第21話 月夜の名前
ゲルへ戻ったころには、陽は草原の端へ沈みかけ、西の空に残った赤い光が低い雲の縁を銅色に染めていた。夕風に草の穂が揺れ、昼の熱を抱えていた大地から少しずつ温もりが失われていく。
サランがサルヒから降りると、頬を撫でた風にはもう夜の冷たさが混じっていた。
「姉ちゃん、すごい! こんなに大きいの獲ったの?」
待っていたテムルが二人の運んできた獲物へ駆け寄り、しゃがみ込んで覗き込む。サランが「私とバヤルでね」と答えるより早く、隣で荷を下ろしていたバヤルが得意げに胸を張った。
「最後に仕留めたのは俺だけどな。ちゃんと矢を当てて倒したんだから、そこは間違えるなよ」
「私が先に脚を止めたからでしょ。あのまま走られてたら、バヤルだって簡単には射てなかったんだから」
腰へ手を当てて睨むサランに、バヤルは獲物を地面へ下ろしながら肩をすくめた。
「はいはい、二人で獲ったことにしておく。それなら文句ないだろ?」
「最初からそう言ってるの」
二人の顔を交互に見ていたテムルが、とうとう堪えきれずに吹き出した。
「姉ちゃんたち、本当に仲いいよね。獲物一匹でそんなに言い合えるくらいなんだから」
「今のどこを見たらそうなるのよ」
サランが眉を寄せると、テムルは笑ったまま獲物へ視線を戻した。その足元へ二匹の仔狼が駆け寄り、濃い灰褐色の一匹が肉の匂いに鼻を動かして近づこうとする。
「こら、まだ駄目だよ。もう少し大きくなるまでは山羊の乳で我慢しようね」
テムルが仔狼を抱き上げている間に、サランはサルヒの鞍を外し、バヤルも袖をまくって作業へ加わった。
三人で獲物を解体し、今夜食べる分を取り分け、残りには保存のための処理を施していく。刃物が肉を切る音や草を踏む足音が暮れゆく草原へ重なり、火を起こすころには、藍色へ変わり始めた空に最初の星が浮かんでいた。
乾いた草と細い枝へ移った火が薪を舐めるように広がると、その周囲だけが夜から切り取られたように明るくなる。ゲルの白い布も、並べた道具も、二匹の仔狼の毛並みも炎が揺れるたびに明暗を変え、その小さな輪の外には広すぎる草原と深まりゆく夜があった。
サランは肉を焼きながら、手を伸ばせば届くところにテムルとバヤルがいることを、いつもより強く意識していた。
脂が火へ落ちて香ばしい匂いが立つと、濃い灰褐色の仔狼が膝元へ寄ってきた。鼻を忙しく動かしながら前脚まで掛けようとするので、サランは胸を優しく押し戻す。
「そんな顔をしても、まだ食べさせないよ。もう少し大きくなってからね」
「そいつ、本当にサランに懐いたな。拾ってからずっと世話してるから、お前を親代わりだと思ってるんじゃないか?」
火の向こうでバヤルが笑うと、テムルは膝の上の銀灰色の仔を撫でながら得意そうに胸を張った。
「だったら、こっちは僕のことが一番好きなんだよ。いつも僕のところに来るし、こうやって撫でても逃げないから」
「お前が一日中抱いてるからじゃないのか?」
バヤルに指摘されても、テムルは聞く耳を持たず、仔狼を抱き直して満足そうに笑っている。
そんな二匹を見比べていたバヤルが、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、まだ名前をつけてなかったよな。いつまでも黒い方とか白い方って呼ぶわけにもいかないだろ?」
「決めようとは思ってたの。元気になるまではって考えてたけど、もうそろそろいいかもね」
サランが焼けた肉を裏返すと、テムルもすぐに身を乗り出し、三人で考えようと言い始めた。
いくつか候補を出してみたものの、呼びにくい、似合わないとテムルが次々に却下し、バヤルが呆れた顔をする。そのやり取りを聞きながら、サランは膝元へ戻ってきた濃い灰褐色の仔を抱き上げた。
拾った日の頼りなさはもうない。腕の中で身をよじる力も強くなり、耳も忙しく動いている。
「この子は……風に関係する名前がいいかな。いつか草原を走れるようになったら、風みたいに速くなってほしいから」
