第27話 髪飾りに込めたもの
戦いが終わってしばらく経っても、草原にはまだ血の匂いが残っていた。西から東へ流れる風はいつもと変わらず踏み荒らされた草を揺らしていたが、サランには普段なら気にも留めない土や家畜の匂いに、鉄を思わせる生臭さが混じっているように感じられた。
ゲルの前に腰を下ろしていたサランが立ち上がろうとすると、隣にいたテムルの指がもう一度袖を掴んだ。
「どうしたの? まだどこか痛い?」
「何でもない。姉ちゃんが立ったから……ちょっと気になっただけ」
そう答えて手を離したものの、テムルはその場から動かず、草が大きく揺れるたびに視線を向けている。足元ではフルンとツァラも身体を寄せ、普段より周囲の物音へ敏感になっていた。
「先に傷を洗え。片づけるのはその後だ」
捕らえた男を見張っていたバヤルに言われ、サランは素直に水と布を持ち出した。腕と脇腹の傷を洗うとひりついたものの、どちらも血はほとんど止まっている。その間もテムルはすぐそばを離れず、布を巻き終えてサランが立てば一緒に立った。
サランは何も言わず弟の頭を撫で、それから動かなくなった三人へ目を向けた。
「……片づけよう。ここへ置いたままにはできないよね」
「ああ。テムルはここで待ってろ。すぐ戻る」
バヤルの言葉にテムルの顔が強張ったため、サランはしゃがんで目線を合わせた。
「フルンとツァラをお願い。ミラたちもまだ落ち着いてないから、そばにいてあげて。私はバヤルとすぐそこまで行くだけだから」
「分かった。……ちゃんと戻ってきてね」
「もちろん」
ようやく頷いた弟を残し、サランはバヤルと死者のもとへ向かった。
最初の男へ近づくと、自然に足が遅くなる。名前も出身も知らず、家族がいるのかさえ分からない。ただ家畜を値踏みし、警告を無視して武器へ手を伸ばしたため、自分は石を放った。その判断を間違えたとは思っていないが、少し前まで動いていた人間が二度と動かないという事実には、狩りとは違う重さがあった。
三人をゲルの近くへ残せば獣を呼び寄せるため、盗賊たちの馬を使って丘の向こうまで運ぶ。サランが脚側を持ち上げると、衣服越しの身体にはまだ僅かな温もりが残っており、ナイフを首へ突き立てた時の感触が右手へ蘇った。
指から一瞬力が抜けたことにバヤルは気づいたようだったが、何も言わず反対側を支えた。
丘の向こうは水場や生活場所から離れ、風のよく通る場所だった。草原では旅の途中などで死者が出た場合、必ずしも土へ埋めず、人や家畜の暮らしから離れた場所へ返すこともある。
三人を並べると、バヤルは残された武器や持ち物をまとめた。
「武器は持って帰る。生き残った奴の話を聞く時、こいつらの物もあった方がいい」
「うん。……行こうか」
サランは自分が刺した男へ一度だけ目を向けた。胸の奥に重さは残っていたが、今度は目を逸らさず、風に揺れる衣服を見届けてから丘を下った。
*
ゲルへ戻ると、入口の前にいたテムルがすぐ立ち上がり、サランのところまで駆けてきた。何か言う代わりに服の裾を掴んだため、サランはその手をそのままにして頭を撫でる。
「終わったよ。もう大丈夫」
「……うん。姉ちゃん、ちゃんと戻ってきた」
バヤルは姉弟を横目に、縛っていた男を立たせた。
「こいつを俺のところへ連れていく。親父たちにも話を聞いてもらう。四人が本当にただの盗賊だったのか、どこから来たのかくらいは確かめたい」
「戻ってくる?」
サランより先にテムルが尋ねると、バヤルは男を馬へ乗せながら頷いた。
「ああ。預けたら戻る。それまで二人とも遠くへ行くなよ。他に仲間がいるかもしれないし、何かあっても無理に戦うな」
「分かってる。今日はもう私も動きたくないから、安心して」
サランが苦笑すると、バヤルはようやくハルガへ跨がった。
