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草原のサラン ~風の果てまで~  作者: 岡悠
第1章 風渡る草原

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第16話 帰る騎影

戦いの跡が残る野営地に、少しずつ人の声が戻り始めていた。


 南へ逃れていた女たちや老人たちは、敵が戻ってこないことを確かめながら一人、また一人とゲルの方へ戻ってくる。泣いていた子供を抱きしめる者、逃げる途中で放り出した荷物を拾い集める者、興奮して落ち着かない馬や羊を宥める者もいたが、普段の暮らしが戻ったとはとても言えなかった。


 誰もが自然と声を潜め、ときおり北の草原へ目を向けている。


 サランも、もう何度目になるのか分からないほど同じ方角を見ていた。


 敵の九騎が去ってから、それほど長い時間は経っていないはずだった。それでも朝から張り詰め続けていたせいか、一刻一刻がひどく長く感じられる。


 肩から上腕を斬られた男にはすでに布が巻かれ、血もひとまず止まっていた。傷そのものは深くないらしく、本人は立って動こうとしていたが、周囲の者に座っていろと止められている。


 その様子を確かめてから、サランはサルヒのもとへ戻った。


 青毛の牝馬は全身のあちこちを汗で濡らしていた。首筋へ掌を当てれば、湿った毛の下からまだ強い熱が伝わってくる。それでも先ほどまで大きく上下していた腹は少しずつ落ち着き、呼吸も穏やかになり始めていた。


「頑張ったね。急に走らせてごめんね」


 毛並みを整えるように首筋を撫でると、サルヒは耳を後ろへ向け、サランの声を聞くように小さく鼻を鳴らした。


 その温かな首へ額を寄せようとしたとき、野営地の北側から鋭い声が飛んだ。


「何か来るぞ! 北だ!」


 サランの身体が反射的に強張った。


 周囲にいた男たちも一斉に北を振り返り、サランもすぐにサルヒの手綱を取ると、もう片方の手を腰のスリングへ伸ばした。


 休ませたばかりのサルヒへ、また乗らなければならないのか。


 そう考えたのはほんの一瞬だった。身体はすでに戦うための動きを始め、サルヒも騎手の緊張を感じ取ったのか、頭を上げて北へ耳を向けている。


 草原の向こうには、いくつもの騎影があった。


「待て。……あれは違うぞ」


 男の一人が目を細め、その隣にいた者もじっと騎馬の列を見つめる。


「こっちの連中だ。戻ってきたんだ」


 その言葉を聞いても、サランはすぐにはスリングから手を離せなかった。


 風に揺れる草の向こうから、騎馬の列がゆっくりと近づいてくる。一騎、また一騎と輪郭がはっきりするにつれて、確かに見覚えのある馬や衣服が見え始めた。


 だが、戦いへ向かったときとはまるで違っていた。


 誰も速く走っていない。


 馬上で身体を傾けている者、腕や頭へ布を巻いている者、隣の騎手に肩を支えられている者がいる。馬から降り、自分の足で歩きながら手綱を引いている男もいた。


 出ていったときには十数騎を先頭にまとまっていた男たちが、今は疲れ切った人と馬の長い列となって帰ってくる。


 サランはその一人一人へ視線を走らせた。


 まず、オルハンを見つけた。


 衣服には土と潰れた草が付着し、頬にも浅い傷が走っている。それでも自分で馬を操り、誰かに支えられている様子もない。


 そして、その少し後ろに見覚えのある黒鹿毛の馬がいた。


 ハルガだった。


 その背に乗っている男を認めた瞬間、サランは知らずに詰めていた息を吐いた。


 バヤルもいる。


 服はひどく汚れ、片方の袖には赤黒い血が付着していたが、身体を支えられている様子はない。自分で手綱を握り、ハルガを歩かせている。


「……よかった」


 自分にしか聞こえないほど小さな声だった。


 胸の奥へずっと張りついていたものが、ようやく少しだけ剥がれていく。


 しかし、男たちが近づくにつれ、安堵だけを感じているわけにはいかなくなった。


 野営地へ入ってきた人と馬からは、汗と土、それに血の生臭さが濃く漂っていた。馬の腹や胸まで汗で濡れ、傷口へ巻いた布を赤く染めている者もいる。戦いそのものは終わったはずなのに、その臭いだけが先ほどまでの争いを連れて戻ってきたようだった。


