第19話 小さな客人
仔狼を拾った翌朝、サランはまだ東の空が白み始めるより前に目を覚ました。
まともに眠ったとは言えなかった。夜の間、仔狼が弱々しく鳴くたびに毛布から身体を起こし、冷ましておいたヤギの乳を少しずつ与えては、布に包んだ身体が冷えていないか確かめた。反対に鳴き声が途絶えれば、それはそれで不安になり、暗闇の中で胸元へ指を添えて呼吸を確かめる。その繰り返しで、目を閉じていた時間はあっても、深く眠れた時間がどれほどあったのか自分でも分からなかった。
夜明け前のゲルには、消えかけた火から立ちのぼる薄い煙と乾いた羊毛、それに昨日まではなかった獣の匂いが混じっている。成獣ほど強くはなく、湿った毛と乳を合わせたような匂いだった。
サランは毛布を肩から落として身体を起こすと、眠気の残る目を擦るより先に二匹の寝床へ手を伸ばした。
柔らかな布を重ねた中で、二匹は互いの身体へ鼻先を押しつけるように寄り添っている。濃い灰褐色の仔は四肢を身体の下へ引き寄せて丸まり、その隣では銀灰色の仔が兄弟の脇腹へ顔を埋めていた。
薄暗い中では銀灰色の仔が呼吸しているのか分かりにくく、胸の奥へ嫌なものが走った。
サランはそっと胸元へ指を当てる。
柔らかな毛の下から小さな鼓動が返ってきた。弱いながらも一定の間隔を保ち、昨日草原で抱き上げたときより身体も温かい。
「……よかった。二匹とも頑張ったね」
無意識に詰めていた息を吐くと、その声に反応したのか、濃い灰褐色の仔が鼻をひくつかせた。重そうに顔を持ち上げ、前脚へ力を入れようとしたものの身体を支えられず、すぐに銀灰色の仔の背へ顎を落とす。
「まだ無理しなくていいよ。今は寝てなさい」
サランは小さな背中を指先で撫で、ずれていた布を掛け直した。
毛にはまだ昨日の汚れが残っていたが、触れたところから確かな体温が返ってくる。それだけでも、冷えきった身体を抱えて帰ってきた昨日とはまるで違って感じられた。
まだ助かったわけではない。それでも二匹は、夜を越えた。
眠っているテムルを起こさないよう静かにゲルを出ると、夜明け前の冷気が火照った頬へ触れ、寝不足でぼんやりしていた頭を少しだけ冴えさせた。空はまだ青黒く、東の地平だけが薄く白み始めている。夜露に濡れた草からは濃い青臭さが立ち、歩くたび靴の先が湿って冷たくなった。
家畜たちも目を覚まし始め、ヤギの低い鳴き声に混じってボルが鼻を鳴らし、少し離れた場所ではサルヒが長い首を下げて露の残る草を食んでいた。
いつもと変わらない朝だった。
ただ、ほとんど眠っていない身体は重く、肩から背中にも鈍い疲れが残っている。それでもゲルの中では二匹が生きていると思えば、今はそれだけで十分だった。
「……姉ちゃん?」
背後から眠たそうな声が聞こえた。
振り返ると、テムルがゲルの入口から顔を出し、あちこちへ跳ねた髪のまま目を擦っている。
「姉ちゃんがいなかったから起きたんだけど、それより狼は? 二匹とも大丈夫?」
「今のところはね。昨日より身体も温かいし、黒っぽい方は少し動けるようになってるよ」
その返事だけで、眠そうだったテムルの目が一気に開いた。
「じゃあ見てくる!」
「待って。その前に手を洗って。まだ弱ってるんだから、できるだけ清潔にしないと駄目でしょ」
「あ……分かってるよ。ちょっと忘れてただけ」
気まずそうに笑う弟の寝癖だらけの頭を見ていると、叱る気も失せてしまった。
二人はそのまま朝の仕事へ取りかかった。サルヒとボルの様子を見て、トゴの荷紐が擦れていないか確かめ、三頭のヤギにも餌をやる。普段と同じ仕事なのに、今日はどちらも何かするたびゲルへ目を向け、仔狼の声が聞こえないか気にしていた。
やがてヤギから乳を分けてもらうと、サランは小さな器へ移して温めた。熱くしすぎないよう指先で何度も確かめ、ちょうどよくなったところで二人揃ってゲルへ戻る。
濃い灰褐色の仔は乳の匂いに気づいたらしく、布を近づける前から鼻先を小さく動かした。乳を染み込ませた柔らかな布を口元へ持っていくと、自分から顔を寄せ、小さな舌で少しずつ舐め取っていく。
