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草原のサラン ~風の果てまで~  作者: 岡悠
第1章 風渡る草原

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第18話 草陰の小さな命

 あの草場を巡る争いから、ひと月ほどが過ぎていた。季節は少しずつ進み、草原を渡る風にも冷たさが混じり始めていた。日中の日差しにはまだ強さが残っているが、朝夕には夜露に濡れた草から冷気が伝わってくる。サランとテムルの暮らしは、すっかり元へ戻っていた。朝になれば家畜の様子を見て、必要なら草場を移る。食料が減れば狩りへ出て、衣服や馬具を直しながら、次にどこへ動くかを考える。そんな日々の中で、あの争いも少しずつ過去の出来事になりつつあった。バヤルたちとの付き合いも続いていた。


 近くを通ればサランが野営地を訪ね、向こうから誰かが来ることもある。とりわけバヤルは以前より気軽に姿を見せるようになり、用事がなくても馬でやって来た。最初のうちは「近くまで来たから」と言っていたが、三度目くらいになると、サランも理由を聞かなくなった。テムルもすっかり慣れ、バヤルが来れば家畜の世話を手伝わせたり、サランがいない間に二人で話したりしていた。そんな穏やかな日々の中、その日サランは一人、いつもより遠くまで狩りに出ていた。朝早くに出発したため、日はまだ高くない。青毛のサルヒを歩かせながら、サランは草原の先へ目を凝らした。


 腰にはスリングと石の袋、鞍には獲物を持ち帰るための革紐と布袋を括りつけ、簡単な食料と水も積んでいる。ここ数日は小さな獲物しか獲れておらず、保存していた干し肉にも手をつけ始めていた。冬へ向けて、蓄えられるものは多い方がいい。


「もう少し先まで行ってみようか」


 サランが首筋を撫でると、サルヒは耳を動かして応えた。草原には、風雨に削られた低い丘が連なり、その間に浅い窪みがある。遠くには、半ば土へ埋もれた石壁も残っていた。昼近くまで進んだところで、サランはサルヒから降りた。地面へ膝をつき、草の間に残った小さな蹄の跡を確かめる。まだ新しい。


「いるね」


 サランは手綱を引き、歩き始めた。風向きを見ながら進み、時折しゃがんでは草の折れ方を確かめる。獲物の姿は見えないが、近くを通った痕跡はいくつか残っていた。その途中で、サランは足を止めた。


「……ん?」


 追っていたものとは違う跡があった。広い範囲で草が踏み倒され、土が剥き出しになっている。深い爪跡が幾重にも刻まれ、茶色く乾いた血が草の根元へこびりついていた。灰色がかった毛の塊や、別の色の毛も落ちている。風が吹くたび、乾いた草が擦れ合う。その音の下に、何かが争った気配だけが残っていた。


「喧嘩……?」


 サランは周囲を見回した。人間同士ではない。大きな動物が争ったのだろう。だが、姿は見えない。見えないことが、かえって不気味だった。サルヒが鼻を鳴らし、首を高くした。耳が忙しなく動き、窪みの方へ向けられる。


「大丈夫。もういないみたい」


 そう言いながら、サランは手綱を短く持った。草の乱れは、低い窪みの方へ続いている。余計なものを追う必要はないと思ったが、何が争ったのか分からないまま近くを歩く方が危険だった。サランは腰のスリングへ手を伸ばし、石を一つ握ったまま跡を辿った。数十歩進むと、風向きが変わった。血の臭いが、はっきりと鼻へ届いた。その奥に、獣の体臭と、腐り始めた肉の甘ったるい臭いが混じっている。喉の奥がひりつき、サランは思わず足を止めた。


「……死んでる」


 声に出した瞬間、窪みの向こうで草が揺れた。サランは息を殺し、握った石を構えた。風が止む。草原から音が消えた。しばらく待っても、何も動かない。それでも警戒を解かず、サルヒを低木へ繋ぎ、サランは一人で先へ進んだ。草を掻き分けた瞬間、目の前に大きな狼が現れた。横たわっている。いや、横たわったまま、動かない。普通の狼より明らかに大きく、灰色の長い毛は血と土で固まっていた。肩や脇腹、腹には深い傷が走り、片方の前脚は不自然な方向へ折れ曲がっている。


