第26話 守るための手
振り下ろされる刃が陽の光を弾き、その白い輝きがサランの視界を横切った。酷使した右腕では分銅を引き戻せず、横へ逃れようにも背後にはゲルを固定する綱が張られている。反対側には年上の男、その外には負傷しながら弓を持つ男がいて、咄嗟に左腕を上げたところで剣を受け止められるはずもなかった。
頭や首へ受けるよりはましだと歯を食いしばった瞬間、風を裂く音とともに小さな石が男の右肩へぶつかった。身体が大きく傾き、剣の軌道も横へ逸れたことで、刃はサランの袖を掠めながら空を切る。
何が起きたのか確かめるより先に、サランは綱を跨いで距離を取り、分銅を引き戻しながら振り返ると、ゲルの横に立つ弟は、小さなスリングを握っていた。顔からは血の気が引き、唇も手も震えているのに、視線だけは石を受けた男から外れていない。
「姉ちゃんから離れろ!」
精いっぱい張った声を聞いた瞬間、サランはテムルの石に救われたのだと理解した。安堵が胸へ広がりかけたが、それは男がゆっくり弟へ顔を向けたことで消え失せる。
「……ガキ」
怒りの滲んだ声とともに男が剣を握り直す。つい先ほどまで身体を支配していた疲労も傷の痛みも意識の外へ押しやられ、サランの胸には、自分へ刃を向けられた時より強い恐怖が込み上げた。
「テムル、逃げて! そいつらから離れて!」
サランが叫ぶと、テムルは一歩下がったものの、足元で牙を剥くフルンとツァラを残して逃げようとはしなかった。
「でも、姉ちゃんが――」
「私はいいから! 早く!」
分銅を引きながら駆け出したが、長い戦いで疲れた脚は思うように動かない。腕や脇腹の傷が熱を持ち、打ちつけた腰にも鈍い痛みが残っていたが、男の視線がテムルへ向いていることの方が何倍も恐ろしかった。
家族も部族も失い、最後に残った身内はテムルだけだった。もう一度奪われるかもしれないという考えが胸を締めつけ、サランは肩の痛みを無視して分銅を持ち上げる。
「こっち見ろ!」
しかし男は、サランがまともに武器を振れなくなっていることに気づいたらしく、剣を構えたままテムルとの距離を縮めていく。その後ろでは年上の男も動き始め、サランが弟を守ろうと前へ出れば背中を狙える位置へ回ろうとしていた。
フルンが堪えきれず飛び出しかけ、テムルが慌てて首へ腕を回す。ひと月前より大きくなった仔狼に引かれて少年の身体まで前へ動き、その様子を見た男が剣を構え直した。
間に合わないとサランが思った瞬間、今度はスリングとは違う鋭い音が風を裂いた。
テムルへ向かっていた男が突然足を止め、自分の胸へ目を落とす。そこには一本の矢が深く突き立っていた。剣が指から抜け落ちると、男は膝から力が抜けるように崩れ、そのまま草の上へ倒れた。
遠くから近づく馬蹄の音に気づき、サランが顔を上げる。黒鹿毛のハルガが草を蹴ってこちらへ駆け、その背では短弓を握ったバヤルがすでに次の矢を番えていた。
「バヤル……」
「サラン! 無事か!」
いつもの笑顔はなく、バヤルは残る男たちへ弓を向けたまま周囲を見渡す。サランは自分の傷より先にゲルの横を指した。
「こっちはいい! テムルを見て!」
バヤルの視線がすぐ弟へ向かい、怪我がないことを確かめたように一瞬だけ表情が緩んだ。しかし戦いは終わっておらず、年上の男と、最初に石で腕を負傷した男が、突然現れた騎手を警戒している。
ハルガが大きく弧を描き、バヤルが二人を射程へ捉えたことで、男たちの意識はサランから外れた。
その隙を見逃さず、サランは分銅を草へ落とした。もう右腕では重い武器を振れない。代わりに腰へ手を伸ばし、バヤルからもらったナイフを抜くと、疲労で重い脚へ無理やり力を込めて年上の男との距離を詰めた。
二歩、三歩と踏み込み、ようやく男が振り返った時には、サランはもう懐へ入っていた。左手で衣服を掴み、剣をこちらへ向けられるより早く身体ごと右腕を押し出す。
ナイフの刃が男の首へ入った。
手に伝わった抵抗は、獣を解体する時とは違っていた。男の身体が強張り、掴んだ衣服の下で筋肉が震え、やがて剣が草へ落ちる。サランが刃を抜いて離れると、男は首元を押さえながら数歩よろめき、膝をついて崩れた。
刃を伝った血が指へ触れた。その温かさを感じた途端、胃の奥が縮み、サランの指先が震え始める。自分やテムルを殺そうとしていた相手だと理解していても、人間の首へ刃を刺したという事実は、理屈とは別のところへ重く残った。
「待ってくれ! もうやらない!」
残った男が叫び、傷ついた腕を庇いながら弓を草へ投げ捨てた。腰の刃物まで遠くへ放り、血の付いたナイフを握るサランと、矢を番えたバヤルを交互に見ながら声を震わせる。
「頼む、殺さないでくれ! もう何もしない!」
サランは答えられず、ただ男を見つめた。土と血で汚れた服、腕と脇腹の傷、殴られた口元、そして右手の血濡れた刃を考えれば、相手が怯えるのも無理はない。
「サラン、そいつは俺が見る」
ハルガから降りたバヤルの声に、サランは小さく頷いた。その直後、背後から「姉ちゃん!」と呼ばれ、弾かれたように振り返る。
