第20話 並ぶ蹄音
二匹の子狼を拾ってから、十日あまりが過ぎていた。
あれほど弱々しかった二匹は、今では朝になるとゲルの中を這い回り、入口の布を鼻先で押して外へ出ようとするまでになっている。まだ大草原狼と呼ぶには小さく、丸みを帯びた身体には幼さが残っていたものの、抱き上げるたびに命の軽さを感じることは、もうなかった。
「こら、そっちは駄目だって。姉ちゃん、こいつ絶対に走るの速くなるよ」
ゲルから飛び出した薄灰色の子狼を追い、テムルが草の上へ手を伸ばすと、子狼は尻を高く上げて待ち構え、捕まりそうになった瞬間に短い脚で逃げ出した。ようやく抱き上げた弟を見ながら、サランは腰へ革袋を結びつける。
「大草原狼なんだから、遅かったら困るでしょ。でもサルヒより速くなるかって聞かれたら、それは無理だと思うけど」
少し離れた草地では、その名を呼ばれたサルヒが顔を上げ、朝日を受けた青毛の首筋を輝かせながらこちらへ耳を向けた。その近くではボルやトゴ、山羊たちも朝の草を食んでおり、最初の数日は子狼の鳴き声だけでも落ち着かなかった家畜たちも、今ではゲルの周囲に二匹がいることには慣れつつあった。
サランはサルヒへ近づき、鞍の位置と腹帯を確かめた。子狼を拾ってからも狩りをやめたわけではなかったが、弱った二匹をテムルだけに長時間任せるのが心配で、ここ十日ほどは半日程度で戻れる範囲に留めている。そのため保存していた肉も少しずつ減っており、今日は久しぶりに遠くまで出て、大きな獲物を狙うつもりだった。
「今日は遠くまで行ってくるよ。二匹も元気になったし、そろそろ大きいのを獲っておかないと、保存してる肉も減ってきたからね」
「狩りって言って遠くまで遊びに行ったら駄目だよ」
テムルが笑いながら言うので、サランは指先でその額を軽く弾き、腕の中で驚いた子狼が身をよじるのを見ると、今度は落とさないようにちゃんと抱いておくよう言い聞かせた。
そのとき、サルヒの耳が遠くから響いてきた蹄音へ向いた。
「バヤルだね」
テムルに言われるより先に、サランにも近づいてくる馬上の姿が分かっていた。
ここ十日ほど、バヤルは三日に一度ほど姉弟のゲルへ顔を出している。最初は子狼のための布や器、次には干し肉、その次には大草原狼に詳しい老人から聞いた話と、訪ねてくるたび一応の理由はあった。
「今日は何を持ってきたんだろうね」
「知らないよ。別に何か持ってこないと来ちゃいけないわけじゃないでしょ」
何気なく答えてから、自分で何を言ったのか気づいたサランは黙って腹帯を締め直した。その横でテムルが小さく笑ったため、言いたいことがあるなら言えばいいと睨んだものの、弟は何も言っていないと笑いを堪えながら子狼を抱き直した。
そうしているうちにバヤルが到着し、馬から下りるなり二匹の子狼へ目を向けた。
「よう。二匹ともずいぶん元気になったな。最初に見たときとは別物みたいだ」
薄灰色の子狼はすぐに駆け寄り、膝を折ったバヤルが差し出した手へ鼻先を寄せて匂いを嗅ぎ始める。
「三日に一回も来れば、この子たちだって覚えるでしょ」
サランが何気なく言うと、バヤルは一瞬だけ手を止めたものの、確かにそれだけ来ていれば覚えるだろうと笑った。
「そういう意味じゃ……まあ、いいけど」
サランは顔を逸らして鞍へ荷物を括りつけ、その背後でまたテムルが笑っているのには気づかないふりをした。
子狼をひとしきり撫でたバヤルは、やがて鞍を整えているサランへ目を向けた。
「今日は狩りか? ずいぶんしっかり準備してるな」
「久しぶりに遠くまで行くつもり。保存してる肉も減ってきたし、できれば大きいのを一頭獲りたいんだよね」
「だったら俺も行くよ。二人なら大物でも仕留めやすいし、持って帰るのも楽だろ」
あまりに当然のように言われてサランの手が止まったが、一人でも獲れるし今までだってそうしてきたと返しても、バヤルはそれを知ったうえで二人の方が楽だと言っているだけだと平然としている。
