第28話 髪飾りの向こう
バヤルを乗せたハルガが夜の草原へ消えたあとも、サランはしばらくゲルの前に立っていた。昼間なら遠くまで見渡せる草原も、今は星明かりの下へ沈み、弱い風が草の穂を揺らす音に、サルヒの鼻息やボルが草を噛む音が混じっている。
昨日までなら気にも留めなかった夜の音が、今夜は妙にはっきり耳へ届いた。血の匂いはほとんど消え、倒れた男たちも丘の向こうへ運んだというのに、暗がりへ目を向けると誰かが立っているような気がする。
サランは小さく息を吐き、掌を開いた。
バヤルから受け取った髪飾りは、握っているうちにすっかり体温を帯びていた。親指で細かな模様をなぞれば、先ほどの言葉まで一緒に蘇る。
――俺はサランが好きだ。
以前より頻繁に訪ねてくることも、何かと手を貸してくれることも分かっていた。それでも、針入れやナイフ、サルヒの馬具へ付けた飾りまで、すべてが一続きの求愛だったとは思っていなかった。
「姉ちゃん、そろそろ中に入ろう。寒くなってきたよ」
隣から声をかけられ、サランは髪飾りを握り直した。テムルの足元にはフルンとツァラが寄り添っている。
「そうだね。明日も朝から仕事があるし、今日はもう休もうか」
二人がゲルへ入ると、仔狼たちも先に潜り込んだ。火の残り香と、フェルトへ染みついた乳や革の匂いに包まれ、サランはようやく身体の力を抜いた。
向かいではテムルが寝床を整えていたが、毛布を何度も動かした末、いつもより姉の近くへ寄せている。サランが理由を尋ねると、少年は地面の凹凸が気になるだけだと言いながら、外でボルが蹄を動かした音にはすぐ入口へ顔を向けた。
昼間のことがあったのだから、翌日になったからといって何も感じなくなるはずはない。怖かったのかと聞けば、おそらく大丈夫だと答えるだろう。サランはあえて追及せず、火の明かりへ髪飾りをかざした。
「姉ちゃん、それどうするの?」
革袋を片づけたテムルが隣へ座り、ツァラの首筋を撫でながら髪飾りを覗き込む。
「もらったんだから使うよ。髪をまとめるのにちょうどよさそうだし」
「髪飾りじゃなくて、バヤルのこと。気持ちを受けるの?」
髪へ伸ばしかけた手が止まり、サランは弟を見た。真正面から尋ねられるとは思っておらず、頬が少し熱くなる。
「嫌だったら受け取ってないよ。でも、これを受け取ったからって明日から夫婦になるわけじゃないでしょ。そういう話は、これからちゃんと考えることだから」
「じゃあ、バヤルのことは好きなんだ?」
「そういうことを普通に聞く? テムル、最近ちょっと遠慮がなくなってない?」
呆れて睨むと、テムルは悪びれず笑った。その顔が昼間まで時折見せていた硬い表情ではなく、いつもの姉をからかう顔に戻っていたため、サランも強くは言えない。
「だって姉ちゃんのことだから気になるよ。バヤルが来ると楽しそうだし、いつも言い合ってるけど、本気で喧嘩してるわけじゃないでしょ」
「十歳のくせに、よく見てるね……。じゃあ逆に聞くけど、テムルはどうなの? もし私とバヤルが、その……そういうことになったら」
「結婚したら?」
「例えばの話だからね」
念を押すサランを見ながら、テムルは少し考えるようにツァラの毛へ指を埋めた。
「僕はバヤルならいいよ。よく来てくれるし、フルンとツァラのことも手伝ってくれるし、昨日も姉ちゃんを助けてくれた。それに、姉ちゃんもバヤルといる時は楽しそうだから」
昨日のことを口にしたところで指が一瞬止まったが、ツァラが鼻先で手を押し上げると、テムルは小さく笑って撫で直した。
その様子に安心しかけたサランだったが、次に続いた声は少しだけ低かった。
「でも、姉ちゃんがバヤルと結婚したら、姉ちゃんだけ向こうへ行くの?」
