第24話 掌に残る温もり
朝の草原には薄い雲が浮かび、その隙間から差し込む陽が夜露の残る草を白く光らせていた。ゲルの前では、サランがしゃがみ込んで革袋の中身を確かめている。塩は残り少なく、縫い物に使う糸も心細い。山羊の世話に使うものもいくつか欲しく、そろそろ市場へ行かなければと思っていた。
少し離れたところではミラ、ナラ、ガルが草を食み、その周囲をフルンがうろついていた。昨日ミラに頭で押し転がされたことは覚えているらしく、今日は一定の距離を保っている。一方のツァラはテムルの足元から少し離れては戻り、慎重に周囲を窺っていた。
「フルン、今日は余計なことしないでよ。昨日みたいにミラを怒らせても知らないからね」
サランが革袋から顔を上げると、フルンは耳だけをぴくりと動かしたものの、すぐに山羊へ鼻を向けた。その様子を見たテムルがツァラの背を撫でながら笑う。
「聞こえてはいると思うよ。でも、姉ちゃんの言うことを聞く気があるかは別じゃない?」
「それが一番困るんだけど」とサランが息を吐いたところで、草を食んでいたサルヒが顔を上げた。青毛の耳が草原の一方へ向き、少し遅れてボルも同じ方角を見る。やがて規則正しい蹄音が風に乗って届き、草の向こうから黒鹿毛の馬が姿を現した。
「あ、バヤルだ。最近よく来るね」
テムルの言葉にサランは立ち上がり、無意識に衣服についた草を払ってから、自分の動きに気づいて手を止めた。別にバヤルが来るから身なりを気にしたわけではない、と考えている間にハルガが近づき、バヤルが朝の挨拶とともに馬を止める。
足元へ寄ってきたフルンを見て、バヤルは笑いながら馬を下りた。
「ずいぶん元気になったな。もう山羊に喧嘩を売ってるのか?」
「遊びたいだけだと思うけど、昨日はミラに転がされてたよ。それより今日はどうしたの?」
サランがフルンを呼び戻しながら尋ねると、バヤルはハルガの首筋を撫で、家から塩と油を頼まれたので市場へ行くつもりだと話した。革紐も替えたいらしい。それを聞いたサランは手にしていた革袋へ目を落とす。
「ちょうどよかった。私も塩と糸が欲しかったんだよね。一緒に行くなら、テムルも準備して」
「俺は行かないよ。フルンとツァラもいるし、ミラたちも見ておくから、姉ちゃんはバヤルと二人で行ってきたら?」
当然のように返され、サランは思わず弟を見た。まだ小さな仔狼を人や家畜の多い市場へ連れていくのは避けたいし、二匹だけを残すのも不安だったので、テムルが留守番をしてくれるなら都合はいい。ただ、「二人で」と言われると妙に意識してしまう。
「……まあ、そうなるけど。何かあったら無理しないでね。それとフルンがまたミラに近づいたら――」
「大丈夫だって。姉ちゃんが帰ってくるまでちゃんと見てるから、心配しないで行ってきなよ」
十歳の弟に言い聞かされ、サランは少し唇を尖らせながらも頷いた。横を見るとバヤルがなぜかツァラの方へ顔を向けており、問い詰めても「見ていただけだ」としか答えない。その態度まで気になったが、サランは追及を諦めてサルヒへ向かった。
*
ゲルを離れると人影はなくなり、サルヒとハルガの蹄音だけが広い草原へ交互に響いた。東から吹く風が頬を撫で、二頭は互いに無理のない速度で並んで進んでいる。
サランは隣のハルガを横目で見た。初めてバヤルと出会った競走では、あの大きな馬体が後ろから迫るたびに気を抜けなかったのに、今ではサルヒと肩を並べるように走っている。それが不思議で眺めていると、バヤルがこちらを見た。
「さっきから何を見てるんだ? 俺の顔に何かついてるか?」
「……バヤルじゃなくてハルガを見てたの。最初に競走したときは、こんなふうに並んで走るなんて思わなかったから」
そう返した直後、バヤルが胸元へ手をやり、服の上から何かを確かめるように押さえた。すぐ手綱へ戻したものの、サランはその動きを見逃さなかった。
「今、胸のところ触ったよね。何か入れてるの?」
「まあな。でも、別に気にするようなものじゃない」
