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草原のサラン ~風の果てまで~  作者: 岡悠
第1章 風渡る草原

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第17話 草原に戻る日常

 争いが終わったあと、サランはテムルの待つ家へ戻ることにした。


 野営地では、まだ負傷者の手当てが続いていた。傷口を洗うための湯を求める声や、裂いた布を運ぶ足音、散った家畜を集める人々の呼び声が、あちこちから重なって聞こえてくる。踏み荒らされた草は土と混じって湿り、青臭い匂いの中に血と馬の汗の重い臭いが残っていた。


 サランが引き受けた仕事は、もう終わっていた。


 オルハンからも、あとは自分たちでやるから弟のところへ戻れと言われている。サランは一度だけ野営地を振り返ったが、手当てを続ける人々の姿を見て、自分がここに残ってもできることは少ないと判断した。


 それに、テムルの顔をできるだけ早く見たかった。


 サルヒの鞍を確かめ、腹帯を締め直してから跨がる。牝馬の首筋にはまだ汗が残っており、サランが手のひらで撫でると、温かな皮膚がゆっくりと上下した。疲れの残る身体を急かさないよう、帰り道は速歩にせず、草を踏む蹄の音を聞きながらゆっくり歩かせた。


 夕方の風が、汗の乾いた頬や首筋を撫でていく。冷え始めた空気が火照った肌に触れるたび、戦いの熱が少しずつ身体から抜けていくようだった。野営地が遠ざかるにつれて、血や馬の汗の匂いは薄れ、乾いた草と土の匂いが戻ってくる。風に揺れる草の擦れる音も、サランにとっては聞き慣れた日常の音だった。


 右手には、まだ違和感が残っていた。


 手綱を握るたび、分銅の革紐が食い込んでいた掌がひりつく。指を動かすと、皮膚の奥に鈍い痛みが走り、分銅を振り抜いたときの重さや、何かへぶつかった瞬間の硬い感触まで蘇りそうになった。


 サランは手綱を持つ右手へ目を落とした。掌には赤い跡が残り、指の付け根には薄く土が入り込んでいる。親指でそこを擦ると、ざらついた感触が返ってきた。


 けれど、サランはすぐに手綱を握り直した。


 顔へ石を受けた男や、分銅を受けた者たちがどうなったのかは分からない。考え続けても答えが出るわけではなく、今さら自分にできることが増えるわけでもなかった。


 ただ、自分があそこで戦わなければ、もっと酷いことになっていた。


 そのことだけは、もう疑わなかった。


 しばらく進むと、草原の向こうに見慣れた家が見えてきた。夕日の残りが屋根の縁を赤く染め、家の周りに伸びた草が風に揺れている。


 テムルがいる。


 そう思った途端、重かった脚や張った肩をはっきり意識するようになった。鞍に座り続けていた腰も痛み、腕には疲労が溜まっている。それでも、家が近づくにつれて胸の奥は少しずつ軽くなっていった。


 家の近くまで来たところで、外にいたテムルがこちらを向いた。


「姉ちゃん!」


 声を上げるなり、テムルは駆け出した。


「テムル――」


 サランがサルヒの手綱を引くと、牝馬は足を止め、蹄で土を軽く掻いた。サランは急いで鞍から降りたが、地面へ足をついた瞬間、疲れで膝がわずかに揺れた。


 それでも顔を上げたときには、テムルがすぐ目の前まで来ていた。


 何か言うのかと思った。


 けれど、テムルは言葉を出さなかった。


 そのままサランの胸元へ飛び込み、服を両手で強く掴んだ。


 勢いを受け止めたサランの身体がわずかによろめく。テムルの額が胸へ当たり、布越しに硬い感触が伝わった。サランはすぐに弟の背中へ腕を回し、逃がさないように抱き留める。


 テムルの身体は温かかった。


 上着越しに伝わる体温が胸へ広がり、細い背中が呼吸に合わせて小さく上下している。日に当たった髪と草、それに家の中で焚かれていた火の煙の匂いが、サランの鼻先へ届いた。


 血の匂いでも、馬の汗でもない。


 いつもの家の匂いだった。


 その匂いに触れた瞬間、サランの肩から力が抜けていく。戦いの最中から張りつめていた身体が、ようやくここへ戻ってきたのだと理解した。


「……ただいま」


 サランが小さく言う。


 テムルは返事をせず、胸元へ顔を押しつけたままだった。服を掴む指だけが、さらに強くなる。布が引かれ、胸元に皺が寄る感触が伝わってきた。


 サランは何も聞かなかった。


 弟の髪へ頬を寄せると、少し乾いた髪が頬をくすぐった。サランはその感触を確かめるように、背中へ回した腕へゆっくり力を込める。


 しばらくして、テムルがようやく顔を上げた。


「……怪我してない?」


 声は小さく、まだ不安を隠しきれていなかった。


「してないよ」


 サランが答えると、テムルは姉の顔や腕、汚れた服を確かめるように目を動かした。袖の擦れた跡や土のついた裾を見つめ、右手へ視線を止める。


「ほんと?」


「ほんと。どこも怪我してないから」


 サランが両腕を広げると、テムルはその腕へ手を伸ばし、傷がないか確かめるように指先で触れた。服の上から軽く押されるたび、サランはくすぐったさを覚えながらも黙っている。