断る理由も思いつかず、サランは最後の荷紐を強く締めた。
「……来たいなら来れば? ただし、足を引っ張らないでよ」
「それはこっちの台詞だな。途中で競走を始めるなよ」
視線がぶつかり、しばらく睨み合ったものの、先にバヤルが吹き出したため、サランも結局は口元を緩めながらサルヒへ跨がった。
*
二頭の馬が草原を駆け、先を走るサルヒの青毛が陽光を弾きながら長い草を割っていくと、蹄の下から蹴り上げられた土の粒が後方へ飛んだ。
「遅いよ! 最近サルヒを思い切り走らせてあげられなかったんだから、少しくらいついてきて!」
「狩りに来たんだろ! いつから競走になったんだ!」
後ろから聞こえる声にサランは笑い、しばらく好きなだけサルヒを走らせてから速度を落とした。久しぶりに広い草原を駆けていると、ここ十日ほど身体の内側へ溜まっていた重さまで、頬を叩く風と一緒に削ぎ落とされていくようだった。
やがて人の生活の痕跡が薄くなったところで、二人は自然に歩調を落とし、獲物の痕跡を探し始めた。
先に気づいたのはバヤルだった。地面を指差されてサランも馬を下り、草の間へ残された蹄跡の縁へ触れてみると、踏み込まれた土にはまだ湿りが残り、倒された草も十分には起き上がっていなかった。
「まだ土が乾いてないし、草も起きてないから、そんなに遠くへは行ってないね」
「三頭……いや、四頭いるな。近くに糞も残ってるから、少し前までこの辺りにいたはずだ」
サランは草の穂を一本ちぎって指先から離し、斜め前方へ流れていく様子を確かめると、このまま近づけば匂いが届くため南側へ回ろうと提案した。
そこから先は、ほとんど言葉を交わさなかった。
サランが片手を上げればバヤルは止まり、指先を横へ振れば進路を変える。バヤルが地面へ視線を送れば、サランもそこに残された跡を探した。いつからそうなったのか、長く説明しなくても相手が何を見て、どちらへ動こうとしているのかが分かるようになっていた。
しばらく進むと、前方の草が低い位置から波打つように揺れ、二人はほとんど同時に馬を止めた。
サランが右側を示すとバヤルは黙って頷き、二人は距離を取りながら獲物を挟むように動き始める。
大きく回り込んだ先の低地には四頭の草食獣がおり、若い二頭を挟むように成獣が立っていた。そのうち一頭はひときわ大きく、肩も高ければ胴も厚く、首から背中へ続く筋肉が草の上へ盛り上がって見える。
狙うなら、あれだった。
サランは腰のスリングへ手を伸ばし、サルヒをゆっくり右へ進ませながら草の起伏へ身体を隠した。外側の一頭が顔を上げた瞬間にはサルヒの首へ身を伏せ、獲物の視線が外れるまで動かずに待つ。
やがて反対側の草が大きく揺れた。
風下へ回り込んだバヤルが、わざと草を踏み鳴らしたのだ。
四頭は一斉に頭を上げ、そのまま身を翻して走り出した。大きな一頭が群れの先頭へ出て、若い二頭を従えるようにサランの待つ方向へ駆けてくる。
サランは思わず笑みを浮かべ、サルヒを走らせた。
大きな獣は速度こそ速いが、身体が重い分だけ方向を変える瞬間にわずかな遅れが生じる。サランは獲物と並ぶように走りながら石弾をスリングへ収め、横風に髪を頬へ叩かれながら、その瞬間を待ち続けた。
やがて狙っていた獣が右へ寄り、ほかの三頭との間にわずかな空間が生まれた。
スリングを回すと革紐が風を切り、獣の前脚が地面へ着いて体重が乗った瞬間、サランは指を開いた。
石弾は一直線に飛び、前脚の付け根へ叩き込まれた。鈍い音とともに脚が崩れ、大きな身体は勢いを殺せないまま数歩もつれ、草を押し潰して倒れ込む。
残る三頭は左右へ散っていったが、大きな獣はまだ生きており、傷ついた前脚を引き寄せながら首を持ち上げ、再び立とうとしていた。
サランがサルヒを減速させたところへ横からバヤルが駆け込み、馬を走らせたまま弓を引き絞る。獣が首を上げた瞬間に弦が鳴り、放たれた矢は首の付け根へ深く突き刺さった。