明らかに隠すような返事だったが、聞かれたくないのなら仕方がない。サランはそれ以上追及せず、自然に速度を上げたサルヒへ身体を合わせた。ハルガも横へ並び、どちらも前へ出ようとしないまま二頭で風を切っていく。その時間が妙に心地よく、サランはサルヒの首筋を一度撫でた。
*
昼前には市場へ着いた。外側で馬を預けて人混みへ入ると、焼いた肉や馬の汗、乾いた革、香草、土埃の匂いが入り交じり、商人の呼び声や値段を交渉する声、金属を打つ音が四方から重なってくる。
まず塩を買い、次に糸を扱う店へ寄った。サランが二つの糸束を持ち上げて太さを確かめると、隣で待っていたバヤルへ差し出す。
「これとこっちなら、どっちがいいと思う? そこにいるんだから一緒に考えて」
突然意見を求められたバヤルは少し困った顔をしたが、片方を指して「こっちの方が丈夫そうだ」と答えた。サランも同じ方を選ぶつもりだったので頷くと、「それなら俺に聞く必要なかっただろ」と笑われる。
「自分以外の人がどう思うか聞きたかったの。もういい、次から聞かないから」
「そんなことで怒るなよ。聞かれたらちゃんと答えるって」
そんなやり取りをしながら買い物を続け、サランが布を見ている間にバヤルは馬具の店へ向かった。姿が人混みに紛れると、つい先ほどまで隣にいた気配が消えたせいか妙に静かに感じられ、サランは自分でも理由の分からない落ち着かなさを覚えた。しかし新しい革紐を手に戻ってきた姿を見つけると、それも自然に消えていった。
人の流れが狭くなった場所では、荷物を抱えた男を避けようとしたサランの肩へバヤルが手を添え、自分の側へ引き寄せた。男が通り過ぎるとすぐ手は離れたが、肩にはしばらく温かさが残る。その少し後、別の客と肩が触れたバヤルがまた胸元を庇うように押さえたため、サランはやはり何か大切なものを入れているのだろうと思った。
油を扱う店では、バヤルと顔見知りらしい商人から西の話を聞いた。草原の西方で、部族と国の者たちが揉めているという。隊商が襲われた、国の兵が先に草原へ入った、馬を盗んだなど話は食い違い、商人自身も真相は知らなかったが、西から来る者が同じような噂をする以上、何かが起きていることだけは確からしい。
「ここからはかなり遠いんだろ? すぐ心配するような距離じゃない。ただ、西へ行くなら気をつけろ。商売人も道の様子を見始めてるからな」
商人にそう言われ、バヤルは頷いた。店を出たあと、サランも一度だけ西へ目を向けたが、市場ではいつも通り人々が買い物をし、子供が走り、肉を焼く煙が上がっている。遠い場所の争いは、今の暮らしからはまだ実感のない話だった。
「どっちが悪いのかも分からないなら、今ここで考えても答えは出ないよ。それより私、お腹空いた」
サランがそう言うと、バヤルは堪えきれず吹き出した。「何がおかしいの」と睨まれながらも笑いを残したまま、二人は焼いた肉を売る店へ向かった。
薄い生地で包んだ肉を買い、市場の端へ腰を下ろす。熱い肉へ歯を立てれば脂と塩気が広がり、香草の匂いが鼻へ抜けた。市場へ来ること自体は珍しくないのに、糸を選ぶことも、店を眺めることも、こうして並んで食べることも、今日はいつもより少し楽しい。その理由を考えれば、隣にバヤルがいるからだとすぐ分かった。
「そんなに急いで食べなくても誰も取らないぞ。それより口元に付いてる」
バヤルに指摘され、サランは手の甲で何度か口元を拭ったが場所が分からず、とうとう笑われた。むっとして横を向いたものの、本気で腹が立つわけでもない。食後はテムルへの土産に甘い乳菓子を買い、フルンとツァラに使えそうな布も選びながら市場を歩いた。
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市場を出る頃には陽が西へ傾き、草原には長い影が伸びていた。買った物をサルヒとハルガへ分けて載せ、二人は冷たくなり始めた風の中を並んで帰った。
