはその動きを見ながら、すでに腰の袋へ指を入れていた。狩りのために選んでおいた硬い石弾を掴み、スリングへ収める。
「サルヒ、行くよ!」
腹へ脚を当てると、青毛の牝馬はすぐに地面を蹴った。鞍の下で筋肉が力強く動き、その振動がサランの腰と背中を押し上げる。正面から複数の敵へ近づくことはせず、散開した騎馬の外側へ回り込みながら、相手の視線が別の方向へ向いている隙を探した。
さっきの一撃で、もう敵も自分を警戒するだろう。次はこちらが狙われるかもしれないという怖さはあったが、それでも手を止めず、馬の揺れに合わせながらスリングを回した。
一人の騎手がサランへ気づき、急に馬を内側へ寄せる。身体を低く伏せながら肩越しにこちらを見ている相手へ石を放ったものの、石弾はその横を抜け、草原の向こうへ消えていった。
「外した……!」
悔しがっている暇はなく、サランはスリングを手元へ戻しながらサルヒを走らせる。
前方では二騎が野営地の西側へ回ろうとしており、その先には逃げ遅れた馬や羊が縄に絡まったまま身を寄せ合っていた。怯えた羊の鳴き声が重なり、馬たちは地面を何度も踏み鳴らしている。
「そっちには行かせない!」
サランは新しい石弾を収め、走るサルヒの動きを膝と腰で受けながら片手で手綱を操り、もう一方の手でスリングを回した。
こちらに気づいた若者が片腕を上げた瞬間に石を放つと、石弾はその腕へ直撃した。
「うあっ!」
衝撃で腕が弾かれ、刃物が草の中へ落ちる。若者は傷めた腕を胸へ引き寄せ、片手だけで手綱を握ったものの、馬も騎手の乱れに戸惑ったように首を振り、そのまま野営地へ向かう進路から外れていった。
サランは追わず、すぐに別の騎馬へ視線を移した。
ゲルへ向かっている一騎がいる。
サルヒの首を左へ向けて進路を変え、汗ばんだ指で次の石を掴む。心臓は速く打ち、呼吸をするたび喉が乾いていたが、身体は狩りで繰り返してきた動きを覚えていた。
獲物の動きを読み、風向きを確かめ、馬の揺れを受けながら狙う。
だが、放つ瞬間に相手が馬を大きく右へ振り、石は騎手の後ろを抜けていった。
「また……!」
外れた石を見ることなく次を取る。その間にも野営地に残った男たちは弓を射続け、接近してきた敵へ槍を向ける者もいた。馬蹄が土と枯れ草を巻き上げ、怒鳴り声や馬のいななきが重なる中では、最初のように整った射撃を続けることなどできない。
敵も味方も散り、人も馬も絶えず動いている。
四つ目の石をスリングへ収めたところで、一人の若者がサランへ馬を向けた。手には刃物があり、石を放たせる前に距離を詰めようとしていることは明らかだった。
サランは逃げず、正面衝突を避けるようにサルヒを斜めへ走らせた。馬同士の距離が縮まり、相手が刃物を振り上げる。
その瞬間を待って石を放った。
石弾は若者の胸へ直撃し、上体を鞍の上で大きく折った。息を詰まらせるように口を開いた男の腕から力が抜け、その馬はサランの横を走り抜けていく。
振り返る余裕はなかった。
敵が散開したことで右からも蹄音が迫り、さらにその向こうにも別の騎馬がいる。石を収め、回し、狙うだけの間合いを作れないと判断したサランは、スリングを腰へ戻すと同時に右手を後ろへ回した。
指が分銅武器の柄を掴む。
革で巻かれた使い慣れた柄を引き抜くと、金属の先端が陽光を受けて鈍く光った。相手はその武器を見ても間合いが分からないらしく、わずかな迷いを見せたあと、刃物を構えて距離を詰めてくる。
サランは正面へ入らず、サルヒを横へ走らせながら分銅を回した。重い先端が空気を切るたびに革紐が手首を引き、スリングよりはるかに大きな負荷が腕へ伝わってくる。
敵は自分の刃物が届く距離まで入ればいいと思っているのだろう。
さらに馬を寄せてきた。
サランは距離を測り続け、相手が突撃しようとした瞬間に腕を送り出した。
