第23話 小さな命の朝
朝の陽が高くなるにつれて、ゲルの周囲に残っていた夜露は草の葉先から消え始め、湿った土と青い草の匂いも少しずつ乾いた空気へ溶けていった。
サランは入口近くに腰を下ろし、膝の上へ広げた衣服の裂け目へ針を通していた。少し前の狩りで引っかけたところで、穴は小さいものの放っておけば馬に跨がったときに広がってしまう。縫い目を指で押さえて糸を引き締め、軽く引っ張って確かめていると、横で革袋の口紐を直していたテムルが突然顔を上げた。
「姉ちゃん、フルンとツァラ、また走ってるよ。さっき転んだばかりなのに、全然懲りてない」
サランも針を止めて視線を向けると、薄い灰色のフルンが草を蹴って駆け、その後ろを濃い灰褐色のツァラが懸命に追っていた。拾ったころは手の中で震え、乳を舐める力さえ弱かった二匹が、今では互いの耳や尻尾へじゃれつきながら草の上を転げ回っている。
フルンが急に方向を変えると、追っていたツァラは脚をもつれさせ、そのまま濡れた草の上を一回転した。テムルが思わず腰を浮かせたが、ツァラはすぐに起き上がり、身体を震わせて雫と草屑を飛ばすと、何事もなかったように再び兄弟を追い始めた。
「助けに行かなくても大丈夫そうだね。姉ちゃんもずっと見てたけど、やっぱり心配なんでしょ?」
からかうように笑うテムルへ、サランは縫い物を持ち直しながら眉を寄せた。
「足を引きずってないか確かめただけ。元気なのはいいけど、あの二匹はまだ自分がどれくらい小さいのか分かってないみたいだから、見てないと何をするか分からないでしょ」
その言葉を証明するように、フルンが遊び相手をツァラから三頭の山羊へ変えた。腹を低くしてミラへ近づいていく姿は本人なりに隠れているつもりらしいが、薄灰色の背中は草の上へ丸見えだった。
ミラもすぐに気づき、草を噛みながら横長の瞳でフルンを見つめる。フルンは尻尾を揺らして距離を詰め、ついには前脚へ飛びつこうとしたが、ミラは角を当てることなく額で肩を押した。小さな身体はあっさり横へ転がり、驚いたフルンが耳を伏せて起き上がる。
「今ので少しは分かったかな。ミラは遊んでくれる相手じゃないって」
サランが笑うと、テムルは腕の中へ戻ってきたツァラを撫でながら首を振った。
「フルンはまた行きそう。でもツァラはちゃんと逃げてきたから、こっちの方が賢いよ」
「賢いというより、怖かっただけじゃない? まあ、危ないって分かるならその方がいいけど」
二人が話している間にも、フルンの好奇心は次へ移っていた。今度はボルの前脚へ鼻を寄せ、土や汗の匂いを熱心に嗅いでいる。ボルが前脚を一度地面へ打ちつけると、鈍い音と振動に驚いて数歩飛び退いたものの、しばらくするとまた近づこうとした。
さらにトゴの揺れる尻尾を見つけると、その後ろへ回り込もうとする。長い耳を後ろへ向けたトゴが後脚へ体重を移したのを見た瞬間、サランは縫い物を放り出して駆け寄り、フルンの腹へ腕を入れて抱き上げた。ほぼ同時にトゴの後脚が追い払うように振られ、空を切る。
「今のは本当に危なかったんだからね。馬やトゴの後ろへ勝手に回ったら駄目。そんな顔で鼻を舐めようとしても誤魔化されないから」
顔の高さまで持ち上げられたフルンは、叱られている意味が分からないのか、サランの鼻へ舌を伸ばそうとする。少し離れたところで見ていたテムルが笑い、サランは呆れながらも怪我がないことを確かめてから草の上へ下ろした。
それでもフルンは懲りず、次はサルヒへ近づいていく。テムルが心配そうに姉を見ると、サランは今度は止めずに腕を組んだ。
「サルヒなら大丈夫。本気で蹴るようなことはしないし、フルンに教えるくらいなら任せてもいいよ」
青毛の牝馬は近づく仔狼へ気づくと、大きな鼻先をゆっくり下げた。フルンも鼻を上げ、互いの匂いを確かめるように近づいたが、調子に乗って前脚を伸ばした瞬間、サルヒの鼻面に胸を押されて尻餅をついた。
呆然と見上げるフルンに対し、サルヒは怒ることも追うこともなく、ただ静かに見下ろしている。フルンがもう一度近づこうとすると鼻先がわずかに下がり、それだけで仔狼は足を止め、一歩後ろへ退いた。
「そうそう、それでいいの。この子には勝てないんだから、ちゃんと距離を覚えなさい」
サランがサルヒの首を撫でると、テムルは少し離れて座ったフルンを見て笑った。
「すごく悔しそう。今日はみんなに怒られてばっかりだね」
「それでも元気ならいいよ。少し前まで走るどころか、生きてくれるかどうかも分からなかったんだから」
サランがそう答えたところへツァラが近づき、フルンと鼻先を触れ合わせた。次の瞬間には二匹とも何事もなかったようにじゃれ始め、朝から何度転んだのか分からない身体をまた草の上で転がしていた。
*
昼を過ぎるころには、さすがの二匹にも疲れが見え始めた。フルンはゲルの影へ腹をつけ、ツァラはテムルの横で丸くなっている。
サランが干していた肉の位置を変えていると、ツァラの耳の後ろを掻いていたテムルが、満足そうに目を細める仔狼を見ながら口を開いた。
「ツァラは絶対、俺のこと好きだよ。フルンは姉ちゃんが動くとすぐついていくから、姉ちゃんのことが好きなんだと思う」
サランは紐を結び直しながら肩をすくめた。
