第25話 風の中の刃
朝の草原を渡る風には、ひと月前より少しだけ冷たさが混じっていた。陽が昇ればまだ暖かいものの、露を宿した草が足首へ触れるたびに水気が布越しに染み、湿った土と青い草の匂いが風に乗って流れてくる。
サランはゲルの入口に腰を下ろし、ほつれた革袋へ針を通していた。手元の小さな針入れは、ひと月ほど前にバヤルからもらったものだ。最初は蓋を開けるたびに、渡された夕暮れと掌に残った温もりを思い出していたが、今では衣服や革を繕うたびに使う、すっかり馴染んだ道具になっている。
「姉ちゃん、その糸、あとで少し使っていい? ボルの手綱の縁がほつれてるんだ」
少し離れたところで手綱を確かめていたテムルへ目を向け、サランは針を革へ押し込みながら頷いた。
「いいけど、必要な分だけにしてね。前みたいに長く切って余らせたら、今度は自分で結び直してもらうから」
「分かってるって。姉ちゃん、そういうのだけはずっと覚えてるよね」
不満そうに返したテムルの前を、薄灰色のフルンが朝露を蹴散らしながら駆け抜け、その後ろを濃い灰褐色のツァラが少し距離を空けて追っていく。拾った頃は骨ばかりが目立っていた二匹も、このひと月で脚が伸び、胴にも厚みが出ていた。
二匹はそのまま山羊たちへ向かったが、ミラが草を噛むのを止めて顔を上げただけで、フルンはぴたりと足を止めた。以前、遊び半分で近づいて額で転がされたことを覚えているらしい。
「フルンも少しは賢くなったみたいだね。前ならそのまま突っ込んでたのに」
サランが笑うと、名前を呼ばれたフルンが駆け戻り、濡れた鼻先を膝へ押しつけてきた。針を持った手を慌てて上げながら首筋を撫でると、冷たい毛の下には以前にはなかった筋肉の張りがあり、掌に乗せるのさえ怖かった頃が遠いことのように思えた。
「大きくなったね。でも、まだ子供なんだから危ないことはしないでよ」
言葉が分かったのかどうか、フルンは尾を振ってからツァラのもとへ戻っていった。
サランは針仕事へ戻りながら、腰に下げた小ぶりなナイフへ目を落とした。針入れのあとにはこのナイフ、その十日ほど後にはサルヒの馬具につける小さな飾りまで、最近のバヤルは妙によく物を持ってくる。以前から干し肉や必要なものを分けてくれることはあったが、今度の三つはどれもサラン自身が使うものだった。
「……何なんだろ」
思わず漏れた声にテムルが顔を上げ、姉の腰のナイフからサルヒの馬具飾りへ視線を移すと、その口元に妙な笑みを浮かべた。
「何、その顔。絶対何か考えてるでしょ」
「別に。姉ちゃんが分からないなら、俺が言うことじゃないと思っただけ」
テムルはそれ以上何も言わず手綱へ視線を戻した。サランも追及するのをやめたが、身の回りにバヤルからもらったものが増えていくことを嫌だと思えず、それどころか少し嬉しい自分が、なんとなく悔しかった。
*
昼が近づく頃には朝露も消れ、草原には穏やかな時間が流れていた。サランがゲルの横で干していた布を取り込んでいると、ツァラとじゃれ合っていたフルンが突然動きを止め、耳を前へ向けたまま風上へ鼻先を伸ばした。以前、遠くの兎を見つけた時とは違い、尾は下がり、背中の毛までわずかに逆立っている。
「フルン、どうしたの?」
呼んでも振り返らず、やがて低い唸り声が喉から漏れた。ツァラも隣へ並んで同じ方角を警戒し始めたため、サランは布を置き、頬を撫でる風へ意識を集中する。草と土、家畜の匂いに混じって、馬の汗や革、人間、それに油のような匂いがごく薄く届いていた。
「テムル、こっちへ来て。人が来るみたいだけど、たぶんバヤルじゃない」
弟をそばへ呼び寄せて目を凝らすと、緩やかな起伏の向こうに四つの騎影が現れた。旅人が水や道を求めて立ち寄ることは珍しくないが、近づくにつれて荷がほとんどなく、全員が弓や刃物をすぐ手に取れる位置へ携えていることが分かる。先頭の年上の男がサランより先に馬や山羊へ目を向け、値踏みするように眺めたことで、ただの旅人かもしれないという期待は消えた。
サランはゲルへ入り、スリングと石袋を取ると、テムルへ低い声で告げた。
「ゲルの後ろへ下がって、フルンとツァラを見てて。何があっても前へ出さないで」
何か言いたそうだったテムルも姉の表情を見て頷き、二匹を呼びながら後ろへ下がった。
サランは石を一つスリングへ収め、ゆっくりと回し始めた。革紐が空気を切る音そのものが、こちらには武器があり、これ以上近づけば使うという警告になる。
「それ以上、近づかないで。用があるなら、そこから話して」
四騎はわずかに速度を落としたものの止まらず、若い男の一人が笑いながら前へ出て腰の刃物へ手を伸ばしたため、サランはためらわず紐を放した。石が風を裂いて男の頭部へ叩き込まれ、身体が大きく揺れて鞍から落ちると、驚いた馬だけが横へ跳ねて走り去る。