そう言いながら耳の付け根を撫でているうちに、一つの音が自然と口からこぼれた。
「……フルン」
もう一度同じ名前を呼ぶと、仔狼が耳を動かし、サランの顎へ鼻先を寄せる。
テムルが嬉しそうに身を乗り出した。
「今、絶対返事したよ。フルンって名前が気に入ったんだよ」
「耳が動いただけかもしれないでしょ。でも……フルンか」
地面へ下ろすと、仔狼はすぐサランの脚へ身体を寄せた。バヤルまで「もう決まりだろ」と笑うので、サランはしばらく迷ったあと、小さな背を撫でながら頷いた。
「じゃあ、この子はフルン。ちゃんと風みたいに走れるくらい元気になりなさいよ」
続いてテムルが銀灰色の仔を抱き上げる。
サランは夜空を見上げた。雲の切れ間には細い月が浮かび、欠けた姿のまま草原へ淡い光を落としている。
「こっちは月から取ろうかな。銀色の毛も、なんとなく月みたいだし……ツァラはどう?」
「ツァラ?」
「古い言葉で、月っていう意味」
テムルが腕の中の仔狼へ「ツァラ」と呼びかけると、銀灰色の仔は伸ばした鼻先で彼の顔を嗅ぎ、そのまま鼻をぺろりと舐めた。
「うわっ! 姉ちゃん、今舐めた! この名前が気に入ったんだよ!」
「さっきから何でも名前が気に入ったことにしてない? 肉の匂いがしただけかもしれないよ」
笑いながら言うサランの横で、バヤルまで「俺も肉の匂いだと思う」と加勢したため、テムルは不満そうに頬を膨らませた。
「二人とも夢がないなあ。じゃあバヤルも今日から肉バヤルでいいよ」
「どうしてそうなるんだ。絶対に呼ぶなよ」
真顔で念を押すバヤルがおかしくて、サランは堪えきれずに笑った。
やがてフルンはサランのそばへ、ツァラはテムルの膝へ収まり、二匹の名が決まった。
「フルンとツァラ……うん、いい名前だね」
声に出して呼んでみると、思っていた以上に嬉しかった。
それは、ここにいる二つの命を自分たちの声で確かめることでもあった。失われたものではなく、今ここで生きているものを名前で呼べることが、サランにはひどく温かく感じられた。
*
食事が終わるころには夜も深まり、風は夕暮れより冷たくなっていた。
片づけを終えたバヤルが入口の布をめくって外を見る。月明かりは草の穂を銀色に縁取っているものの、道のない夜の草原を照らすには頼りなかった。
「そろそろ帰るか。このくらいなら月も出てるし、ハルガなら問題ないだろ」
「今から帰るの? こんなに暗いのに、わざわざ帰らなくてもいいじゃん。ここで寝ればいいよ」
ツァラを抱いていたテムルが当然のように言い、サランとバヤルは同時に顔を向けた。
「テムル、勝手に決めないの。バヤルにも都合があるんだから」
弟をたしなめながらも、サランは入口の向こうへ広がる闇を見た。帰れない距離ではない。それでも、冷たい風の中へ今から一人で帰ってほしいとは思わなかった。
テムルはそんな姉の顔を覗き込む。
「でも姉ちゃんだって、帰りが心配じゃない訳じゃないでしょ?」
「……別に、無理して帰ってほしいとは思わないよ……」
膝の布を指先でつまみながら答えると、テムルはそれで十分だとばかりに笑った。
バヤルも困ったように頭を掻き、もう一度外を見てからサランへ視線を戻す。
「本当にいいのか? 迷惑なら帰るぞ」
「……嫌なら帰ればいいでしょ。でも、テムルの言う通りもう遅いし……」
「誰も嫌とは言ってない。じゃあ……今日は世話になる」
バヤルがそう答えた瞬間、夕暮れから胸の奥に残っていた小さな火が、ほんの少し明るくなったように感じられた。
*
テムルは一日中仔狼と遊んでいたせいか、横になるとすぐに眠った。
ツァラはそのそばで丸くなり、フルンも少し離れたところで身体を伏せている。火はすでに小さくなり、薪の赤い芯だけが灰の下で静かに息づいていた。
「本当にすぐ寝たな。あれだけ騒いでたのに」
声を落としたバヤルが眠るテムルを見ると、サランは弟の肩へずれた布を掛け直した。