「餌を持ってると思われてるだけかもしれないよ。それより、大きくなっても一緒に寝るつもり? 大草原狼なんだから、二匹とも今みたいな大きさじゃないんだよ」
「大きくなっても家族なんだから一緒でいいじゃん。姉ちゃんと俺と、サルヒとボルとトゴ、それにミラとナラとガル、フルンとツァラもみんな家族だよ」
何でもないことのように並べられた名前を聞き、サランの手がわずかに止まった。
昔なら「家族」という言葉から最初に浮かぶのは、もう戻らない父や母、祖父母の顔だった。声も手の温かさも少しずつ記憶の遠くへ離れていくのに、ふとした瞬間だけ鮮明に蘇り、失ったものの重さを思い出させる。
けれど、テムルが今口にした家族は、失った人たちではなく、ここで一緒に暮らしているものたちだった。草を食む馬たちも、朝から仔狼を追い払っていた山羊たちも、影の中で眠る二匹も、その中に当たり前のように入っている。
「……そうかもね。ずいぶん多い家族になったけど」
サランが小さく笑うと、テムルは「多い方がいいよ」と答え、ツァラの背中をまた撫で始めた。
そのとき、眠っていたフルンの耳が突然動いた。
頭を上げた仔狼は、さっきまでの眠気が消えたように草原の一点を見つめ、鼻先を上げて風の匂いを何度も嗅いでいる。ツァラも遅れて同じ方向へ顔を向けたが、フルンほど強い反応ではない。
「姉ちゃん、何かいるのかな」
テムルの声にサランも立ち上がり、風上へ目を凝らした。草の動きも、空気の湿りも、家畜たちの様子も普段と変わらない。それでもフルンだけは身体を低くし、耳を前へ向けたまま動かなかった。
やがてテムルが遠くを指さした。
「あそこ、何か動いた。姉ちゃん、草の間!」
目を凝らしてようやく見つけたのは、長い耳を一瞬だけ草の上へ出した兎だった。かなり離れているうえ、風に揺れる草へ紛れれば人の目では簡単に見失う距離だった。
兎が走り出すと同時に、フルンも草を蹴った。
サランは数歩で追いつき、胴へ腕を回して抱き上げる。フルンは空中でも脚を動かし、兎が消えた方角へ鼻先を伸ばした。
「追いつけるわけないでしょ。もう見えなくなったんだから、今日は諦めなさい」
胸元へ抱え直されても、フルンは遠くを見たまま鼻を動かしている。テムルがツァラを抱いて隣へ来ると、兎の消えた草原とフルンを交互に見た。
「でも、俺たちよりずっと先に気づいてたよね。あんな遠くにいたのに、匂いが分かったのかな」
「たぶん。私には匂いも音も分からなかったし、姿だってテムルに言われるまで見えなかった。大草原狼だからなのか、狼ならこれくらい分かるのかは知らないけど、この子たちには私たちに分からないものが見えてるのかもね」
今は腕の中へ簡単に収まる身体が、やがて母狼のような巨体へ育ったとき、どれほど遠くの気配を捉え、どれほど広い草原を走るのだろう。想像すると楽しみだけではなく不安もあったが、サランはまだ兎を追いたそうにするフルンの首筋を撫で、その温かな身体を抱き直した。
*
夕方になると、朝から走り回っていた二匹はすっかり静かになった。ゲルの中では煮込んだ肉と香草の匂いが湯気に混じり、炉の火が眠る仔狼の毛を赤く照らしている。
フルンはサランの足へ背中をつけて丸まり、ツァラはテムルの膝へ顎を乗せていた。サランが鍋の前で足を動かすたびにフルンの毛が足首へ触れるため、邪魔だと言いながらも、踏まないよう慎重に重心を移している。
「姉ちゃん、フルンのこと邪魔って言うわりに、全然どかさないね。そこにいた方が姉ちゃんも嬉しいんじゃない?」
テムルが笑うと、サランは木べらで鍋底を混ぜながら顔をしかめた。
「踏んだら危ないから動かしてないだけ。それよりツァラだって、ずっと膝に乗せてたらご飯食べられないでしょ」
「起きたら降りてもらうよ。それより、明日はバヤルが来る日だよね。三日後にまた来るって言ってたし」
木べらを動かしていたサランの手が一瞬止まり、鍋の中で煮汁が小さく弾けた。
「来るって決まったわけじゃないでしょ。勝手に三日後って言ってただけだし、私は来たければ来ればって言っただけなんだから」
言いながら鍋を混ぜ直すサランを見て、テムルは口元を緩めた。
「それなら来てもいいってことでしょ。姉ちゃん、さっきからちょっと嬉しそうだよ」
「嬉しそうじゃないし、変なこと言ってないでご飯の準備して。そんなに暇なら器を出してくれる?」
サランが視線を鍋へ戻すと、テムルは笑いを堪えながらツァラをそっと寝床へ移し、言われた通り器を並べ始めた。
入口の布が風に押されて小さく膨らみ、外から入り込んだ冷たい空気が、煮込み料理の温かな匂いを揺らしていく。
明日、たぶんバヤルは来る。
そう考えると胸の奥にわずかな温かさが灯ったが、サランはそれを意識しないよう木べらを動かした。足元ではフルンが安心しきったように眠り、テムルのそばではツァラも身体を丸めている。
拾ったばかりのころには夜を越せるかどうかさえ分からなかった二匹が、今では朝から走り回り、山羊や馬に叱られ、遠くの兎を見つけ、疲れ果てて家族のそばで眠っている。
草原の風は、いつもと変わらずゲルの外を吹き抜けていた。その風の向こうから何かが近づいていることを、この夜のサランも、テムルも、そしてフルンたちもまだ知らなかった。




