第29話 西より来るもの
朝の風には雨の気配が混じっていた。東から差す朝日は草原を淡い金色に染めていたが、西の低い空には重い灰色の雲が溜まり、遠くの丘は輪郭を失いかけている。地面はまだ乾いているものの、風が運ぶ湿った匂いを嗅げば、今日か明日にはどこかで雨になるだろうと分かった。
十八になったばかりのオルゲンは栗毛の牡馬に跨がり、丘の下へ広がる羊と山羊の群れを眺めていた。百頭ほどの家畜を昼前までここで草ませ、その後は東へ動かす予定になっている。
羊が鳴き、馬が草を噛み、遠くのゲルから上がる煙が風へ流れていく。昨夜は母親が乳を焦がし、妹が大笑いする横で、父親が平然と飲んだせいで残りまで押しつけられていた。今日も仕事を終えれば馬具の革紐を編み、夕方には十歳の妹を水場へ連れていく。そんな変わらない一日になるはずだった。
群れへ視線を戻した時、栗毛が突然頭を上げた。
「どうした?」
首筋へ手を置くと、皮膚の下で筋肉が強張っている。耳は揃って西へ向き、その先にある丘の向こうから、何本もの細い煙が空へ伸びていた。
あの辺りには別の一団が野営していたはずだった。野焼きの季節ではなく、ただの火事にしては煙の上がり方がおかしい。
胸に嫌なものを感じたオルゲンは、近くの年長者へ群れを頼み、栗毛を走らせた。
丘を越えるたびに焦げた匂いが濃くなり、やがて焼けた羊毛や革に混じって、生臭い重さが鼻の奥へまとわりついた。栗毛が進むのを嫌がり始め、それでも宥めながら次の丘へ上がった瞬間、オルゲンは反射的に手綱を引いた。
昨日まであった野営地は、ほとんど残っていなかった。
いくつものゲルが焼け落ち、黒くなった骨組みから煙が上がっている。家畜は散り、草の上には羊や山羊だけでなく人まで倒れていた。数日前には子供が馬を追い、老人が革を干し、女たちが乳を搾っていた場所から人の声が消え、火の爆ぜる音と焼けた布を揺らす風だけが残っている。
「誰かいるか! 返事をしてくれ!」
喉の乾きを覚えながら叫び、馬を進ませる。倒れた男の胸には深い傷があり、その先には水場で何度か言葉を交わした若者が仰向けになっていた。開いたままの目を見て胃の奥から何かがせり上がった時、焼けた荷車の向こうから微かな音が聞こえた。
馬を飛び降りて駆け寄ると、煤で黒くなった毛布の下から腕が覗いている。毛布を退けると、年老いた男が浅い息を繰り返していた。
「分かるか? 水だ。少し飲めるか?」
水袋を口元へ運んだが、老人はほとんど飲めず、激しく咳き込んだ。その肩を支えると、乾いた唇が僅かに動く。
「……東へ……」
「何があった? 誰にやられたんだ?」
「西から……来た……」
「どこの部族だ? 何人いる?」
老人は苦しそうに首を振った。
「違う……知らん奴らだ。たくさん……いる……」
それきり身体から力が抜けた。肩を揺らしても反応はなく、オルゲンはしばらく動けなかったが、やがて老人の顔へ毛布を掛けた。
西から見知らぬ者たちが大勢来て、東へ向かっている。
その東には、自分たちの野営地があった。
*
昼を迎える前には周辺に散っていた者たちが集まり、焼かれた野営地から戻ったオルゲンの話を聞いていた。最初は大きな盗賊団ではないかという声もあったが、別方向へ偵察に出ていた男が汗だくの馬で戻ると、その考えは消えた。
「軍勢だ。西から来てる。丘の向こうまで列が続いてた。二百や三百じゃない。千でも足りるか分からん」
集まった者たちの顔色が変わった。草原でも放牧地や水場を巡る争いはあるが、千を超える人間が一つにまとまって動く光景など、オルゲンには想像もできない。
話し合いの末、家畜と子供、戦えない者たちは東へ逃がし、戦える者は残って相手を確かめることになった。戦わずに済むならそれが一番だったが、焼けた野営地を見た者たちは楽観していない。
「お前は母さんたちと東へ行け」
父親に言われたオルゲンは、矢筒を確かめながら首を振った。
「俺も戦えるよ。弓なら父さんより当たる」
「誰が教えたと思ってるんだ」
「爺ちゃん」
一瞬黙った父親は、やがて苦笑した。
「そうだったな。なら俺から離れるな。勝手に前へ出るんじゃないぞ」
オルゲンは頷いた。妹には何も言わなかった。別れ際に泣かれれば、自分まで残れと言いたくなる気がしたからだ。
乾燥肉を口へ押し込みながら弓を握ると、震えていた指が少しだけ落ち着いた。
*
午後、百人にも満たない草原の騎手たちが丘の上へ並び、その眼下を西から来た軍勢が進んでいた。
先頭の後ろに人が続き、そのさらに後ろにも列が伸びている。槍と盾を持つ兵、馬上では扱えそうにないほど長い弓を担ぐ者、騎兵、荷車まで連なり、どこまで続いているのか分からない。
実際には二千ほどだったが、オルゲンたちにその数を知る術はなかった。
何より異様なのは、大勢が似た防具を身につけ、同じ印の布を掲げ、歩く速さまで揃えていることだった。寄せ集めの草原の戦士とは明らかに違う。
やがて先頭が止まり、号令とともに盾を持つ兵が前へ出た。
「来るぞ! 正面に留まるな!」