予想より遠い位置から伸びてきた分銅を見て、若者の表情が変わった。身体を引いたものの、馬上では間に合わず、重い先端が胸へ直撃する。
「がっ……!」
男の上体が大きく後ろへ跳ね、刃物を持った腕が開いた。鈍い衝撃は分銅と革紐を通じてサランの腕まで返り、手首から肩まで痺れるような感覚が走る。
男は落馬こそしなかったものの、胸を押さえながら馬の首へ倒れ込み、そのまま戦場から離れていった。
サランは草を掠めて戻ってきた分銅を引き寄せた。スリングとは比べものにならない負荷で手首の奥がじんじんと痺れ、掌には革紐が食い込んだ跡が残っている。
それでも、身体はまだ動いた。
周囲へ視線を走らせると、少し離れた場所で一人の敵が野営地に残った男へ向かい、その背後では逃げ遅れた人々が悲鳴を上げていた。
サランはすぐにサルヒを走らせた。
敵はまだこちらに気づいていない。後方から距離を詰めながら分銅を回すと、革紐が空気を裂き、重い先端が低く唸る。
気配を感じた男が肩越しに振り返り、サランと目が合った。
その瞬間、分銅を放った。
重い先端が背中へ叩き込まれ、男の身体が前へ折れる。
「ぐあっ!」
胸を馬の首へぶつけ、手から武器を落とした男は、辛うじて鬣へしがみついたものの、もう戦う余裕はない。サランは分銅を引き戻しながら、その横を駆け抜けた。
「近づくな! その女、思った以上に手練れだ!」
敵の一人が叫んだ。
その声を境に、周囲の騎馬の動きが変わった。それまでサランを野営地に残っていた若い娘としか見ていなかった者たちが距離を取り、一人は馬を横へ向け、別の男は刃物を下げて鞍へ手を伸ばした。
取り出したのは短弓だった。
もう不用意には近づいてこない。
サランは荒くなった呼吸を整えながら分銅を手元へ戻した。掌は汗で濡れ、頬には土埃が張りつき、腕には何度も武器を振るった疲労が重く溜まり始めている。
そして、身体に残っているのは疲労だけではなかった。
最初の男へ石を当てた感触、胸や腕へ石弾を打ち込んだ瞬間、分銅から腕へ返ってきた重い衝撃、苦痛に歪んだ顔や呻き声が、途切れることなく頭の中へ蘇ってくる。
狩りとは違う。
相手は獣でも魔獣でもなく、自分と同じ人だった。
その事実をはっきり理解した途端、手にした武器が急に重くなったように感じられた。
けれど、背後から子供の泣き声が聞こえた。
ほんの一瞬だけ振り返れば、逃げる人々はまだ野営地を離れきっていない。老人を支える者、泣く子供を抱き上げる者、家畜を諦めきれず縄を解こうとしている者が、それでも敵から離れようと南へ急いでいる。
ここを抜かせるわけにはいかなかった。
怖さが消えたわけではない。むしろ、自分が何をしているのかを理解した今の方が、最初の石を放つ前よりも怖かった。
それでも、サランは分銅を手放さずに敵へ向き直った。
少し離れた場所で一人が短弓へ矢を番え、弦を引き絞っている。もう一人も距離を保ちながらサルヒの進路を見つめ、どこから攻めればいいのかを探っていた。
敵はもう油断していない。
サランも同じだった。
汗で湿った柄を握り直すと、サルヒが騎手の緊張を感じ取ったように耳を忙しく動かし、低く鼻を鳴らした。
「大丈夫。まだ終わってないから、もう少しだけお願いね」
自分自身にも言い聞かせるように呟き、サランはサルヒの熱く湿った首筋へ一瞬だけ手を触れた。
直後、敵の弓がさらに強くしなる。
サランは迷わずサルヒの腹へ脚を入れた。
青毛の牝馬が横へ跳ぶように駆け出し、鞍の上で身体が一瞬浮く。鐙を踏み込み、手綱を引きながら姿勢を立て直した直後、一本の矢が先ほどまでサランのいた場所を抜け、乾いた草へ深く突き刺さった。
矢羽が細かく震え、舞い上がった土埃が風に流されていく。
もう相手はサランを無防備な娘とは見ていない。
そしてサランも、人を傷つけることへの恐怖を抱えたまま、それでも背後の人々を守るためには戦わなければならないことを、はっきりと理解していた。