「テムル!」
疲労も忘れて駆け寄り、弟の両肩を掴んだ。腕、胸元、頭、脚へ視線を走らせ、衣服に裂けた場所も血もないことを確かめると、ようやく胸を締めつけていた恐怖が緩む。
「怪我はない? 本当にどこも斬られてない?」
「ないよ。俺は大丈夫」
テムルの返事を聞いた途端、安堵と一緒に別の感情が込み上げた。
「じゃあ、なんで撃ったの! あいつがテムルを見たんだよ。もしバヤルが来なかったら、どうなってたか――」
「姉ちゃんが殺されそうだったから!」
テムルも負けないほど大きな声で叫んだ。握ったままのスリングが小さく震え、目には涙が浮かんでいる。
「何もしなかったら、姉ちゃんが死んじゃうと思ったんだ。だから撃ったんだよ」
その姿を見て、サランはようやく自分が何に怒っていたのか気づいた。弟を危険へ巻き込んだことが怖かっただけで、助けてくれたことを責めたいわけではない。
「……ごめん。怒ってるんじゃないの。テムルが殺されるかもしれないって思ったら、怖くて……すごく怖かった」
声の震えを隠さず、サランは弟を抱き寄せた。服に染みついた草と土と汗の匂いも、腕の中から伝わる体温も、幼い頃から知っているテムルのものだった。
「でも、助かった。あの石が当たってなかったら、たぶん私は斬られてた。だから……ありがとう」
背へ回した手に力を込めると、少し遅れてテムルの腕もサランを抱き返した。
「姉ちゃん、血が出てる。痛くない?」
「少しは痛いけど、腕も脇腹も浅いから大丈夫。心配しなくていいよ」
そう答えたものの、緊張が緩んだ途端、身体のあちこちから痛みが戻ってきた。切られた腕と脇腹、殴られた頬、転がった時に打った背中と腰、何度も分銅を振った右肩まで、今になって一斉に存在を主張している。
「サラン、傷を見せろ」
いつの間にかそばへ来たバヤルが短弓を置き、険しい顔で腕へ手を伸ばした。サランが「大丈夫だって」と言っても引かないため、諦めて腕を差し出す。
「大丈夫かどうかは見てから決める。……こっちは深くないな。脇腹は?」
「そっちも浅いよ。服まで脱がせる気?」
少し身体を引くと、バヤルは裂けた布の隙間から傷の位置だけを確かめ、それ以上触れなかった。その真剣な横顔を見ているうちに、本当に助けに来てくれたのだという実感が遅れて胸へ落ちてくる。
「……来てくれてありがとう」
「今日もここへ来る途中だった。お前のゲルの方から、鞍をつけたまま誰も乗ってない馬が走ってきたから、嫌な感じがして急いだんだ」
もし少し遅かったら、と考えかけて、サランはやめた。代わりに自分の右手を見つめ、掠れた声で呟く。
「……私、人を殺した。二人も」
バヤルはすぐには何も言わなかった。サラン自身も、もっと泣いたり吐いたりするものだと思っていたのに、実際には手が震え、喉が乾き、胸の奥へ重いものが沈んでいるだけだった。それ以上に、目の前でテムルが生きていることへの安堵の方が大きい。
「こんなものなのかな。人を殺すって、もっと何かあると思ってた」
バヤルは倒れた男たちへ一度視線を向け、それからサランへ戻した。
「今、決めなくていいだろ。今日の夜になって何か思うかもしれないし、明日になってからかもしれない。何も思わないかもしれない。でも、お前がテムルを守ろうとして戦ったことは変わらない」
正しいとも忘れろとも言われなかったからこそ、その言葉は抵抗なく胸へ入った。
やがてバヤルがサランの手にあるナイフへ視線を落とし、「貸せ、血を落とす」と手を差し出した。サランは少し迷ってから柄を向ける。
「せっかくもらったのに、こんな使い方しちゃった」
「使うためにやったんだよ」
「人を刺すため?」
「……そこまでは考えてない」
思わずサランの口元が緩み、バヤルもわずかに笑った。そのやり取りを聞いていたテムルもようやく息を吐き、足元ではフルンが血の匂いを嗅ぐように傷ついた腕へ鼻先を寄せる。
「舐めないの。これは駄目」
左手で頭を押し返すと、フルンは不満そうに鼻を鳴らしながらも足元へ座った。ツァラもテムルの脚へ身体を寄せている。
サランはサルヒ、ボル、トゴ、そしてミラたちへ順番に目を向けた。騒ぎに怯えてはいるものの、どの家畜にも怪我はなく、テムルも二匹の仔狼もここにいる。
全員が無事だと確かめた途端、身体を支えていた力が抜け、膝が小さく震えた。
「……とりあえず座れ」
すぐ気づいたバヤルに促され、サランは今度は言い返さずゲルの前へ腰を下ろした。地面の硬さが伝わると、自分が思っていた以上に疲れていたことが分かる。
テムルも隣へ座り、フルンとツァラが二人の前へ伏せた。少し離れたところでは、バヤルが降伏した男から目を離さず立っている。
もう誰かを殴る必要も、分銅を振る必要も、ナイフを突き立てる必要もない。サランは血の残る左の掌をゆっくり開き、その手へ隣から伸びてきたテムルの小さな手を受け止めた。
何も言わずに握られた手から、確かな温かさが伝わってくる。
サランも言葉にはせず、ただその手を握り返した。