二頭が見えなくなった後も、テムルは姉のそばを離れなかった。ゲルへ入っても、サランが水を取りに動けばついてきて、外で馬が鼻を鳴らすだけで入口へ顔を向ける。怖かったのだろうと分かっていたため、サランは理由を聞かず、今日は好きなだけ近くにいさせることにした。
*
太陽が西へ傾いた頃、伏せていたフルンが不意に頭を上げた。テムルもすぐサランの隣へ寄ったが、仔狼は昼間のようには唸らず、草原へ鼻先を向けたまま尾を一度振る。
「今度はバヤルかな。フルン、怒ってないし」
「たぶんね。ほら、来た」
丘の向こうから黒鹿毛のハルガが姿を現すと、テムルの肩から目に見えて力が抜けた。
バヤルはゲルの近くで馬を止め、鞍から降りた。朝から走り続けたハルガの首には汗が滲んでおり、サランが湿った毛を撫でる。
「ハルガ、ご苦労さま。今日は本当に頑張ったね」
「俺にはないのか?」
横から不満そうな声がして、サランは馬から手を離してバヤルを見る。
「……来てくれてありがとう。あの時、本当に助かった」
冗談で返されると思っていたのか、バヤルが一瞬黙ったため、今度はサランが眉を寄せた。
「何、その顔。自分から言わせたくせに」
「いや、ちゃんと言われると思ってなかっただけだ。……どういたしまして」
少し気まずそうに答える姿がおかしく、サランの口元にも小さな笑みが浮かんだ。
捕らえた男は父親や年長者へ預けてきたばかりで、詳しい事情はまだ聞けていないという。そのまま三人で夕食を作り始めると、テムルは火のそばへ座りながらも、サランやバヤルが立つたびに目で追った。
鍋の中で干し肉を戻し、乳と塩を加える。温かな匂いが漂い始めると、鼻の奥へ残っていた血の匂いもようやく薄れたように感じられた。
食事を終える頃には空の赤みも弱まり、テムルは二匹の仔狼を連れてゲルへ入ったが、入口を潜る前に振り返った。
「姉ちゃんもすぐ入るよね? 外にずっといないよね?」
「うん。少しバヤルと話したら入るから、先に休んでて」
返事を聞いてから中へ消えた弟を見送り、サランは小さく息を吐いた。
「かなり怖かったみたいだな」
「うん。あの子、ああいう時ほど怖いって言わないから。今日は近くにいたいなら、それでいいと思ってる」
バヤルは頷き、それ以上は何も言わなかった。
少し離れてハルガの鞍を直しながら、バヤルは昼間の四人を思い返していた。服装や馬具は草原で見慣れたものに近かったが、肌や髪、言葉の僅かな響きには、この周辺の民とは違うものがあった。
市場で油商人から聞いた、西の争いの話も頭から離れない。草原の部族と外から来た者たちが揉めているという噂と、今日の四人を結びつける証拠はない。それでも偶然と片づけるには嫌な感覚が残っていた。
「バヤル、何か気になることでもある?」
「捕まえた奴の話を聞けば分かると思う。今はまだ何とも言えない」
サランも深くは聞かず、火へ小枝を足した。
バヤルはその横顔を見ながら、荷物の中へ入れてきた小さな包みを思い出した。本当は今日渡すつもりではなく、もう少し時間をかけてもいいと思っていた。しかし、あの馬を見つけなければ、嫌な予感を無視していれば、矢を放つのが少し遅れていれば、サランかテムルのどちらかがここにいなかったかもしれない。
次に会った時でいいと思っていても、その次が必ず来るとは限らない。
「サラン、渡したいものがある」
「また? 最近、私に物あげすぎじゃない? 針入れにナイフ、サルヒの飾りまであるんだけど」
差し出された包みを見てサランが呆れたように笑うと、バヤルは「全部使ってるだろ」と返した。否定できずに受け取り、布を開く。
中には、金属と革を組み合わせた小さな髪飾りが入っていた。これまでの贈り物と似た細かな模様が刻まれ、夕暮れの残光を受けた金属が淡く光っている。
「……きれい。これも私に?」
「ああ。でも、それには意味がある。髪飾りだけじゃない。針入れも、ナイフも、サルヒの飾りも全部だ」