何を心配しているのかはすぐ分かった。
サランは髪飾りを置き、弟の方へ身体を向けた。
「行くとしてもテムルも一緒だよ。私だけどこかへ行って、テムルを置いていくわけないでしょ」
「……僕も?」
「当たり前だよ。私とテムルは家族なんだから、そこは何があっても変わらない」
その答えだけは考える必要すらなかった。
かつて望まない婚姻を迫られた時、サランが何より恐れたのは、まだ幼かった弟と引き離されることだった。だからテムルの手を取り、それまで暮らしていた者たちのもとを離れた。食べ物が足りない時も、雨で動けない日も、競馬で稼いだ日も、寒い夜に一枚の毛布へ潜り込んだ時も、ずっと二人だった。
誰かを好きになったからといって、その積み重ねが消えるはずはない。
テムルはしばらく姉を見つめていたが、やがて肩の力を抜き、再びツァラを撫で始めた。
「じゃあ、もし結婚したらバヤルも家族になるんだね。僕のお兄ちゃんになるのかな」
「え……まぁ、そうなるのかなぁ?」
思いもしなかった言葉に、サランの頭へバヤルとテムルが並ぶ姿が浮かぶ。困ったことに、その光景には思ったほど違和感がなかった。
「まだ結婚するって決まってないからね。どこで暮らすかも何も話してないんだから」
「姉ちゃん、顔赤いよ」
「火のそばだから! ほら、もう寝る準備するよ」
声を立てて笑う弟を追い立てるように、サランは燃料を足し、水の容器や明朝使う道具を整えた。毎晩繰り返してきた何でもない作業を一つずつ終えるうちに、襲撃で乱された暮らしが少しずつ元の形へ戻っていく。
最後に髪飾りを布へ包もうとすると、テムルがまた覗き込んだ。
「それ、次にバヤルが来た時につけたら?」
「テムル、もう寝なさい」
笑いながら毛布へ潜る弟を睨みつつ、サランも寝床へ入った。今夜はテムルの寝息がいつもより近い。それでも穏やかな呼吸を聞いているうちに、張りつめていた胸の奥も少しずつ緩んでいった。
*
翌朝、サランたちはいつものように家畜の世話から一日を始めた。傷はまだ痛んだものの、腕にも脇腹にも新しい出血はなく、無理をしなければ問題はなさそうだった。
サルヒの身体を確かめ、ボルとトゴの様子を見て、山羊へ水をやる。テムルも眠そうな顔で仕事を手伝い、フルンとツァラは朝露に濡れながら二人の周囲を走り回っていた。
昨夜は外の音へ敏感だったテムルも、朝になればほとんど普段通りだった。遠くで鳥が飛び立つと一度顔を上げたが、すぐボルの世話へ戻る。
昨日のことを忘れる必要はない。それでも腹を空かせる家畜がいて、放っておけば好き勝手に走る仔狼がいて、今日やらなければならない仕事がある。
暮らしが待ってくれないことを、サランは今だけはありがたいと思った。
*
同じ頃、湖畔の野営地へ戻ったバヤルは、父親とともにハルガの手入れをしていた。
「昨日の連中のことで、少し気になってることがある」
バヤルは、四人の顔立ちや肌、髪、言葉の響きがこの周辺の者とは少し違っていたことと、市場で耳にした西の揉め事について話した。
父親は革紐を直す手を止めずに聞き終えると、しばらく考えてから息子を見る。
「関係があると思うのか?」
「分からない。ただ、引っかかってるだけだ」
「なら今はそれでいい。捕まえた男から話を聞いてから考えろ。最初から答えを決めて聞けば、見えるものまで見えなくなる」
バヤルも頷いた。四人が単なる遠方の盗賊だった可能性は十分にあり、西の噂と結びつける証拠はまだ何もない。
話が終わり、再びハルガの背を拭こうとしたところで、父親が何でもない調子で尋ねた。
「それで?……髪飾りは渡したのか?」
「……なんで今その話になるんだよ」
「持っていったんだろ?」