 サランは反射的に一歩下がった。死骸の口元には、まだ鋭い牙が覗いている。閉じた瞼の下に生気はなく、腹も胸も動いていない。それでも、次の瞬間には跳びかかってくるのではないかという錯覚が消えなかった。周囲には争った跡が残っている。深い爪跡、引きずられた草、飛び散った血。相手の姿はない。ただ、この狼がすでに死んでいることだけは分かった。


 ハエが集まり始め、腐敗の臭いも強くなっている。死んでから時間が経っている。それなのに、死骸の大きさと傷の深さが、ここで起きた争いの激しさを物語っていた。


「魔獣か……」


 普通の狼ではない。成獣の大きさからすれば、大型の狼系魔獣だろう。サランは距離を取ったまま死骸を観察した。牙も脚も傷も、自分一人で生きている状態のこいつと出会わなくてよかったと思わせるものだった。もし生きていたら、サルヒを連れて逃げることさえできなかったかもしれない。


「狩り場、変えた方がいいかな……」


 引き返そうとした。そのときだった。


「……きゅう」


 かすかな声が、死骸の向こうから聞こえた。サランの足が止まる。風や草の擦れる音ではない。ひどく弱々しく、途切れそうな鳴き声だった。


「……今の、何?」


 返事はない。サランは耳を澄ませた。腐臭の中に、かすかな息遣いが混じっている。聞き間違いではない。もう一度、声がした。


「きゅ……」


 今度は、はっきり聞こえた。サランは死骸の脇へ回り込んだ。足元の草を踏むたび、乾いた血が砕ける。母狼の身体が風を遮っていたせいで、その向こうだけが異様に静かだった。草の根元が窪み、毛と枯れ草が集められている。その中に、小さな毛玉がいくつも重なっていた。


「……子供?」


 サランは膝をついた。毛玉は四つあった。だが、動いているのは二つだけだった。残る二匹は、母狼の毛に埋もれるようにして冷たくなっている。触れなくても分かる。胸が動いていない。小さな身体には、もう温もりがなかった。


「……嘘でしょ」


 サランの声が掠れた。生きている二匹も、かろうじて息をしているだけだった。生まれてから、まだそれほど経っていないらしい。柔らかな毛は汚れ、土と血がこびりついている。一匹は母親を探すように鼻先を動かし、何度も冷たい毛へ顔を押しつけていた。もう一匹は、ほとんど動かなかった。サランは手を伸ばしかけて、ためらった。触れたら、壊れてしまいそうだった。


「……生きてる?」


 返事の代わりに、弱い呼吸が一つ漏れた。サランが指を近づけると、生きている一匹が口を寄せた。噛む力もなく、乳を探すように指先へ押しつけてくる。その小さな舌が、指先をかすかに舐めた。


「いつから飲んでないの……」


 問いかけても、答える者はいない。母狼は死んでから一日ではないだろう。この仔たちは、その間ずっと乳を飲めていない。冷たい身体を寄せ合い、母親の帰りを待ち続けていたのだ。サランは母狼の死骸を見た。大きな身体。深い傷。守ろうとしたのか、逃がそうとしたのか、仔狼のいる窪みの前には血の跡が集中している。最後まで、この子たちの前に立っていたのかもしれない。サランは一度立ち上がった。連れて帰るべきではない。魔獣であり、成長すればどれほど大きくなるか分からない。人に慣れる保証もない。


 自分は狩りに来たのだ。テムルも待っている。ここに残れば、母狼と同じように、いずれ他の獣に食われる。連れて帰れば、今度は自分たちが危険を抱えることになる。どちらを選んでも、簡単ではなかった。サランは数歩離れた。背後から、また鳴き声が聞こえた。


「きゅう……」


 振り返ると、二匹は互いに身体を寄せ、わずかな温もりを逃がさないよう丸まっている。弱い方の一匹が、もう一匹の腹へ顔を押しつけた。だが、そこから乳は出ない。母狼はもう動かない。置いていけば、死ぬ。分かっているから、足が動かなかった。サランは唇を噛み、目を伏せた。


「……見つけなきゃよかった」


 声が震えた。見なければ、知らずに済んだ。狩りを続けて、獲物を持って帰って、いつも通りテムルと夕食を囲めた。けれど、もう知ってしまった。この小さな命が、ここで消えていくことを。サランは長く息を吐き、そして、すでに鞍の荷から布を取り出している自分に気づいた。