「昨日よりずっと飲んでるね。この子は少し元気になってきたみたい」
サランの言葉にテムルも嬉しそうに頷いたが、銀灰色の仔へ移ったところで、その表情から笑みが消えた。
兄弟の身体から離されても力なく丸まり、乳を近づけてもほとんど反応しない。掌で身体を支えて起こしてみても首には力が入らず、頭が頼りなく傾いてしまう。
「姉ちゃん……こっちは飲まないよ」
「まだ分からないから、焦らないで。少し待ってみよう」
サランは腹を圧迫しないよう身体を支え、乳を含ませた布を鼻先へ触れさせた。湿った布から乳の匂いが漂い、小さな鼻先へ一滴だけ付着する。
「少しでいいから飲んで。昨日だって頑張ったんだから」
テムルも息を潜めて見守っていた。
しばらく反応はなかったが、やがて小さな鼻が僅かに動き、もう一度匂いを探るように震えた。サランが急かさず布を当て続けていると、唇の間から小さな舌が覗き、乳を一滴だけ舐め取った。
「飲んだよ、姉ちゃん」
「うん。まだ安心はできないけど、この子もちゃんと生きようとしてる」
少しずつ乳を与えて寝床へ戻すと、濃い灰褐色の仔が身体をもぞもぞと動かし、銀灰色の仔へ脇腹を押しつけた。二匹は互いの温もりを探すように重なり、そのまま静かに丸くなる。
寝床の前へ座ったテムルは、しばらく二匹を見比べていた。
「こうして見ると、色が全然違うね」
「そうだね。まだちゃんと身体を洗えないから分かりにくいけど、一匹は黒っぽい灰色で、こっちはかなり白っぽいね」
濃い灰褐色の仔は背から尾へ黒い毛が混じり、銀灰色の仔は耳や背筋、尾の先だけがやや濃い。同じ母親から生まれた仔でも、並んで眠っていると印象はかなり違っていた。
「名前、どうする?」
「だから、元気になってから考えるって言ったでしょ」
「でも姉ちゃん、もう考えてるでしょ」
何かを見透かしたように笑うテムルへ言い返しかけたものの、サランは二匹へ目を戻し、そのまま口を閉じた。
*
日が少し高くなる頃には朝の冷たさも和らぎ、草原を渡る風にも僅かな暖かさが混じり始めていた。
サランはゲルの外で洗った布を干しながら、何度目か分からない欠伸を噛み殺した。寝不足の身体は重かったが、仔狼の寝床を清潔に保つために使える布は限られている。汚れたまま放っておくわけにもいかなかった。
そのとき、風の音に混じって規則正しい蹄音が聞こえてきた。
顔を上げるより早く、ボルのそばにいたテムルが草原の向こうを指さす。
「姉ちゃん、バヤルだよ。また来た」
「本当だ。最近よく来るね」
何気なく口にすると、テムルが横目で姉の顔を見て、何か面白いものでも見つけたように笑った。
「……何?」
「何も言ってないよ」
「今、絶対何か考えたでしょ」
追及される前に逃げるつもりなのか、テムルは笑いながらボルの方へ歩いていった。
サランはその背中を睨んだものの、追いかけるほどでもない。濡れた布を紐へ掛け直しているうちに、黒鹿毛のハルガが近くまで来て速度を落とした。
バヤルは馬を止めて鞍から降りると、ハルガの首筋を一度撫でてから歩いてきた。
「おはよう……って、ひどい顔してるな。昨日ちゃんと寝たのか?」
「失礼ね。ちゃんと寝たよ」
「それなら、なんでそんなに目の下がひどいんだ。何度も起きたんだろ?」
「仕方ないでしょ。放っておいたら死ぬかもしれなかったんだから」
言ってから、サランはしまったと思った。
案の定、バヤルは眉を寄せてゲルへ視線を向ける。
「死ぬかもしれないって、何かいるのか?」
「……狼の子供。昨日、二匹拾ったの。母親が死んでて、生きてた子だけ連れて帰ってきた」
バヤルはしばらく黙ってサランを見たあと、妙に納得したような顔になった。
「……何、その顔」
「いや、お前ならやりそうだと思っただけだ」
「それ、どういう意味?」
「そのままの意味だよ。それより見てもいいか?」
サランは不満そうに眉を寄せながらも頷いた。
「まだかなり弱ってるから、見るだけね」
二人がゲルへ入ると、いつの間に戻ってきたのかテムルも当然のようについてきた。
