第30話 未来を選ぶ日
草原を渡る風は、少し前までとは匂いが変わっていた。背を伸ばした草が一斉に傾き、朝露を残す葉先が陽の光を細かく弾いている。季節が進み、朝夕の冷たさは残るものの、陽が昇れば草の青い匂いが濃くなる頃になっていた。
サランがゲルの外で乳茶を温め直していると、少し離れたところからボルの鼻を鳴らす音が聞こえた。テムルがその首を撫で、足元ではツァラが伏せている。フルンは草の中へ鼻先を突っ込み、枯れた根を咥えて得意そうに戻ってきた。
「フルン、それは食べ物じゃないよ。ほら、こっちにおいで」
テムルが笑いながら根を取り上げると、フルンは気にした様子もなく膝へ鼻を押しつけた。二匹とも以前より脚が長くなり、胸や肩にも厚みが出てきたが、何かを見つけてはじゃれ合う幼さはまだ残っている。
サルヒとボルの様子を見て、トゴの荷紐を確かめ、ミラたち三頭の山羊へ餌をやる。朝食を取りながらその日の仕事を決めるという、何度も繰り返してきた朝だった。それなのに、今日のサランは小鍋を傾けたまま、ぼんやりと草原を眺めていた。
「姉ちゃん、乳茶が溢れるよ。何か考え事でもしてるの?」
テムルの声で我に返り、慌てて鍋を戻す。器の縁に溜まった乳茶を拭いながら曖昧に笑うと、弟は不思議そうに首を傾げた。
昼前にはバヤルが来る。
この数か月、彼は以前より頻繁に二人を訪ねるようになっていた。ハルガの姿を遠くに見つけるたび、サランは自分でも気づかないうちに嬉しくなっていたが、その気持ちを素直に認められるまでには随分と時間がかかった。
今日は、そのバヤルに返事をするつもりだった。
敷物へ座ったテムルがパンを千切るのを見ながら、サランは乳茶の器を両手で包んだ。昨夜から決めていたことなのに、いざ弟へ話そうとすると、温かな器を握る指先に力が入る。
「テムル、少し話があるんだけど。驚かなくていいから、ちゃんと聞いてくれる?」
思った以上に真面目な声になり、テムルはパンを持つ手を止めた。
「そんな言い方をされたら気になるよ。何かあったの?」
「悪い話じゃないの。……私ね、バヤルと結婚しようと思う」
言い終えると、胸の奥に引っかかっていたものが少し軽くなった。ところがテムルは驚くでもなく、当たり前のように頷いてパンを一口食べた。
「うん。姉ちゃんがそう決めたなら、僕はいいと思うよ」
「……それだけ? もっと驚くとか、何か言うことないの?」
思わず身を乗り出すと、テムルは口の中のパンを飲み込んでから笑った。
「だって、姉ちゃんずっと考えてたでしょ。バヤルが来る日は何度も髪を触ってるし、遠くに馬が見えたらすぐ確かめるんだもん」
「そんなことしてないよ」
反射的に髪へ手を伸ばしたところで、テムルが吹き出した。自分の動きに気づいたサランは頬を赤くして手を下ろしたが、弟の笑いはなかなか収まらない。
バヤルから髪飾りを受け取った時、好きだと言われたことは嬉しかった。それでも結婚まで考えるには時間が必要だった。かつて望まない婚姻を迫られ、テムルと引き離されることを恐れて部族を離れた記憶がある。結婚という言葉を、簡単に明るい未来へ結びつけることはできなかった。
しかし、その後もバヤルは変わらず二人を訪ねてきた。一緒に食事をし、馬や家畜の世話をし、テムルと仔狼たちが遊ぶ姿を眺める。そんな何でもない時間を重ねるうち、サランは彼と暮らす未来を自然に思い浮かべるようになっていた。
「じゃあ、そのうちバヤルが僕の兄ちゃんになるんだね」
テムルが何気なく口にした言葉に、サランは顔を上げた。
「まだ今日返事をするだけだからね。結婚する日も、どこに住むかも、これから相談するんだから」
「でも、僕も一緒に行くんでしょ?」
「もちろん。テムルを置いていくわけないじゃない」
迷わず答えると、弟は満足そうに頷いた。その表情を見て、サランもようやく肩の力を抜いた。これからは二人だけでなくなるかもしれない。それでも、テムルが自分の家族であることは変わらない。
「姉ちゃんが自分で決めたなら、僕は嬉しいよ。それで、今日バヤルに言うんだね?」
テムルの口元が再び緩んだため、サランは嫌な予感を覚えた。
「そうだけど……朝から変なこと考えないでよ」
「何も考えてないよ。バヤルがどんな顔をするかなって思っただけ」
明らかに楽しんでいる弟を睨んだものの、本気で怒る気にはなれなかった。
*
朝食後、サランはサルヒの青毛を丁寧に梳き、背や脚に異常がないか確かめた。テムルはボルの蹄を見たあとトゴの荷紐を直し、フルンとツァラは二匹で走り回っては草の上へ転がっている。
普段と変わらない仕事を続けながらも、サランの視線は何度も丘の向こうへ向かった。まだ約束の時間には早いと分かっているのに、遠くで馬らしい影が動くたび確かめずにはいられない。
「姉ちゃん、さっきから西ばっかり見てるね」
「別にバヤルが来るのを待ってるわけじゃないから」
「僕、バヤルのことなんて言ってないけど?」
テムルが楽しそうに笑ったので、サランは櫛を握ったまま深いため息をついた。
やがて伏せていたフルンが頭を上げ、耳を立てた。ツァラも同じ方角へ顔を向け、少し遅れて丘の向こうから黒鹿毛のハルガが現れる。