「今日は少し疲れたけど、楽しかったよ。テムルが来なかったから最初は変な感じだったけど」
何気なく口にしてからサランが横を見ると、バヤルが嬉しそうに笑っていたので、急に恥ずかしくなって前を向いた。その後しばらく黙って進んでいると、バヤルがまた胸元へ手を置く。
「やっぱり朝からずっと気にしてるよね。それ、大切なものなの?」
今度は何気なく尋ねただけだったが、バヤルはすぐには答えず、服の上から中にあるものを確かめてから静かに頷いた。
「……ああ。俺にとっては大切なものだよ」
それなら無理に見せてもらう必要はない。サランはそれ以上聞かず、夕日に染まる草原を見ながらサルヒの首筋を撫でた。
*
ゲルへ戻る頃には、陽が草原の端へ触れようとしていた。テムルが二人に気づいて手を上げると、フルンとツァラも駆けてくる。サランは馬の前へ出ないよう仔狼たちを止めてからサルヒを下り、留守番の様子を聞いた。
「ちゃんと見てたよ。フルンは一回ガルに近づいて怒られたけど、今日はすぐ逃げたから少しは覚えたみたい」
「それなら上出来かな。はい、これは留守番してくれたテムルにお土産」
乳菓子を受け取った弟の顔が明るくなる。バヤルにも手伝ってもらって荷物を運び終える頃には空の赤みが濃くなり、そろそろ帰ると言われたサランは、反射的に「もう?」と口にしてしまった。
バヤルが目を見開いたので、サランはすぐに「暗くなるから早く帰った方がいいって意味」と付け足した。笑いを堪えるような顔をされて睨み返していると、ハルガへ跨がろうとしたバヤルの動きが止まった。
「サラン、渡したいものがあるんだ。朝から持ってきてたんだけど、いつ渡せばいいか分からなくてな」
そう言って胸元へ手を入れ、取り出したのは手のひらに収まるほどの小さな針入れだった。表面には細かな模様が施され、市場で売られている簡素なものよりずっと丁寧に作られている。
「これ、朝からずっと胸に入れてたやつでしょ? 帰り道で大切なものだって言ってたのに、どうして私に?」
サランがすぐには受け取らずにいると、バヤルは一瞬言葉を探すように黙り、やがて針入れを差し出したまま真っ直ぐこちらを見た。
「大切なものだから、お前にやるんだよ。使ってくれればそれでいい」
冗談のない声に、サランは返す言葉を失った。夕方の風が髪を頬へ運び、いつもなら何か言い返せるはずなのに、今はうまく言葉が出てこない。やがてそっと手を伸ばすと、バヤルの手から移った針入れには、朝から胸元へ入れていたせいかまだ体温が残っていた。
「……温かい。こんな大切なものなら、ちゃんと大事に使うね。ありがとう、バヤル」
「ああ。そのつもりで渡したんだから、なくすなよ」
バヤルは少し顔を逸らした。その耳が夕日のせいだけではなく赤く見え、今度はサランの方が笑いそうになったが、何も言わず針入れを両手で包んだ。
その意味をサランはまだ知らない。どんな思いが込められているのかも、バヤルがなぜ今日これを持ってきたのかも分からなかった。ただ、彼が大切にしていたものを自分へくれた。それだけは分かり、素直に嬉しかった。
ハルガへ跨がったバヤルは、少し離れたところで一度振り返り、「また来るから」と片手を上げた。サランは針入れを握ったまま、「好きにすれば」と返し、その背中が夕暮れの草原へ小さくなっていくまで見送った。
ようやくゲルへ向き直ると、入口のそばでテムルがこちらを見ていた。その視線が手の中の針入れへ落ちたので、サランは嫌な予感を覚える。
「それ、バヤルにもらったんだ。へえ……姉ちゃん、大事にしないとね」
「……何、その言い方。普通にもらっただけだからね」
笑いながらゲルへ入っていく弟を追いかけようとして、サランは足を止めた。掌にはまだ針入れの僅かな温もりが残り、細かな模様を指先でなぞるたび、先ほどのバヤルの表情が浮かんでくる。
遠い西では何かが起こり始めているらしい。それでも今のサランには、その噂より掌に残る小さな温もりの方が、ずっと近く、はっきりと感じられていた。