 テムルはようやく息を吐いた。


 それでも、サランの服から手を離そうとはしなかった。


 サランは弟の頭へ手を置き、髪をゆっくり撫でた。細い髪が指の間を滑り、撫でるたびにテムルの肩から少しずつ力が抜けていく。


「心配した?」


 テムルは少し黙った。


 それから、服を掴んだまま頷いた。


「……うん」


「そっか」


 サランはそれ以上、何も聞かなかった。


 もう一度、弟を抱き寄せる。腕の中にある温かさと、胸元へ伝わる小さな呼吸を感じているうちに、サランはようやく自分が帰ってきたのだと思えた。


*


 それから二日が過ぎた。


 争いのあった草原から離れた場所では、何事もなかったかのように日々が流れていた。朝になれば家畜が鳴き、寝床の布には夜の冷気が残り、日が高くなるにつれて風に温められた草の匂いが濃くなっていく。


 サランもサルヒの身体を拭き、鞍や馬具を確かめながら、少しずつ普段の生活へ戻っていた。濡らした布で牝馬の首筋を拭うと、毛の間に残っていた細かな砂が布へざらついて付着する。サルヒは気持ちよさそうに鼻を鳴らし、温かな息をサランの手の甲へ吹きかけた。


 それでも、ときどき右手を見てしまう。


 掌の赤い跡は薄くなっていたが、完全には消えていなかった。指を曲げ伸ばすと皮膚が引きつり、その感触に戦いの場面が重なることがある。サランはそのたびに手を握り、目の前の作業へ意識を戻した。