模様をなぞっていたサランの指が止まり、腰のナイフへ視線を落としてから、怪訝そうにバヤルを見た。
「全部って……どういうこと?」
「俺たちのところじゃ、気になる女に順番に渡すんだ。最初から意味を説明して渡すものじゃないから黙ってた」
「私、そんな風習知らないんだから分かるわけないでしょ。テムルが変な顔してたのは、もしかして知ってたの?」
「たぶん途中で気づいてたんじゃないか」
サランの頬がじわじわと赤くなる。針入れも、ナイフも、サルヒの飾りも、単なる親切ではなかったのだと、今になって全部が一つにつながった。
「じゃあ、この髪飾りは?」
問いかける声が少し小さくなると、バヤルも笑みを消してサランをまっすぐ見た。
「髪飾りは最後に渡す。お前に、俺のそばにいてほしいって意味だ」
夕方の風が二人の間を抜け、火をわずかに揺らした。
「俺はサランが好きだ。今日、お前とテムルが死ぬかもしれなかった。俺が少し遅かったらって考えたら、次でいいとか、そのうち言えばいいと思ってるのが怖くなった。こんな日に言うことじゃないかもしれないけど、言える時に言っておきたい。テムルも含めて、お前たちのことを大事にしたいと思ってる」
サランは髪飾りを握ったまま俯いた。
バヤルが来ると聞けば嬉しく、一緒に市場へ行った日は楽しかった。数日姿を見なければ次はいつ来るのかと思い、もらった道具を使うたび自然と顔を思い出していた。それらが最初から同じところへ向かっていたのだと知ると、胸の奥が熱くなり、心臓の音まで大きく感じられる。
「……ずるい。今日そんなこと言われたら、断りにくいでしょ」
「悪い。でも、断るのか?」
顔を上げると、バヤルは真剣な顔をしている。サランは思わず息を吐き、髪飾りを胸元へ引き寄せた。
「そういうこと聞くのもずるい。……これを受け取ったら、結婚するってことになるの?」
「そこまでは決まらない。俺の気持ちを受け取ったってことだ。答えを今すぐ決めろとは言わない」
返そうと思えば返せる。それでもサランは、掌の髪飾りを返したいとは思わなかった。
「じゃあ、返さないから。私も……」
そこまで言って言葉を止めると、バヤルは黙ったまま続きを待った。頬がさらに熱くなり、サランはわざと視線を逸らす。
「今日は言わない」
「何でだよ。そこまで言ったなら最後まで――」
「バヤルだけ全部言ってすっきりするのはずるいから。少しくらい待ってればいいでしょ」
ようやく顔を上げると、バヤルが困ったように笑っており、その表情につられてサランも笑った。
その時、ゲルの入口で布の擦れる音がした。
「……テムル、起きてるでしょ?」
しばらく沈黙した後、「起きてる」と小さな声が返ってきたため、サランは呆れながらも怒らず、こちらへ来るよう声をかけた。
入口の布が持ち上がり、テムルが顔を出す。その後ろからフルンとツァラも続き、少年は少し気まずそうにバヤルを見てから、何も言わずサランの隣へ座った。
肩が触れるほど近い距離だったが、サランも離れなかった。フルンが二人の足元へ伏せ、ツァラはテムルの反対側へ身体を寄せる。
やがて草原は夜へ沈み、遠い丘も闇に溶けていった。その向こうには今日草原へ返した三人が残り、さらに遠い西では、まだ誰も知らない何かが起きている。
それでも今は、小さな火の周りにサランとテムル、バヤルがいる。
サランは掌を開き、髪飾りを見つめた。冷たかった金属には、握っているうちに自分の体温が移っている。
昼間に指へ触れた血の温かさとは違う。失うかもしれない恐怖とも違う。
サランは髪飾りを握り直し、隣にいるテムルの肩へ自分の肩を軽く触れさせた。テムルも離れず、向かい側にはバヤルがいる。
遠い西から吹く風がこれから何を運んでくるのかは、まだ分からない。ただ今夜だけは、ここにいる全員の気配を確かめながら過ごしていたかった。