言葉に詰まったところへ母親までゲルから顔を出し、受け取ってもらえたのかと聞いてくる。
「渡したし、好きだって言ったよ。サランも髪飾りは返さないって言ってた」
「それで、サランは何て?」
「……今日は言わないって」
母親が思わず吹き出し、父親まで口元を緩めたため、バヤルは露骨に顔をしかめた。
「笑うところじゃないだろ」
「ごめんなさい。でも、あなたから聞いてるサランらしいと思って」
さらに母親が嫁いだ妹のアルナにも知らせると言い出したため、バヤルは止めようとしたが、父親は笑いながら首を振るだけだった。
結局、その日の午後にはアルナまで実家へ顔を出した。兄から話を聞くと楽しそうに笑ったものの、髪飾りを返されなかったなら十分だろうと言い、それ以上はからかわなかった。
やがて父親が乳茶の器を置き、少し真面目な顔でバヤルを見る。
「先の話をするには早いが、一つだけ忘れるな。サランにはテムルがいる」
「分かってる。あいつらは二人で生きてきたんだ。もし本当に結婚するところまで行っても、サランだけこっちへ来ればいいなんて思ってない。テムルも一緒だし、二人を離すつもりはないよ」
その答えに迷いはなかった。
サランのところへ通ううちに、テムルがいることは特別な条件ではなくなっていた。姉をからかい、仔狼を追いかけ、馬の世話をしながら失敗してはサランに怒られる少年まで含めて、すでに二人の暮らしなのだ。
父親はしばらく息子を見たあと、静かに頷いた。
「それならいい」
*
その日の夕方、サランは干していた毛布を取り込み、ゲルの中へ運んでいた。
昨日ここで人が死んだとは思えないほど、草原にはいつもの時間が流れている。家畜は草を食み、フルンとツァラはテムルの周囲を走り、傾いた陽が長い影を作っていた。
「姉ちゃん、今日も髪飾りつけないの?」
ボルのそばから声をかけられ、サランは昨夜枕元へ置いた髪飾りへ目を向けた。
使うつもりではいた。それなのに、求愛の意味を知った今では、身につけることそのものが自分の気持ちを見せるようで落ち着かない。
それでも返すつもりはなかった。
「分かったから、そんなに見ないで」
サランは手櫛で髪を整え、いつもまとめている位置へ髪飾りを差し込んだ。頭を軽く振っても落ちないことを確かめて外へ出ると、待っていたテムルがすぐに姉の髪を見る。
「姉ちゃん、それ――」
「何も言わない。笑うのもなし」
先回りして釘を刺したのに、テムルは嬉しそうに口元を緩めた。
「よく似合ってるよ」
「テムル!」
逃げ出した弟をフルンとツァラが遊びだと思って追いかけ、三つの影が夕日の草原へ長く伸びていく。
サランは呆れながら見送り、無意識に髪飾りへ触れた。
まだ何も決まっていない。バヤルへ自分の気持ちを言葉で返してもいないし、結婚や暮らす場所について話したわけでもない。
それでも以前なら、誰かと暮らす未来を考えた時、最初に浮かんだのはテムルと引き離される怖さだった。
今は違う。
自分の隣にはテムルがいて、その少し先にはバヤルがいる。そんな光景を、今のサランは自然に思い浮かべることができた。
やがてテムルが戻ってくると、サランは夕餉の鍋へ肉を入れた。弟が器を並べ、仔狼たちが足元を行き来する。
湖畔では、バヤルもまた家族といつもの夕方を過ごしている。
二人はまだ、今日それぞれが家族と同じことを話したとは知らない。
結婚の約束もしていないのに、二人がぼんやりと思い描き始めた未来には、最初から同じ少年が当たり前のようにいた。
冷え始めた風がサランの髪を揺らし、新しい髪飾りが小さく動く。サランは指先でそっと押さえると、テムルが差し出した器へ夕餉をよそい、いつもと変わらない二人の夜を始めた。