獣は一度だけ大きく身体を震わせ、蹄で地面を掻いたあと、力を失って横倒しになった。
遠ざかる三頭の蹄音を聞きながら、サランは獲物の呼吸が完全に止まるまで待ち、それからようやくサルヒを下りた。
「言っておくけど、私一人でも獲れたからね」
「最初に言うことがそれか? 俺が追い込んで最後も仕留めたんだから、少しくらい助かったって言ってもいいだろ」
サランは獲物の傷を確かめながら、そもそも自分が外していれば倒れていないと返したが、バヤルも自分が追い込まなければあれほど狙いやすい場所へ出なかったと譲らない。
しばらく言い合った末、サランは渋々といった様子で頷いた。
「……じゃあ、二人だったから早く獲れた。それなら文句ないでしょ」
「最初からそれでいいんだよ。二人で獲ったんだから、それでいい」
顔を見合わせると、どちらからともなく笑った。
*
獲物の処理を終えた頃には、太陽が少し西へ傾いていた。
二人は小高い丘で馬を休ませ、自分たちも草の上へ腰を下ろした。サランは水袋を傾け、狩りの熱が残る身体へ水を流し込むと、汗の引き始めた首筋へ冷たい風が触れる感触に目を細めた。
少し離れたところでは二頭の馬が静かに草を食んでいる。
二人の間にしばらく会話はなかったが、その沈黙は不思議と嫌ではなかった。以前なら何か話さなければ落ち着かなかったかもしれないのに、今は風が草を揺らす音や、馬が草を噛む音を聞いているだけで十分だった。
やがてバヤルが水袋を膝へ置き、草原を眺めたまま口を開いた。
「最近、お前のところへ行くのが普通になってきたな。最初は狼の様子を見に行ってただけだったはずなんだけど」
「三日に一回も来てればね。テムルも狼たちも、もうバヤルが来ても全然気にしなくなったし、私だって嫌だったら、とっくに来るなって言ってるよ」
そこまで答えてから、サランは自分の言葉に気づいて水袋の口を閉じる手を止めた。
隣から返事がない。
少し気になって横目を向けると、バヤルは前を見たまま口元だけを笑わせていた。
「……何がおかしいの?」
「いや。俺が来るの、お前も嫌じゃないんだなと思って」
「だから今そう言ったでしょ。何回も言わせないでよ」
耳の辺りが熱くなるのを感じたサランは、誤魔化すようにバヤルの肩を軽く押した。身体を少し傾けたバヤルは、もし怪我でもしたら獲物を一人で持ち帰ることになるぞと言い返す。
「それは困る。せっかく二人で獲ったんだから、ちゃんと持って帰らないと」
「俺じゃなくて獲物の心配か?」
サランは一瞬だけ考えるふりをし、それから衣服についた草を払いながら立ち上がった。
「……さあ? 日が暮れる前に帰りたいから、そろそろ行こう」
答えを濁されたバヤルは苦笑しながら立ち上がり、二人はそれぞれの馬へ戻った。
*
夕暮れの草原を、二頭の馬が並んで進んでいた。
獲物を運んでいるため往路のようには走れず、速歩と常歩を交えながら進むうち、太陽は少しずつ西へ傾き、淡い金色へ染まった草の影が長く地面を横切っていく。
サランは前を向きながら、隣から聞こえる蹄音へ耳を傾けていた。
来るときより少し近いところから聞こえる。
サルヒとバヤルの馬の間隔も、朝よりわずかに狭くなっていたが、どちらもそのことを口にはせず、自然に決まった距離のまま草原を進んでいく。
やがて金色に染まった草の向こうへ、小さなゲルが見えてきた。その前ではテムルが大きく手を振り、足元では二匹の子狼が姉たちの帰りに気づいたのか、草を蹴りながら忙しなく走り回っている。
「姉ちゃん、おかえり!」
遠くから届いた声にサランは自然と笑い、軽く手綱を動かしながら大きな声を返した。
「ただいま! ちゃんと大きいの獲ってきたよ!」
サルヒが少しだけ速度を上げると、そのすぐ隣でもバヤルの馬が歩調を合わせた。
二つの蹄音が日暮れ前の草原へ重なり、夕日に長く伸びた二人の影もまた、離れることなく並んだままゲルへ近づいていった。