「オルハン!」


 野営地に残っていた男の一人が駆け寄った。


 オルハンは馬から降りた瞬間、僅かに顔をしかめた。身体のどこかを痛めているらしいが、それを気にするより先に周囲を見回す。


「こっちはどうだった? 怪我人はいるのか?」


「一人、肩から腕を斬られた。ただ傷は深くないし、他は大丈夫だ」


 それを聞いて、オルハンの張り詰めていた表情が僅かに緩んだ。


 改めて野営地を見渡す。


 人も家畜も大半は無事だったが、踏み荒らされて黒い土を晒した地面や、草へ突き刺さった矢、落ちたままの刃物が、こちらでも戦いがあったことを物語っている。


 少し離れたところには、見覚えのない馬が一頭だけ残されていた。


「あの九人はここまで来たか……。追えなかったんだ。あのときはこっちも押されていて、抜けられたところでどうにもできなかった」


 オルハンが疲れたように息を吐くと、帰還した男の一人も苦い表情で頷いた。


「向こうの方が人数も勢いもあった。こっちは少しずつ下がらされてたからな」


 サランは二人の話を聞きながら、あの九騎がこちらへ現れたときのことを思い返していた。


「でも、あの人たちはどうして戦ってる場所から離れたの? 誰かにこっちへ来るよう言われたの?」


「いや、勝手に抜けたんだ」


 オルハンは首を振った。


「あいつらは向こうでも若い連中だった。こっちが下がり始めたのを見て、もう勝ったと思ったんだろうな。止める声も聞こえていたが、そのままこっちへ走っていった。野営地まで来れば家畜でも何でも好きに奪えると考えたんだろ」


 サランの指が僅かに動いた。


 あの九人が刃物を掲げながら、逃げる人々や家畜を見ていた目を思い出す。


 確かに、戦う相手を見ている目ではなかった。


「それで、あの人たちが抜けたあとはどうなったの?」


「皮肉な話だが、それで戦況が変わった」


 オルハンは北の草原を振り返った。


「それまでこっちは人数で押されていた。それが九人も一度に抜けたせいで、急に向こうの圧が弱くなったんだ。年長者が戻れと怒鳴っていたみたいだが、もう遅かった。こっちだって、それを見逃せるほど余裕があったわけじゃないから、そのまま一気に押し返した」


「それで、向こうが退いたんだね」


「ああ。向こうも途中で九人が戻らないと分かったんだろう。最後はこれ以上続けても互いに怪我人が増えるだけだと判断したらしく、少しずつ距離を取って終わった」


 近くで聞いていた若い男が、安堵したように口を開いた。


「じゃあ、俺たちが勝ったってことか?」


 オルハンはすぐには答えなかった。


 代わりに、野営地へ戻ってきた男たちを見る。


 腕を吊っている者がいる。頭へ布を巻いた者もいれば、仲間に支えられながら歩く者もいる。戻ってこられたとはいえ、誰一人として戦いへ向かったときと同じ姿ではなかった。


「……勝ったと言えば、そうなのかもしれん。だが、あれだけ怪我人を出して、こっちの野営地まで襲われて、それを勝ちと呼びたいかと言われれば、俺には分からん」


 若い男は何も返さなかった。


 サランも黙っていた。


 しばらくして、一番気になっていたことを尋ねる。


「……死んだ人はいるの?」


「少なくとも、俺たちが離れた時点ではいなかった。こっちは怪我人が多いが、全員生きてる。向こうにも倒れて動けない奴はいたが、確認できた範囲では息をしていた。重傷の奴はいるだろうけどな」