テムルが大きく手を振ると、馬上のバヤルも片手を上げた。サランは近づく姿を見つめながら、朝には落ち着いていたはずの胸が再び騒がしくなるのを感じた。
「よう。二人とも元気そうだな」
馬から降りたバヤルがテムルの頭へ軽く手を置くと、少年は妙に嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「バヤルも元気そうだね。今日は姉ちゃんがずっと――」
「テムル!」
サランが慌てて声を上げると、弟は何も言っていないという顔でハルガの鼻先を撫で始めた。事情の分からないバヤルは二人を見比べ、怪訝そうに眉を寄せる。
「何だ、今日は二人とも変だな。俺の知らないところで何かあったのか?」
「何もないよ。テムルが朝からふざけてるだけ」
サランはそう答えたが、テムルが口元を押さえて笑っているため、説得力はなかった。
しばらくはいつも通り、バヤルが道中で見かけた馬の群れの話をし、テムルが仔狼たちの成長を報告した。サランも会話へ加わったものの、どこで話を切り出すか考えてしまい、何度も言葉を飲み込んだ。
そんな姉の様子に気づいたのか、テムルは草むらへ駆け出したフルンたちを指さした。
「僕、あの二匹を見てくるね。遠くへは行かないから、姉ちゃんたちはここにいて」
最後に意味ありげな笑顔を残して走り去った弟を、サランは頬を赤くしながら見送った。
隣にバヤルだけが残ると、風や馬の音は何も変わっていないのに、急に彼の存在が近く感じられた。
「サラン、何か話したいことがあるのか? さっきから落ち着かないみたいだけど」
バヤルが顔を覗き込んできたため、サランは膝の上で握っていた指をほどき、ゆっくり息を吸った。
「……あるよ。前に髪飾りをくれた時、私に言ってくれたこと、覚えてる?」
バヤルの表情が変わった。軽く笑っていた口元が引き締まり、サランの次の言葉を待つ。
敵と向き合う時でさえ、こんなに一言を口にするのが難しかったことはない。けれど、これは誰かに言わされる言葉ではなく、自分で考えて選んだ答えだった。
サランは顔を上げ、バヤルをまっすぐ見た。
「私、バヤルと結婚する。これからはテムルと一緒に、あなたのところで暮らしたいと思ってる」
言い終えると、胸を締めつけていた緊張が少しずつほどけていった。
バヤルはしばらく黙っていた。あまりに長く見つめられ、サランが恥ずかしさに耐えきれず眉を寄せると、彼はようやく口を開いた。
「……本当にいいのか? いや、疑ってるわけじゃない。ただ、嬉しくて何を言えばいいか分からない」
「自分から言っておいて、今さら聞き返すの? 何度も考えて決めたんだから、ちゃんと信じてよ」
サランが頬を膨らませると、バヤルの顔にゆっくりと笑みが広がった。いつものからかうような表情ではなく、嬉しさを隠しきれない笑顔だった。
「ありがとう、サラン。俺はお前と一緒に生きていきたい。もちろんテムルも一緒だ」
その言葉を聞いて、サランは思わず視線を落とした。草の上に置かれたバヤルの手が少し動き、自分の手の近くで止まる。触れていいか迷っているのが分かり、サランは自分から指先を重ねた。
驚いてこちらを見たバヤルに、照れ隠しのように笑いかける。
「……嫌なら離すけど?」
「離すな。せっかくお前から握ってくれたんだから」
迷いのない返事がおかしく、サランは声を立てて笑った。日に焼けた大きな手には弓や馬具を扱ってきた硬さがあり、その温かさが触れた指からゆっくり伝わってくる。
「テムルには、もう話したのか?」
「今朝ね。あの子、全然驚かなかった。それどころか、ずっと私をからかってたんだから」
バヤルはようやく先ほどの笑顔の理由を理解したらしく、肩を揺らして笑った。
「そういうことか。なら、俺も親父たちへ話さないとな。こっちへ移る時期は急がなくていい。ゲルをどこへ建てるかも、二人と相談して決めよう」
「うん。家畜も荷物もあるし、テムルのことも考えたいから、少しずつ準備させて」
結婚する時期、移動の手順、これから暮らす場所。考えることは多いが、以前のような息苦しさはなかった。誰かに決められるのではなく、自分の意思で選んだ未来だからだ。
遠くからテムルの声が響き、二人が同時に振り返る。フルンとツァラを連れて戻ってきた少年は、二人の顔を見てから重なった手へ視線を落とし、嬉しそうに口元を緩めた。
「……姉ちゃん、ちゃんと言えたんだね」
「テムル、その顔やめなさい。さっきからずっと私をからかってばかりでしょ!」
「だって、姉ちゃんが朝から変だったんだもん」
笑いながら逃げ出したテムルを仔狼たちが追いかけ、サランも立ち上がって草原へ駆け出した。背後からバヤルの笑い声が聞こえ、温かな風が頬を撫でる。
サランは走りながら笑っていた。バヤルと結婚するのだと胸の中で繰り返しても、もう怖さはなく、少し先には振り返りながら笑うテムルがいる。
これから先、三人の暮らしがどんなものになるのかはまだ分からない。それでも、弟の姿を見失わないまま、サランはもう一度強く草原を蹴った。




