第15話 震える手に風は吹く
矢が草へ突き刺さったあとも、サランはすぐには分銅を振り上げなかった。
サルヒを走らせながら距離を取り、敵の動きを追う。さっきまでゲルや家畜しか見ていなかった男たちの目は、今では完全にこちらへ向いていた。短弓を構えた男も次の矢をすぐには番えず、残る二人も不用意に馬を寄せようとはしない。
風に流される土埃の向こうで、敵の一人が周囲を見回した。
九人で来たはずの騎馬は、すでにまともな集団ではなくなっている。最初に顔へ石弾を受けた男は草の上に倒れたまま動かず、肩へ矢を受けた者は片腕を垂らし、腕や胸へ石を受けた者たちも戦いへ戻れる状態ではなかった。分銅を受けた二人も鞍から落ちずにいるのが精一杯で、まともに戦えるのは三人ほどしか残っていない。
それに対して、野営地側にはまだ武器を持った男たちが立っていた。
サランは敵から目を離さず、サルヒをゆっくりと回した。青毛の牝馬は全身を汗で濡らし、鞍の下から伝わる熱も戦いが始まる前とは比べものにならない。自分の腿や腕にも疲労が溜まり始めていたが、いつでも走り出せるよう鐙へ足を置き、分銅を握ったまま相手の動きを待った。
やがて短弓を構えていた男が仲間たちを見回し、低い声を出した。
「……もういい。これ以上やって何になる。引くぞ」
別の男が何か言い返そうとしたものの、周囲の負傷者へ目を向けると口を閉ざした。
ようやく頭へ上っていた血が下がったのだろう。自分たちが何をしに来て、何を失ったのかを数える余裕が戻ったらしい。
短弓を持った男が弓を下げると、残る二人も馬を後ろへ向けた。
サランは追わなかった。
それでも分銅は手放さず、敵の動きを見続ける。相手もすぐ背中を見せることはせず、一人がこちらを警戒する間に、二人が負傷した仲間のもとへ馬を寄せていった。
肩や腕を傷めた者は自力で馬を動かせたが、分銅を受けた男の一人は馬上で身体を支えることさえ苦しそうだった。
「乗っていられるか?」
「……なんとか」
「無理するな。手綱を寄越せ。こっちで引く」
仲間が負傷者の馬の手綱を取り、別の男も支えられながら少しずつ野営地から離れていく。
最後に残ったのは、最初にサランの石を顔へ受けた若者だった。
男は草の上へ倒れたまま、まだ起き上がらない。顔には血が付着し、遠目には生きているのかさえ分からなかった。
一人が馬から降りた瞬間、サランの指が反射的に分銅を強く握る。
それに気づいた男と視線がぶつかった。
だが、相手は武器へ手を伸ばさなかった。そのまま倒れている仲間のところへ駆け寄って膝をつき、肩へ手をかける。もう一人も馬を寄せて周囲を警戒しながら手を貸した。
「おい、聞こえるか!」
返事はなかった。
それでも胸は動いているらしく、男は何かを確かめてから仲間へ声をかけ、二人がかりで身体を起こした。力の抜けた若者の腕が垂れ、足が草を擦る。
その姿を見た瞬間、サランの胸の奥が強く縮んだ。
自分がやった。
分かっていたはずなのに、戦っている最中には考える暇などなかった。敵が来れば狙い、石を入れてスリングを回し、距離を詰められれば分銅へ持ち替える。それだけを繰り返していた。
だが今、意識を失った一人の人間を仲間が抱え起こしている。
その顔を血で濡らしたのは、自分が放った石だった。
戦いの熱が引くにつれ、頭の中まで急速に冷えていくようだった。
敵の二人は若者をどうにか馬上へ引き上げ、一人の騎手の前へ預けた。意識のない身体を片腕で抱え、もう一方の手で手綱を握っているため、速く走ることはできない。
今なら追いつける。
分銅を振るえば、もう一人くらい馬から落とせるかもしれない。
そう分かっていても、サランはサルヒを動かさなかった。
「……もう帰るなら、行けばいい」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
自分が引き受けた仕事は、この野営地と人々を守ることだった。敵を追い払い、これ以上近づかせなければいいのであって、逃げていく相手を追いかけて殺すためにここへ来たわけではない。
野営地側の男たちも弓を引かなかった。
やがて敵は負傷者を連れ、互いを支えながらゆっくりと北へ向かい始めた。
あとに残ったのは、最初に落馬した若者が乗っていた騎手のいない馬だけだった。敵にもそこまで回収する余裕はなかったらしく、少し離れた場所を歩きながら、ときおり仲間の馬が去っていく方向へ不安そうに鼻を鳴らしている。
