第22話 風の向こうへ贈るもの
朝の草原には、夜の冷気がまだ薄く残っていた。東の空から差し始めた淡い光が、夜露を含んだ草の葉を白く浮かび上がらせ、遠くの丘には朝靄が低くたなびいている。
バヤルはハルガの脇腹へ手を添え、鞍の革帯が緩んでいないことを確かめた。乾いた革の匂いに馬の体温と湿った草の青臭さが混じり、鼻を鳴らしたハルガの白い息が朝の空気へ溶けていく。
「じゃあ、そろそろ帰る。また来るから、それまで仔狼たちをあまり甘やかしすぎるなよ」
少し離れた場所でフルンを足元に遊ばせていたサランが、「分かってるよ」と答える横から、眠そうなツァラを抱いたテムルが顔を上げた。
「また来てね。バヤルなら、姉ちゃんもいつだって――」
「……テムル、そこから先は言わなくていいから」
サランが腕を組んで睨むと、テムルは口を開きかけたまま姉の顔を見上げ、何かを察したらしく素直に閉じた。その様子がおかしくてバヤルが笑いを堪えていると、今度はサランの鋭い視線がこちらへ向く。
「何、その顔。何か勝手に決めたみたいで嫌なんだけど」
「何も決めてない。ただ、来てもいいってことだろ?」
「来たければ来ればいいでしょ。別に私が待ってるわけじゃないんだから」
そう言いながら視線を逸らしたサランの耳が僅かに赤くなっている。昨夜、自分たちの過去を語ったときの張り詰めた表情とは違い、いつものように弟を叱り、自分を睨んでいることが、今のバヤルには妙にありがたかった。
昨夜の話を聞いたからといって、接し方を変えるつもりはない。腫れ物に触るように扱えば、サランならすぐに気づくだろう。
「分かった。じゃあ三日後くらいに来るよ。今度は何か持ってくる」
「別に何もいらないけど……気をつけて帰ってね。朝露で足元も滑るから」
「ああ。お前たちもな」
ハルガへ跨がったバヤルは手綱を引き、ゆっくりと野営地を離れた。しばらく進んでから振り返ると、サランとテムルはまだゲルの前に立っており、その足元ではフルンが草の匂いを嗅ぎ、ツァラはテムルの腕に抱かれている。少し離れた場所ではサルヒたちが朝露の残る草を食んでいた。
小さなゲルと馬、家畜、二匹の仔狼。それがサランが自分の手で守ってきた暮らしなのだと思うと、昨夜聞いた話が再び胸へ蘇った。
魔獣に家族を奪われ、生き残った者たちと暮らし、それでも十五歳で望まない結婚を迫られた。テムルと引き離されることを拒み、弟を連れて草原へ逃げた少女が、今ではあの小さな暮らしを自分の力で守っている。
『今の話、他の人には言わないで』
最後にそう頼まれたことも忘れてはいない。あれは誰かへ話すために聞いたものではなく、サランが迷った末に自分へ預けてくれた記憶だった。
ハルガの揺れへ身体を任せながら、バヤルは昨夜から胸の奥に残っている問いを考えていた。
自分は、サランとこれからどうなりたいのだろう。
*
陽が丘の向こうから姿を現すころ、バヤルは自分たちの野営地へ戻った。朝の光にゲルの白い布が金色を帯び、家畜の鳴き声や子供たちの声が、眠りの残る集落を少しずつ目覚めさせている。
自分の家の前まで来ると、見覚えのある馬が杭へ繋がれていた。
「アルナが来てるのか……」
ハルガから降りて鞍を外していると、ゲルの入口から妹が顔を出した。兄を見つけるなり嬉しそうに笑ったものの、その目はすぐに服や鞍へ向き、何か面白いものを見つけたように細くなる。
「おかえり、兄さん。昨日から来てたんだけど……兄さんは昨日、帰ってこなかったんだって?」
「母さんから聞いたのか。暗くなったから泊まっただけだよ」
バヤルが鞍を抱えて歩き出すと、アルナも当然のようについてくる。
「それで、どこに泊まったの? まさか言えないようなところじゃないよね」
「なんでお前にそこまで説明しないといけないんだ」
面倒になって足を速めたところで、背後から「もしかして、サラン?」と名前を出され、思わず足が止まった。
その一瞬だけで十分だったらしい。
「やっぱり! サランのところに泊まったんだ!」
「声が大きい。狩りをしてたら暗くなったから泊まっただけだし、テムルもいた。それ以上でもそれ以下でもない」
「ふうん。それならそういうことにしておくね」
「その顔、絶対何か考えてるだろ」
相手にしていられずゲルへ入ると、炉のそばでは母が朝の片づけをしていた。ところが後ろから入ってきたアルナが早速「兄さんがサランのところに泊まったんだって」と報告したため、バヤルは鞍を置きながら深いため息をついた。
「だから、狩りで遅くなっただけだって言ってるだろ。飯を食って、寝て、朝になったから帰ってきた。それだけだよ」
「母さんが聞きたいのは、そういうことじゃないと思うけどな。サランのこと、好きなんでしょ?」
あまりにも遠慮なく尋ねられ、バヤルは返事を失った。