外の日差しから薄暗いゲルへ入ったバヤルは一度目を細め、火と羊毛の匂いに混じる獣臭と乳の甘い香りの奥へ視線を向けた。
寝床の前へしゃがみ込んでも手は伸ばさず、二匹の耳や脚、毛並みを順番に観察する。
「かなり小さいな。生まれてからどれくらいだ?」
「分からない。目は開いてるけど、まだまともに歩けない。でも母親は普通の狼よりずっと大きかったよ。灰色の長い毛で、脚も牙も大きくて、身体中に傷があった」
「他にも仔がいたのか?」
「四匹いた。でも、生きてたのはこの二匹だけ」
バヤルの表情が僅かに変わった。
しばらく二匹を見比べてから、小さく息を吐く。
「たぶん、大草原狼だな。草原の奥にいる大型の狼の魔獣で、普通の狼よりかなり大きくなる。魔力を持ってるし、頭もいい」
「大草原狼……。どれくらい大きくなるの?」
「母親を見たんだろ。だいたいそのくらいだと思っておけばいい」
昨日、窪みの中に横たわっていた母狼の巨体が脳裏へ蘇った。血と土で固まった灰色の長い毛、太い脚、口元から覗いていた牙は、死んでいると分かっていても近づくのを躊躇うほどだった。
その姿と、布の中で寄り添っている二匹が同じ生き物だとは、どうしても思えない。
「……この子たちが、本当にあんなに大きくなるの?」
「俺が嘘をついてどうする」
横で聞いていたテムルは不安がるどころか、目を輝かせて二匹を見た。
「そんなに大きくなるなら、すごいね」
「喜んでる場合じゃないでしょ。あんな大きさになるなら、育てても大丈夫なのか考えないと」
「育て方を間違えれば危ないだろうな。ただ、大草原狼は頭がいい。群れで暮らすし、仲間を覚えるとも聞く。何でも見境なく襲うような魔獣じゃない」
「飼ってる人もいるの?」
「俺は聞いたことがない。そもそも仔を拾って育てる奴がほとんどいないからな」
サランは寝床へ視線を落とした。
やはり簡単なことではないのだろう。
すると、バヤルが少し間を置いて続けた。
「だからって、今すぐどうするか決める必要もないだろ。今こいつらを草原へ戻せば、たぶん死ぬ。育てられるかとか、危険になるかとかは、生き延びてから考えればいい。まだ自分で乳も取れない仔を前にして、成獣になったときの心配ばかりしても仕方ないからな」
思っていなかった言葉に、サランは顔を上げた。
それは昨日から自分が何度も考えていたこととよく似ていた。
助けたことが正しかったのかは分からない。大人になれば自分より遥かに大きくなる魔獣を二匹も連れ帰って、本当に育てられるのかという不安もある。
それでも、冷たくなった母狼のそばで震えていた二匹を、あの場所へ置いてくることだけはできなかった。
「……私もそう思ったから連れて帰ったの」
「だったら、今はそれでいいだろ。人の匂いを覚える前から育てれば慣れる可能性もあるし、様子を見ながら考えればいい」
「絶対に大丈夫ってわけじゃないんだよね」
「もちろん。大きくなって危ないと思ったら、そのときはそのときだ。でも、それを決めるのは今じゃない」
その言葉には、無責任に大丈夫だと背中を押すのとも、危険だから捨てろと決めつけるのとも違う現実味があった。
それまで黙って聞いていたテムルが、待ちきれないように口を挟む。
「じゃあ、今はここにいていいんだよね?」
「ああ。少なくとも、こいつらが元気になるまではな」
バヤルが答えた直後、寝床の中で濃い灰褐色の仔が身体を動かした。
「きゅう……」
小さな鳴き声にサランがしゃがむと、仔狼は薄く目を開き、鼻先を動かしながら彼女の手へ顔を寄せてくる。
指を近づけると匂いを確かめるように鼻を押しつけ、そのまま安心したように顎を落とした。
横から見ていたバヤルが僅かに笑う。
「もうお前の匂いを覚え始めてるんじゃないか? 昨日から寝ないで世話してるんだろ」
「一日しか経ってないよ」
「それでも、こいつらにとってはずっとそばにいる相手だからな。覚えててもおかしくない」
サランは仔狼の背をゆっくり撫でた。
昨日は冷えきっていて、触れるたびに生きているのか不安になった身体が、今は指先へはっきり温もりを返してくる。