「昔から元気なの。もっと小さかったころは、今よりずっと私の後ろについて歩いてたけどね」
「今でも十分くっついてるように見えるけどな。でも最近は、少し俺にも慣れてくれた気がする」
「たぶんね。バヤルの後ろにも勝手についていくことあるし」
サランが笑うと、バヤルは乾燥させた糞燃料を一つ火へくべた。赤い光が僅かに強まり、二人の顔を淡く照らす。
しばらく他愛のない話をしているうちに、サランはバヤルの家族について尋ねた。
バヤルは幼いころの失敗や家で誰が一番厳しかったかを話し、川辺で遊んでいて足を滑らせ、そのまま水へ落ちた話になると、サランはとうとう声を殺して笑った。
「それはどう考えても『川に落ちた』でしょ。足を滑らせただけって言っても、最後に川の中にいたなら同じじゃない」
「お前までテムルみたいなことを言うなよ。最近、二人とも言い方が似てきたぞ」
「逆。テムルが私に似たの」
そんなやり取りが途切れると、ゲルには風が布を撫でる音と、眠っている二匹の仔狼の寝息だけが残った。
サランはしばらく火を見つめていたが、やがて膝の上で指を組んだ。
「……ねえ、バヤルって私たちの家族のこと、ほとんど聞かないよね。気になったことはないの?」
「もちろん気にはなってる。十七歳の女が十歳の弟を連れて二人で草原を渡ってるんだから、何も思わない方がおかしいだろ。でも、サランが話さないなら、話したくないことなんだと思ってた」
バヤルはそう答えると、急かすことなく火へ視線を戻した。
その態度が、サランには少しずるく感じられた。
「聞かないくせに、ちゃんと気にしてるんだね。そういうところ、ずるいと思う」
「聞いたら怒りそうだからな。それに、無理に聞いても意味ないだろ」
「怒るかもしれないけど……聞いてほしいときだってあるよ」
言葉にしてから、サラン自身が一番驚いた。
バヤルも一瞬だけ目を見開いたが、すぐに穏やかな表情へ戻る。
「じゃあ、今がそうなら聞く。話したくなくなったら、そこでやめればいい」
風がゲルの布を揺らした。
バヤルはそれ以上何も言わず、ただ火のそばで待っている。その沈黙がありがたくて、サランは赤い熾火を見つめたまま、ゆっくり口を開いた。
「……私たちにも昔はちゃんと家族がいたんだよ。父さんと母さん、それに祖父ちゃんたちもいて、ツァルヒ族だって今みたいじゃなかった。もっとたくさん人がいて、草原にはゲルが並んでた」
口にすると、遠いはずの景色が思っていたより鮮明に浮かんだ。
「私が十一歳くらいで、テムルが四つくらいだったころ、暴風と一緒に魔獣の群れが来たの。どこから現れたのか分からないくらいたくさんいて、戦える人は戦ったし、他のみんなは家畜もゲルも捨てて逃げた」
火の粉が一つ跳ね、赤い光を残して消えた。
あの日も火が多かった。
焼けるゲル、逃げ惑う馬、叫び声と煙、土と血の臭い。夜を照らすはずの火が、あの日だけは何もかもを奪っていく光に見えた。
「父さんも母さんも、祖父ちゃんたちも死んだ。でも、テムルだけは残った。あの子が泣きながら私の服を掴んでたことだけは、今でも覚えてる」
眠っている弟へ目を向ける。
「ただ、そこからすぐ二人だけになったわけじゃないよ。生き残った人たちがいたから、その人たちと一緒に暮らしてた。食べ物も分けてもらったし、テムルの面倒を見てもらったこともある。私一人で育てたわけじゃない」
「それで、十五歳くらいまで一緒にいたのか」
バヤルが静かに確かめると、サランは頷いた。
「うん。でも、そのころ結婚しろって言われたの。人が減ったから部族を残さないといけないとか、女が一人でいるものじゃないとか、いろいろ言われた。みんなも失ったものが多すぎて、残ったものを守ろうとしてたんだと思う。だから全部間違ってたとは言えないけど、私は嫌だった」
そこで一度言葉を切り、眠るテムルへ視線を向ける。