 その日の昼過ぎ、サルヒの蹄を確かめていたサランは、遠くから聞こえる蹄音に顔を上げた。


 乾いた地面を打つ音が、一定の間隔で近づいてくる。草原の向こうから、一騎の馬がこちらへ向かっていた。馬の首が上下するたび、鞍の脇に括りつけられた荷物も揺れている。


 サランは目を細めた。


 見覚えのある馬だった。


「……バヤル?」


 馬の両側には、普段より多くの荷物が括りつけられている。革袋や布袋が重なり、歩くたびに中身が触れ合う鈍い音を立てていた。


 サランが近づくと、バヤルは馬を止めて鞍から降りた。地面へ足をついた彼の靴が、乾いた土を踏んで小さく沈む。


 バヤルは馬の横へ回り、荷の一つを軽く叩いた。


「約束しただろ」


「約束?」


「報酬。それと二人分、一週間の食料」


「あ」


 サランは目を瞬いた。


 戦いの後始末やテムルとの再会に気を取られ、報酬のことを完全に忘れていた。


「仕事した本人が忘れるなよ」


「色々あったんだから仕方ないでしょ」


「それはそうだけどな」


 バヤルは呆れたように言いながらも、口元には笑みを浮かべていた。


 二人で荷を下ろしていると、家の方からテムルが出てきた。足音を聞きつけたのか、髪を少し乱したままこちらへ駆けてくる。


「バヤル!」


「よう、テムル」


 テムルは挨拶を返すより先に、地面へ下ろされた袋へ目を向けた。布袋の口からは乾いた穀物の匂いが漂い、別の包みからは燻した肉の香ばしい匂いが混じっている。


「それ何?」


「お前たちの食い物」


「全部?」


「二人で一週間分」


 袋には穀物や乾燥させた乳製品、干し肉が入っていた。サランが一つを持ち上げると、布が掌へ食い込み、腕にずっしりとした重さがかかる。


「こんなに?」


「最初からそういう話だっただろ」


「そうだけど……」


「それとは別に、こっちが報酬だ」


 バヤルは小さな革袋を取り出し、サランへ差し出した。受け取ると、革の表面が手のひらへ柔らかく馴染み、中で硬いものが触れ合う音がした。


 サランは袋の口を開き、中身を確かめてから紐を結び直した。


「確かに」


「そういうところはちゃんとしてるんだな」


「仕事だからね」


 テムルはすでに食料の袋を覗き込んでいた。干し肉の包みを見つけたらしく、目を輝かせながらサランを振り返る。


「姉ちゃん、これ運ぶよ」


「一人で持てる?」


「持てる」


「無理して落とさないでよ」


 テムルは自分でも持てそうな袋を一つ選び、両腕で抱えた。袋の底が膝へ当たり、身体が少し傾いたが、テムルは足元を確かめながら家へ向かって歩いていく。


 その背中を見送ってから、サランはバヤルへ向き直った。


「それで、そっちはどうなったの?」


 何について聞いているのか、説明する必要はなかった。


 バヤルの表情から笑みが消え、荷物へ置いていた手がゆっくり下がる。


「話はついた」


「向こうが草場から離れることになった。少なくとも今季は、あそこへ群れを入れない」


「向こうが?」


「ああ。年長者同士で話したらしい。あれだけ怪我人が出たあとだからな。向こうだって、もう一度やりたいとは思ってない」


「じゃあ……終わったんだ」


「たぶんな」


 バヤルは草原へ目を向けた。風に揺れる草の向こうには、争いの跡など見えない。けれど、サランの脳裏には踏み荒らされた地面や、倒れた人々の姿がまだ残っていた。


「戦った分については、互いに問わないことになった。こっちにも向こうにも怪我人がいるし、どっちかだけが全部悪いって話でもないからな」


「うん」


「ただ、野営地まで来た九人のことは別だ」


 サランの表情が硬くなる。右手の掌に残った赤い跡が、急に熱を持ったように感じられた。


「あれは向こうの年長者も認めた。命令したわけじゃなくても、自分たちの若い連中が勝手にやったことだからって」


「それで?」


「家畜と食料をいくらか出させた。怪我した奴や、荒らされたところに分ける。大した量じゃないけど、何もなしってわけにもいかないからな」


 戦ったことへの賠償ではない。戦場を離れ、女や子供、老人のいる野営地を襲ったことへの埋め合わせなのだろう。


「その九人は?」


 サランが尋ねると、バヤルはすぐには答えなかった。風が二人の間を抜け、乾いた草の匂いを運んでくる。


「詳しくは分からない。生きて戻ったのは間違いないらしい」


 その言葉を聞いた瞬間、サランの肩から力が抜けた。


「……そっか」


 それ以上、サランは聞かなかった。


 家の中から、テムルが荷物を動かす音が聞こえてくる。布袋が床へ置かれる音に続いて、何かを確かめるような声が響いた。


 バヤルがサランを見る。


「サラン」


「なに?」


 いつもより真面目な声だったので、サランも自然と顔を向けた。


「仕事だったってのは分かってる。金を払って頼んだんだから、残ったのも仕事だってことは分かってる。でも……本当に助かった」


「ちゃんと報酬もらったんだから、いいよ」


「それでもだ」


 バヤルは少し視線を逸らした。風に髪を揺らされながら、言葉を選ぶように口を閉じる。


「あの九人が抜けていくのが見えたとき、心配だった」


 サランは黙った。


「戻ろうかとも思った。でも、あそこで俺まで抜けたら、こっちがもっと崩れる。だから行けなかった」


 バヤルの声には、判断が正しかったと理解している者の落ち着きと、それでも割り切れない悔しさが混じっていた。


「それでよかったよ。あそこでバヤルまで戻ってたら、負けてたかもしれないんでしょ?」


「たぶんな」


「だったら正解じゃん」


「頭では分かってる。でも、心配するのは別だろ」


 サランは返事をせず、頬へかかった髪を耳へかけた。指先に髪が触れ、風で冷えた頬へ自分の手の温かさが残る。


「……みんなのこと?」


 バヤルは一瞬黙った。


 その沈黙が、サランの胸の奥を落ち着かなくさせた。聞かなければよかったと思いながらも、答えを待ってしまう。


「……それもある」


 サランは足元の草へ視線を落とした。靴の先で草の根元を押すと、乾いた茎が折れ、土の匂いがわずかに立ち上る。


「……私も」


「ん?」


「帰ってくる人たちの中に、バヤルがいるか探した」


 バヤルが黙る。


 サランは言ってしまったあとになって落ち着かなくなり、視線を横へ逃がした。胸の奥が妙に熱く、手の置き場まで分からなくなる。


「怪我して帰ってきた人、多かったし。バヤルもどうなったのかなって思っただけだから」


「……そっか」


 バヤルの声が柔らかくなる。


「なに、その顔」


「いや」


「笑ってるでしょ」


「笑ってない」


「ちょっと笑ってる」


「気のせいだ」


 サランが睨むと、バヤルは堪えきれずに笑った。低い笑い声が風に混じり、サランの耳へ届く。その表情を見ているうちに、サランの口元も自然に緩んだ。


「姉ちゃーん!」


 家の方からテムルの声が飛んできた。


「この袋どこに置くのー?」


「今行く!」


 サランは声を返し、家へ向かって歩き出した。バヤルの横を通り過ぎるところで一度だけ足を止める。


「……ありがと」


「何が?」


「食料持ってきてくれたこと」


 バヤルが首を傾げる。


「それだけか?」


 サランは一瞬黙った。けれど、これ以上何かを言えば、さっき口にしたことまで見透かされそうな気がした。


 サランはバヤルの腕を軽く叩いた。服越しに硬い腕の感触が指先へ伝わる。


「それだけ!」


 そう言って、今度こそテムルのもとへ向かう。


 背後から小さな笑い声が聞こえたが、サランは振り返らなかった。頬を撫でる草原の風には、乾いた草と土の匂いが混じっている。その風が、さっきまでより少しだけ心地よく感じられた。


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