残る三人の表情から笑みが消れた。別の男が弓へ手を伸ばしたため、サランはすぐ二つ目の石を放って上腕を打ち、弓を草へ落とさせた。衣服に血が滲んでも男たちは退かず、年上の男が短く命じると、三騎は正面と左右へ散開して包囲するように動き始めた。
「テムル、もっと下がって!」
返事を背中で聞きながら、サランは三人の動きを追った。誰かへ狙いを定めれば別の一人が距離を詰め、身体を向ければすぐ離れる。先ほどまでのように一人ずつ飛び込まず、スリングの間合いと投石までの時間を測りながら円を狭めてくる。
右の男が弓を構えたため石を放ったが、男は馬を横へ走らせてかわし、直後に別の馬蹄が左から迫った。振り向けば正面の男が距離を詰めており、狙いを変えるたびに別の一人が動く。
自分一人ならサルヒへ飛び乗って距離を取れるが、背後にはテムルと二匹の仔狼、ゲルと家畜がいる以上、ここを離れるという選択肢はなかった。
「姉ちゃん!」
テムルの声と同時に弦が鳴り、サランは地面を蹴った。矢が先ほどまで立っていた場所へ突き刺さり、もう大きくスリングを回している余裕がないと判断すると、革紐を腰へ戻して背から分銅を引き抜いた。
鎖を振って重みを乗せ、迫った馬の鼻先へ横薙ぎに走らせると、驚いた馬が首を振って男が手綱を引く。しかし、その隙に反対側から刃が迫り、身体を沈めた耳元を剣が掠めて髪が数本舞った。サランは地面へ手をついて転がり、起き上がりざまに分銅を馬の前脚近くへ叩きつけて踏み込みを止めるが、別の一人がすぐ正面から迫ってくる。
男たちは一撃を受ければ危険だと分かっているからこそ、無理に懐へ入らず、交互に攻めてサランを疲れさせようとしていた。何度も鎖を引き戻すうちに右肩は焼けるように痛み、掌には汗が滲んでいく。
「姉ちゃん、逃げて!」
「テムルを置いて、どこに逃げろっていうの!」
怒鳴り返しながら分銅を振り、近づいた男を牽制する。背後ではフルンが唸っていたが、テムルに呼び止められて踏みとどまっていた。
やがて年上の男ともう一人が馬を降り、剣を抜いた。負傷した男だけが馬上へ残り、二人が近くから追い込み、一人が外から隙を狙う形になる。
サランは半身になって分銅を低く回し、一人が踏み込んだ瞬間に振るったが、男はすぐ射程の外へ逃れた。その動きが囮だったと気づいた時には、もう一人が横から迫っており、剣先が脇腹の服を掠めて熱が走る。鎖を短く持ち直して次の斬撃へ分銅を叩きつけると甲高い音が響き、剣が大きく弾かれた。
反撃しようと踏み込んだところへ馬蹄が迫り、サランは横へ跳んだ。着地した足が湿った土で滑って膝をついたところへ男が迫ったため、地面に片手をついたまま分銅を低く振って脚を狙い、どうにか退かせる。
息を吸うたび肺が熱くなり、視界の端も少しずつ狭くなっていた。腕も脚も重くなる中、二人が同時に動き、右の男を分銅で止めた間に正面から踏み込まれる。サランは剣を持つ手首を左腕で払い、そのまま身体を寄せて膝を腹へ叩き込んだが、男が身体を折った瞬間、横から飛んできた拳が頬へ入り、視界が大きく揺れた。
口の中へ血の味が広がっても倒れず、分銅を引き戻して相手を下がらせる。男たちを倒しきる必要はなく、テムルのところまで行かせなければいいのだと自分へ言い聞かせたが、身体は確実に限界へ近づいていた。
そのときフルンが突然大きく吠え、男の一人が一瞬だけそちらを見る。サランは隙を逃さず踏み込んで分銅を振り、肩を掠めさせたものの、追撃しようとした横から刃が迫ったため、身体を投げ出すように避けて地面へ転がった。背中を強く打って息が詰まり、起き上がるまでのわずかな時間さえ長く感じられる。
「フルン、来るな!」
掠れた声でも仔狼は踏みとどまった。サランもどうにか立ち上がったが、脚は震え、分銅を握る右手には先ほどまでの力が入らない。その変化を見抜いた男たちは、今度は大きく距離を取らず、じわじわと間合いを詰めてきた。
年上の男を牽制した直後、右から来た刃先が腕を走り、焼けるような痛みとともに布が裂けて血が滲んだ。傷を押さえる暇もなく分銅を振り返して男を下がらせ、一歩、さらに一歩と後退したところで、踵へゲルを固定する綱が触れる。
背後にはテムルがおり、その前でフルンとツァラが身体を低くしていた。外側では負傷した男が痛めた腕で弓を構え、前には剣を持った二人が広がっているため、これ以上退けば綱に足を取られ、横へ逃れようとしてもどちらかの間合いへ入る。
サランは荒い呼吸を押し込み、残った力を右腕へ集めた。年上の男が踏み込んだため分銅を振ると、男はすぐに身体を引き、その動きがまた囮だったと気づいた時には、右の男がすでに走り込んで剣を高く上げていた。
分銅を引き戻そうとした肩に鋭い痛みが走り、鎖が思うように戻らない。背後には綱、反対側には年上の男、その外には弓を持つ男がいて、逃げ道は完全に塞がれていた。
振り下ろされる剣を見上げ、サランは咄嗟に腕を上げた。
避けきれない――そう思った。