「何より嫌だったのは、結婚したらテムルとは別になるって言われたこと。父さんも母さんも祖父ちゃんたちもいなくなって、部族までばらばらになったのに、最後に残ったテムルまで離せって言われて……それだけは無理だった」
膝の上で組んだ指へ力が入った。
「だから、テムルを連れて逃げた。私が十五歳で、あの子は八つくらいだったかな。今考えれば、よくそんなことをしたと思う」
「怖くなかったのか?」
バヤルの問いに、サランは少し笑った。
「怖かったよ。最初の夜なんて、風がゲルを揺らすたび外に何かいる気がして眠れなかった。草原は広すぎるし、火が消えれば真っ暗になるし、それでも戻る方が嫌だったから、二人で暮らしていくしかなかった」
幸い、十三歳ごろから狩りや解体、草原で生きるために必要なことは少しずつ教わっていた。それを頼りに馬を走らせ、獲物を探し、食べるものを確保しながら今日まで来た。
そこまで話したところで、サランは長く息を吐いた。
胸の奥へ閉じ込めていたものが、言葉になって外へ流れたせいか、不思議なほど身体が軽かった。
「……何か言わないの?」
沈黙に耐えきれず尋ねると、バヤルは少し考えてから眠っているテムルへ目を向けた。
「何を言えばいいのか分からない。ただ、サランがテムルのことになると心配しすぎる理由は分かった。それと、一人で何でも抱えなくてもいいとは思う。でも、今まで一人で頑張りすぎたとか、そういうことを俺が簡単に言うのも違う気がする」
サランはしばらく彼の横顔を見つめた。
「普通は『一人で抱えるな』とか格好いいこと言うところじゃないの?」
「言ってほしいのか?」
「……それは嫌」
「だったら言わない。ただ、必要なときに頼ってくれれば、それでいい」
あまりにも自然に言うので、サランは一瞬返事を忘れた。
やがて火へ視線を戻し、小さく笑う。
「……それなら、覚えておく」
「話してくれてありがとな」
「お礼を言われることじゃないでしょ。でも……今の話は他の人には言わないでね」
サランが少し身を寄せて念を押すと、バヤルは迷わず頷いた。
「もちろん。サランが自分で話すまでは、俺から誰かに言うことはない」
その顔を見ても、疑う理由は見つからなかった。
外では相変わらず風が草原を渡っているが、ゲルの中の空気は穏やかだった。テムルのそばではツァラが丸くなり、フルンはいつの間にかサランの近くへ移っている。
「……そろそろ寝ようか。今日は私も疲れた」
「ああ。俺もさすがに眠い」
バヤルが立ち上がって火を確かめる横で、サランはフルンの背を撫でながら、ふと思いついたように顔を上げた。
「そうだ、バヤル。もし私が寝言で『肉バヤル』って言ったら先に謝っとくね」
「絶対に言うなよ。せっかくいい話をしてたのに、最後にそれを持ってくるな」
心底嫌そうな顔をするので、サランは声を殺して笑った。
バヤルは呆れながら灰を熾火へ寄せ、火が安全に残っていることを確かめると、少し離れた場所へ横になった。
「おやすみ、サラン」
「うん。おやすみ、バヤル」
サランもテムルのそばへ身体を横たえた。
ゲルの隙間からは、夜の西へ傾き始めた細い月が見えている。月明かりを受けた草の穂は風に揺れるたび淡く輝き、その向こうには星を散りばめた深い夜空がどこまでも続いていた。
フルンとツァラ。
二匹を名前で呼べるようになったことも、バヤルへ自分たちの過去を話したことも、少し前までのサランには考えられなかった。
それでも今は、すぐそばにいる彼の気配を感じても身構えない。
反対へ目を向ければ、火の中の熾火は赤みを失いかけていたが、消えたわけではなかった。灰の下にはまだ確かな熱が残り、外では月夜の風が眠った草原をゆっくり撫でている。
風も、月も、火も、失ったものを元へ戻してはくれない。
それでも、朝は来る。
サランは隣で眠るテムルと、少し離れて横になるバヤル、そして二匹の仔狼の小さな息づかいを感じながら、静かに目を閉じた。
灰の下に残る熾火のような温もりが胸の奥にも残り、その夜はいつもより穏やかに、サランを眠りへ包んでいった。