草原の騎手たちが一斉に駆け出し、オルゲンも栗毛の腹を蹴った。身体を低くして複合弓へ矢を番え、敵の正面を横切りながら放つ。周囲からも矢が飛び、盾へ当たる乾いた音が連続した。
オルゲンの二射目は、盾の上から顔を出した男の肩へ刺さった。男が倒れるのを見た瞬間、胸の奥へ熱が広がる。
相手がどれほど多くても歩兵なら馬には追いつけない。近づいて射ち、離れて側面へ回ればいい。それは幼い頃から馬と弓を扱ってきた彼らが最も得意とする戦い方だった。
「大したことないぞ! もう一度回れ!」
誰かが笑いながら叫んだ直後、敵陣の奥から大きな号令が響いた。
盾の列が開き、その後ろから長弓を持つ兵たちが整然と進み出る。まだかなりの距離があるため、オルゲンは次の矢へ手を伸ばした。
「散れ!」
父親の叫びと同時に、空を切り裂く音がした。
無数の矢が高く舞い上がり、黒い群れとなって降ってくる。オルゲンが栗毛を急旋回させた直後、草と土へ矢が突き刺さり、馬の悲鳴が重なった。すぐ後ろを走っていた男が馬ごと倒れ、別の馬は首へ矢を受けて騎手を投げ出している。
栗毛の首へ身体を伏せながら父親の姿を探し、無事なのを確認した時、敵の隊列からさらに数人が前へ出た。
武器を持たない者たちが腕を上げると、空気が震える。
「魔法だ! 離れろ!」
草原にも魔法を使える者はいる。しかしオルゲンが実際に見たことは、生まれてから二度しかなかった。
それが一人ではない。
次の瞬間、騎手たちの前方で地面が弾け、土と草が高く舞った。別の場所では火が走り、驚いた馬たちが進路を変える。隊列が散らされたところへ二度目の矢の雨が降った。
一本が鞍を掠め、栗毛が大きく跳ねた直後、その身体が沈む。
オルゲンは肩から地面へ叩きつけられ、肺の空気を吐き出した。息が戻って顔を上げると、少し先で栗毛が倒れている。腹には深く矢が刺さり、前脚で地面を掻きながら立とうとしていた。
「おい……もういい。動くな」
這うように近づき、首へ手を置く。いつもと変わらない温かな体温が掌へ伝わった。
「オルゲン!」
父親が馬を走らせてくる。その向こうから敵の騎兵が迫っているのが見えた。
「父さん、来るな!」
父親も気づいて馬を返し、剣を抜いた。二頭が交差し、金属のぶつかる音が響く。
オルゲンは落とした弓を拾い、残った矢を番えた。揺れる二人を狙って息を止め、指を離す。矢は敵兵の脇腹へ入り、男が馬から落ちた。
「父さん!」
振り返った父親の顔が、少し笑ったように見えた。
その直後、遠くから飛んできた矢が背中へ突き刺さり、さらにもう一本が身体へ入った。
父親が草の上へ落ちる。
オルゲンは痛む身体を忘れて走り出した。あと少しで届くと思った瞬間、腹へ強い衝撃が走り、身体が止まった。
視線を下げると、自分の腹から矢が伸びていた。
遅れて焼けた鉄を押し込まれたような痛みが広がり、脚から力が抜ける。膝をつき、そのまま草の上へ倒れた。
少し先に父親がいる。
「父さん……」
返事はなかった。
周囲では馬が走り、男たちが叫び、弓の弦が鳴っている。腹へ手を当てると掌はすぐ血に濡れ、その温かさだけが妙にはっきり感じられた。
霞む視界を西へ向ける。
草原の騎手たちはすでに散り始めていた。しかし西から来た軍勢の大部分は追撃せず、乱れた隊列を整えている。盾兵が並び、槍兵と長弓兵が続き、荷車まで再び動き始めた。
全員が東を向いていた。
その時、オルゲンはようやく理解した。
彼らは自分たちを倒すためだけに来たのではない。ここは、ただの通り道だったのだ。
東には母親と妹がいる。今頃は家畜とともに逃げているはずだが、その先にもいくつもの水場があり、そこで暮らす者たちがいる。
朝になれば家畜を追い、乳を搾り、雲や草を見ながら次の放牧地を決める者たち。
今朝までの自分と同じように、まだ何も知らない。
「……東へ……」
オルゲンは肘を地面へつき、身体を起こそうとした。腹の奥で何かが裂けるような痛みが走る。それでも誰か一人にでも知らせなければならない。
西から大勢の人間が来る。
東へ逃げろ。
それだけを伝えたかった。
しかし声になったのは掠れた息だけだった。震える指で草を掴むと、細い葉が掌の血に濡れた。頬を地面へつければ、昼の日差しを吸った土はまだ温かく、踏み荒らされた草から子供の頃から知っている青臭い匂いがする。
その匂いを嗅いだ途端、妹との約束を思い出した。
夕方には水場へ連れていくはずだった。父親に頼まれた革紐もまだ編んでいない。母親は今夜も乳を焦がすだろうか。
もう一度、家族であの焦げた乳を笑いながら飲めると思っていた。
遠くから響く無数の足音が、次第に一つの低い音へ変わっていく。
何百、何千という人間が草を踏む音だった。
オルゲンは霞む目を東へ向けた。その地平の向こうにいる者たちの顔は知らない。それでも、自分たちと同じように朝には家畜の世話をし、夜には火を囲んで笑う者がいることだけは知っていた。
知らせなければならない。
最後にもう一度そう思ったが、草を握っていた指からゆっくり力が抜けた。
西から来た軍勢は止まらない。
青年が守ろうとした草原の、さらに東へ向かって進んでいく。
オルゲンは、その足音を最後まで聞いていた。
第一章 完