「……やっぱり、置いていけない」


 生きている二匹を一匹ずつ持ち上げる。


軽かった。


 あまりにも軽く、腕の中に乗せた感触が、仔狼というより濡れた布のようだった。腹の下へ指を添えると、小さな肋骨の感触まで分かる。特に弱っている一匹を胸元へ寄せ、服越しに体温を伝えるよう包むと、仔狼がほんの少し身じろぎした。


「死なないでよ」


 サランは仔狼の小さな頭へ頬を寄せた。


「連れて帰るって決めたんだから。お願いだから、ここで諦めないで」


 二匹を布で包み、互いの身体が触れるようにして鞍の前へ固定する。布の隙間から、かすかな鳴き声が漏れてきて、サルヒが包みの匂いを気にして鼻を伸ばす。


「サルヒも心配だよね」


 サランは小声で言い、包みを片手で押さえた。


「この子たちは、もう誰にも守ってもらえないんだから」


 狩りは中止し、サランは二匹の様子を確かめながら、慎重に帰路についた。日が傾くにつれ風が冷たくなり、何度も布の中へ手を入れて、小さな身体がまだ温かいことを確かめた。指先に触れるたび、弱い鼓動が返ってきて、そのたびに、サランは手綱を握り直した。


「もう少し。もう少しだけ、頑張って」


 返事の代わりに、布の中で小さな身体がかすかに動いた。


*


 家へ戻ったころには、夕日が草原を赤く染めていた。テムルが家の前で待っていた。


「姉ちゃん、今日は――」


 サランの鞍に獲物はなく、代わりに妙な布包みが括りつけられている。しかも、中で何かが動いた。テムルの顔から笑みが消えた。


「……なに、それ」


 サランは鞍から降り、すぐに布包みを外した。


「拾った」


「何を?」


「仔狼」


 布を開くと、二匹の仔狼が身体を寄せ合っていた。


「狼?」


「たぶん、狼の魔獣」


「お母さんは?」


 サランは一瞬、答えられなかった。


「……死んでた」


 テムルは黙り、仔狼を見つめた。


「他にもいた?」


「いたよ」


 サランは布の中の二匹へ目を落とした。


「でも、この二匹だけ。生きていたのは」


 テムルは手を伸ばしかけ、サランを見る。


「触っていい?」


「優しくね。かなり弱ってる」


 指が仔狼の背中へ触れる。


「……冷たい」


「だから急ぐよ。ヤギの乳、取れる?」


「取れると思う」


「少しでいいからお願い。あと、柔らかい布も」


「うん!」


 テムルが駆けていく。サランは仔狼を胸元へ抱えたまま、何度もその呼吸を確かめた。弱い。あまりにも弱い。


「お願いだから、止まらないで」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。やがてテムルが乳を持って戻ると、サランは小さな布へ乳を染み込ませ、仔狼の口元へ近づけた。最初は反応がなかった。


「……頼むから飲んで」


 もう一度、鼻先へ触れさせると、しばらくして小さな舌がかすかに動いた。


「あ」


 テムルが声を漏らす。


「飲んだ」


 サランは息を吐いた。張りつめていた肩が、ほんの少し下がる。


「もう一匹にも」


 こちらは匂いに気づくと、自分から口を寄せてきた。だが、力が弱く、何度も口を離してはまた乳を探している。


「ゆっくりでいいよ」


 サランは声をかけながら、布を口元へ当て続けた。


「急がなくていい。少しずつでいいからね」


 二匹が少しずつ乳を舐める姿を、姉弟は並んで見つめていた。飲んでいる。ほんのわずかな量。それでも、今この瞬間は生きようとしている。


「姉ちゃん。この子たち、どうするの?」


 サランの手が止まった。


「元気になるまでは面倒見る」


「そのあとは?」


「そのあとは……まだ決めてない」


「飼う?」


「魔獣だし、大きくなる。危ないかもしれないでしょ」


「うん」


「だから、元気になってから考える」


「分かった」


 テムルは仔狼の背中をそっと撫でた。乳を舐め終えた二匹は、互いの身体へ鼻先を押しつけるように丸まっている。その小ささからは、草原に倒れていた母狼の巨体など想像できない。けれど、あの死骸のそばで震えていた姿を、サランは忘れられなかった。


「……元気になるまでだからね」


 サランが呟くと、テムルは少しだけ笑った。


「うん。元気になるまで」


 腕の中から伝わる二つの小さな温もりが、先ほどよりほんの少し強くなったような気がした。


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