 その言葉を聞き、サランは知らずに止めていた息をゆっくり吐いた。


 同時に、自分の石を顔へ受けた若者の姿が頭へ浮かぶ。


 地面へ落ちてから最後まで意識を取り戻さず、仲間二人に抱え起こされて馬へ乗せられた男だった。


「こっちへ来た九人も、少なくともここを離れたときは全員生きてたぞ」


 野営地を守っていた男がそう付け加えると、オルハンは短く息を吐いた。


「そうか。それならよかった」


 そのとき、ゆっくりとした足音が近づいてきた。


 顔を上げると、ハルガから降りたバヤルが手綱を引きながら歩いてくる。遠くから見たときよりも服の汚れはひどく、袖に付着した血も思っていた以上に多い。


 サランの表情が強張った。


「バヤル、その袖……そんなに血が付いてるけど、本当に怪我してないの?」


 バヤルは自分の腕を見て、ようやく気づいたように眉を寄せた。


「ああ、これか。俺の血じゃない。怪我した奴を支えたときに付いたんだと思う」


 その返事を聞いた途端、サランの肩からまた少し力が抜けた。


「……紛らわしい。遠くから見たとき、本当に怪我してるのかと思った」


「悪い。そういうサランは大丈夫なのか? こっちまで九人も来たんだろ」


「私は怪我してないよ。ほら、どこも切られてない」


 サランが両腕を少し広げてみせても、バヤルはすぐには納得せず、頭から足元まで確かめるように視線を動かした。


 ようやく本当に怪我がないと分かったのか、小さく息を吐く。


「……ならよかった」


「バヤルの方は? 本当にその血だけ?」


「俺も大丈夫だ。ちょっと殴られたくらいで、大したことはない」


 そう言われて改めて顔を見ると、頬の端が赤く腫れている。


「それ、大丈夫って言わないでしょ。さっき怪我した人も『大丈夫だ』って言ってたけど、結局腕に布を巻かれてたよ」


「じゃあ男はみんなそう言うんだろ」


「そういう問題じゃないと思う」


 呆れたように息を吐きながらも、サランの口元には僅かな笑みが浮かんでいた。


 少なくとも、バヤルはこうして自分の足で立ち、いつものように話している。


 それだけで十分だった。


 だが、周囲へ目を向ければ安心して笑っていられる状況ではない。


 双方に死者はいなかったとしても、負傷者は多く、中には重い怪我を負った者もいる。たった一度の殴り合いと刃傷から始まった争いが、何十人もの男を武器を持って向かわせ、野営地に残った女や子供まで逃げなければならないところまで膨らんでしまった。


 オルハンも同じことを考えていたのかもしれない。


 しばらく傷ついた男たちを見回したあと、野営地の中央へ歩きながら声を張った。


「まず怪我人を見ろ! 動ける奴は馬と家畜を集めて、逃げた人たちが全員戻ってるかも確認しろ! これからどうするかは、そのあとで話す!」


 その声を合図に、止まっていた野営地が再び動き始めた。


 帰還を喜ぶ声よりも、怪我人を呼ぶ声や水を求める声の方が多い。女たちは布や水を運び、動ける男たちは散った馬や羊を集め始める。


 サランも手伝おうと歩き出したが、数歩進んだところで一度だけ北を振り返った。


 そこにはもう敵の姿も、戦いの土煙も見えなかった。


 風に押された草が、いつもと変わらないように大きな波を作っている。


 だが、その向こうでも今ごろ同じように傷ついた男たちが野営地へ戻り、家族に迎えられ、誰かが血を拭い、傷へ布を巻いているのだろう。


 サランは自分の右手へ目を落とした。


 分銅を握り続けた掌には、まだ赤い跡が残っている。


 ゆっくり一度だけ握り、また開いた。


 人を傷つけた感触は消えていない。


 それでも、守れた人たちがここにいることも消えない。


 どちらかだけをなかったことにはできないのだろう。


「サラン、何してるんだ。行くぞ」


 後ろから聞こえたバヤルの声に、サランは右手から視線を上げた。


「うん。今行く」


 今度は北を振り返らなかった。


 バヤルの方へ歩き、そのまま一緒に負傷者たちが集められているゲルへ向かう。


 草原には再び風が吹いていた。


 血と汗の匂いがまだ残る野営地を抜け、その風は何事もなかったかのように、遠い南へ流れていった。

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