サランは敵が十分に遠ざかるまで、その場から動かなかった。
まだ戻ってくるかもしれない。
そう考えて分銅を握り続けていたが、一団は進路を変えず、小さくなった騎馬の背中は草原の起伏へ少しずつ紛れていった。
人なのか草の影なのかさえ分からなくなったところで、ようやくサランは長く息を吐いた。
分銅を握っていた右手を開こうとしたが、指が固まったように動かない。眉を寄せながら左手を添え、一本ずつ伸ばしていくと、掌には柄と革紐が食い込んだ赤い跡が残り、擦れた皮膚へ風が触れるたび微かな痛みが走った。
そこで初めて、指先が震えていることに気づいた。
「……あれ?」
左手で右手首を掴んでも、震えは止まらない。
胸の鼓動もまだ速く、喉はひどく乾いていた。口の中には土のざらつきが残り、鼻へ入ってくるのは踏み荒らされた草や馬の汗、それに血の生臭さだった。
戦っている間には意識しなかったものが、一つずつ感覚へ戻ってくる。
周囲を見渡せば、草へ突き刺さった矢や落ちた刃物があり、何度も馬に踏まれた場所では草が潰れ、黒い土が剥き出しになっている。ところどころに血の付着した草も残り、その向こうでは騎手を失った馬が所在なさそうに歩いていた。
ほんの少し前まで、ここで人同士が殺し合いかねない戦いをしていた。
そして、自分もその中にいた。
分銅で人を打ったときの重い衝撃が、まだ腕の奥に残っている。その感触を思い出すと胃の奥が縮み、先ほど仲間に抱き起こされた若者の血に濡れた顔まで浮かんできた。
「私……人を傷つけたんだ」
何人も傷つけ、最初の男は意識すら戻っていなかった。
できることなら、あんな感触は二度と味わいたくない。
それでも、撃たなければよかったとは思えなかった。
サランは野営地の南へ目を向けた。あの九人を止められず、ゲルや家畜の間まで入られていたら何が起きていたのか。それを想像すれば、自分が止めたことまで間違いだったとは思えない。
人を傷つけた怖さと、それでも守るためには必要だったという思いは、どちらか一方だけにはならず、胸の中で重く絡み合っていた。
大きく息を吸おうとしたとき、近くから苦しげな声が聞こえた。
「くそ……傷が開いたか」
振り向くと、野営地側の男の一人が少し離れたところへ座り込んでいた。
「怪我してる!」
考えるより先に身体が動いた。
サランは分銅を収めてサルヒから飛び降りたが、着地した瞬間に膝から力が抜けそうになり、慌てて鞍へ手をついた。自分が思っていた以上に脚まで震えている。
それでも男のところまで駆け寄ると、片腕を押さえた袖が裂け、その下から血が流れていた。刃物が掠めたらしく、肩から上腕にかけて傷が走っている。
「見せて。大丈夫って言っても、これだけ血が出てるなら確認しないと」
「深くはないと思うが……頼む」
サランは男の前へしゃがみ込んだ。
近づくと血の鉄臭さが強くなり、さっきまで敵へ振るっていた分銅の感触が蘇りそうになる。それでも唇を一度噛み、傷から目を逸らさなかった。
男がその手元を見て、しばらくしてから口を開いた。
「……手が震えてるぞ。もしかして、人とやり合ったのは初めてか?」
サランは誤魔化すように手を握ろうとしたが、指先の震えは隠せなかった。
「……人と戦ったのは、初めて」
「そうか」
男はそれ以上聞かなかった。
少しの沈黙のあと、南へ逃げていった人々へ目を向けてから、静かに続ける。
「それでも、お前がいなかったら、あいつらは野営地まで入ってた。俺たちだけじゃ九騎全部は止められなかったと思う」
サランも逃げていった人々の方角へ目を向けた。
勝ったという気持ちはなかった。
人を傷つけたことが嬉しいはずもない。
それでも、自分がここに残った意味はあったのだと思えた。
「……うん。みんなが逃げられたなら、それでいいよ」
そのとき、北から吹いてきた風がサランの髪を揺らした。
何気なく顔を上げ、敵が去っていった方向よりさらに先へ目を向ける。
緩衝地帯がある方角だった。
そこで胸の奥へ、戦いとは別の不安が広がっていく。
こちらへ九騎もの敵が抜けてきた。
ならば、その前にいたはずの男たちはどうなったのだろう。
オルハンもいる。
そして――バヤルも。
サランはゆっくり立ち上がった。
先ほどまでとは違う理由で鼓動が速くなり、風の吹く北の草原から目を離せなくなる。
「……バヤルたちは、どうなったの?」
答える者はいなかった。
ただ風だけが、何も知らないように草原を渡っていった。