否定しようと思えばできたはずなのに、理由が見つからない。競走で初めて出会ったときから、何度も話し、一緒に狩りをし、争いの中でも同じ場所に立った。いつからか彼女のゲルへ向かうことを楽しみにし、笑えば嬉しくなり、危険な場所へ行けば無事でいてほしいと思うようになっていた。
「……好きだよ。だから困ってるんだ」
ようやく口にすると、アルナは驚いて目を見開いたあと、すぐ嬉しそうに笑った。
「そこまで分かってるなら、あとは気持ちを伝えればいいじゃん」
「簡単に言うなよ。サランは自分で狩りをして、自分で暮らしてる。それにテムルもいるんだ。もし一緒になるなら、サランだけじゃなくてテムルも一緒だし、あいつが今まで守ってきた暮らしごと考えないと駄目だろ」
その言葉に、母が手を止めた。
「あの娘には、あの娘が作ってきた暮らしがある。テムルも、馬も家畜もいるし、今は狼までいるんだろう? たしかに、サランをここへ連れてくれば、それで終わりじゃないよ」
「分かってる。だから俺が向こうへ行くっていうのもあるのかもしれない」
口にしてみると、自分でも驚くほど自然だった。アルナは一瞬目を丸くしたものの、今度はからかうのではなく、少し嬉しそうに笑った。
そのとき、入口の外から父の声が聞こえた。
「……そこまで考えてるなら、昔のやり方で気持ちを伝えてみればいい」
布を持ち上げて入ってきた父は、バヤルの向かいへ腰を下ろした。
「昔は男が女へ気持ちを伝えるとき、いきなり結婚してくれとは言わなかった。まずは暮らしで使うものを贈ったんだ」
「使うものって、何を?」
「最初は針だ。針入れや鞘へ、自分の家や部族の文様を入れて贈る。服や革を繕うたび手に取るものだから、派手じゃないが意味はある。その次は小さなナイフ、それから鐙や鞍につける馬具飾りだな」
馬具飾りと聞いた瞬間、バヤルの頭には青毛のサルヒが浮かんだ。サランなら、使い道のない飾り物より、馬と一緒に使えるものの方が喜ぶかもしれない。
「最後は髪飾りだ。ただし、これは意味も分からず渡すなよ」
父の声が少し真面目になったので、バヤルも姿勢を正した。
「針もナイフも馬具飾りも、ただの贈り物だと言える。でも髪飾りは違う。それを渡すのは、その女を自分の隣に置きたいと思ったときだ」
「サランがその意味を知ってるとは限らないよね」
アルナが尋ねると、父は頷いた。
「もちろんだ。部族が違えば習わしも違うし、受け取ったから婚約したという話でもない。こちらの習わしを押しつけるものじゃなく、あくまで自分の気持ちを形にして示すものだ」
針、ナイフ、馬具飾り、そして髪飾り。
どれも高価な宝ではないが、サランなら見た目の豪華さより、丈夫で役に立つことを喜びそうだった。
やがて父は立ち上がり、一度ゲルを出ると、古びた小さな木箱を持って戻ってきた。
「開けてみろ」
蓋を持ち上げると、中には布に包まれた革の針入れがあった。焦げ茶色の革には細かな幾何学模様と、バヤルが幼いころから見慣れてきた部族の文様が刻まれている。
「これを……サランに?」
「嫌なら別のものを用意すればいい。ただ、それは俺がお前の母親へ最初に贈ったものと同じ細工だ」
バヤルが父と母を見比べると、母は困ったように顔を背けた。その横でアルナが「母さんにも渡したの?」と身を乗り出し、父が平然と頷く。
「受け取ったから、お前たちがいるんだろう」
「あなた、そういう言い方はやめなさい」
母が父の腕を叩き、アルナの笑い声がゲルの中へ広がった。
バヤルは手の中の針入れへ目を戻した。使い込まれた革は柔らかく、刻まれた文様の凹凸が指の腹へ触れる。
これを差し出したら、サランはどんな顔をするだろう。
「急ぐなよ。あの娘は、追いかければ近づいてくるような子じゃないだろう」
父に言われ、バヤルは昨夜のサランの声を思い出した。
『聞いてほしいときだってあるよ』
あの言葉を口にするまで、きっと何度も迷ったのだろう。それでも最後には、自分へ過去を預けてくれた。
「ああ、分かってるよ。今すぐ何かを決めてもらいたいわけじゃない」
サランと話し、テムルにくだらないことで笑われ、フルンとツァラが大きくなるところを見たい。サルヒとハルガを並べ、また草原を走りたい。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
それでも、自分がどちらへ進みたいのかだけは、もう分かっていた。
「……三日後か」
無意識に呟くと、アルナがすぐ反応した。
「サランのところへ行くんでしょ? そんな嬉しそうな顔してたら、誰でも分かるよ」
「うるさいな。別にそんな顔してないだろ」
笑う妹を追い払うように手を振りながら、バヤルは針入れを布へ包み直した。
ゲルの外では朝の風が強くなり、草の穂が一斉に傾いて、乾いた葉の擦れ合う音が長く続いている。
その風が吹いてくる先には、小さなゲルがある。
バヤルは木箱へしまう前に、もう一度だけ革の文様を指で撫でた。
三日後、サランのもとへ行く理由が、また一つ増えていた。