「そろそろ乳をあげようかな」
「どうやって飲ませてるんだ?」
「布に染み込ませて口元へ当ててる。そうすると少しずつ舐めるから」
説明を聞いたバヤルは少し考え込み、何かを思い出したように顔を上げた。
「うちに仔山羊へ乳を飲ませる道具があったはずだ。親が乳を出さなかったり、弱った仔へ飲ませたりするときに使う。こいつらに合うかは分からないが、布より楽かもしれない。それと、夜用に柔らかい毛皮も探してみる」
「そこまでしてもらわなくても大丈夫だよ」
「使ってないものを持ってくるだけだ。次に来るときまでに探しておく」
「……じゃあ、お願い。見つかったら本当に助かる」
サランが笑うと、バヤルは一瞬こちらを見たあと、なぜか少しだけ視線を逸らした。
「大したことじゃない。それより、乳をやるなら手伝うぞ」
サランは火のそばで朝に搾った乳を温め直した。
指先で温度を確かめているうちに甘い匂いがゲルへ広がり、寝床では濃い灰褐色の仔が早くも鼻を動かし始める。
「やっぱりこっちは食いしん坊だね」
「元気になってきたんじゃない?」
テムルが嬉しそうに寝床のそばへ座る。
濃い灰褐色の仔は昨日より随分楽に飲ませられた。布を口元へ近づければ自分から舌を動かし、前脚まで僅かに動かして乳を求めてくる。
問題は銀灰色の仔だった。
「バヤル、この子の身体を支えてくれる? テムルは乳の器をお願い」
「俺が持つのか?」
「他に誰がいるの。お腹を押さえないように、優しく支えるだけでいいから」
「弱ってるって聞いたあとに簡単に言うなよ……」
そう言いながらも、バヤルは寝床の脇へ膝をついた。
普段なら馬の手綱や武器を迷いなく扱う大きな手が、掌に収まるほどの仔狼を前にすると妙に慎重になる。最初は指先だけを伸ばし、腹を圧迫しないよう何度も位置を変えながら、ようやく身体を包むように支えた。
「これでいいか?」
「うん。そのまま動かさないで」
サランが乳を含ませた布を口元へ近づける。
銀灰色の仔は最初、鼻を僅かに動かしただけだった。
三人とも声を出さず、その小さな顔を見守った。
やがて鼻先がもう一度動き、しばらくして小さな舌が布へ触れる。
「姉ちゃん、飲んだよ」
「うん。このままゆっくり飲ませよう」
サランは仔狼の動きに合わせ、少しずつ布へ乳を含ませた。
昨日はほとんど反応しなかった仔が、今日は弱々しいながらも自分から次を求めて鼻先を動かしている。
飲ませ終えると、バヤルは慎重に銀灰色の仔を寝床へ戻した。その隣へ濃い灰褐色の仔を寄せると、二匹はすぐ互いの温もりを探すように身体を重ね、鼻先を寄せたまま静かに目を閉じた。
火の爆ぜる小さな音の間に、二匹分のかすかな寝息が聞こえる。
「姉ちゃん、この子たち元気になるよね?」
テムルの声には、朝よりも強い期待が混じっていた。
サランはすぐに大丈夫とは答えなかった。
昨日、同じ場所で冷たくなっていた二匹の仔を見ている。生き物の命が、願っただけで助かるものではないことくらい分かっていた。
それでも今、指先を置いた小さな背中からは昨日より確かな温もりが伝わり、呼吸に合わせてゆっくり上下している。
「……うん。元気にしてあげよう。二匹ともちゃんと走れるようになるまで、私たちで育てよう」
テムルは嬉しそうに頷いた。
バヤルも何も言わなかったが、眠る二匹を見つめる表情は穏やかだった。
昨日まで、このゲルには仔狼の匂いも、小さな寝息もなかった。
今は二匹分の温もりが布の中にあり、その周りを囲むように三人が座っている。
サランは二匹の背を一度だけゆっくり撫でた。
まだ先のことは分からない。
大草原狼という魔獣を本当に育てられるのかも、この小さな命が無事に明日の朝を迎えられるのかも。
それでも、昨日より確かに温かくなった身体に触れていると、今やるべきことだけは迷わなかった。
二匹が自分の脚で草原を走れるようになるまで、できることをする。
その思いは、小さな鼓動を指先に感じるたび、昨日よりも少しずつ確かなものになっていた。




