第31話 新しい風の中へ
朝露の残る草の上には、昨日までサランとテムルを守っていたゲルの骨組みや白い覆いが束ねられていた。トゴだけでは運びきれない荷物も、バヤルが連れてきた二頭の荷馬のおかげで半分ほどは積み終えている。朝の風に縄の端が揺れるたび、サランは結び目を確かめ直した。
「そっちはもう少し締めた方がいいな。道中でずれると困るから」
「姉ちゃん、ボルの方は終わったよ。ちゃんと締めたから見てみて」
テムルは得意そうに鞍の荷を叩いた。傍らではツァラが首を傾げ、フルンは積み上げた袋の匂いを嗅いでいる。サランが縄を引いて確かめると、テムルは不満そうに口を尖らせた。
「僕だってもうできるのに、姉ちゃんはまだ子供だと思ってるんでしょ」
「十歳なんだから子供でしょ。でも、上手に結べてるよ」
二人のやり取りにバヤルが吹き出し、サランが睨むと、テムルまで笑い始めた。いつもと同じ騒がしさに肩の力が抜けたものの、最後の荷を積んだところでサランの手は止まった。
ゲルがあった場所には踏み固められた土と炉の跡だけが残り、何も遮るもののない地面を風が吹き抜けていた。冬には隙間から入り込む冷気に身を寄せ、夏には暑さを逃れて外へ出た。フルンとツァラ、三頭の山羊が加わってからは、狭いながらも賑やかな家になっていた。
「サラン、どうした? 忘れ物でもあったか」
バヤルが隣に来た。サランは首を振り、荷馬に積まれた骨組みへ目を向けた。
「このゲル、向こうでちゃんと取っておけるんだよね。勝手に薪にしたりしないでよ」
「親父にも話してある。濡れない場所へ一張り分まとめて置くから、安心しろ」
やがてテムルがボルへ跨がり、バヤルもハルガの手綱を取った。サランはサルヒの鞍に手をかけ、最後にもう一度だけ炉の跡を振り返る。
「姉ちゃん、行こうよ。みんな待ってるよ」
「うん、今行く」
サランは前を向いて馬に跨がった。寂しさが消えたわけではないが、隣にはテムルとバヤルがいる。三頭の山羊が荷馬の後ろへ続き、二匹の狼も馬の周りを歩き始めた。
*
湖へ向かう道は穏やかだった。途中でミラが草を食べようと列を外れ、テムルがボルを寄せて連れ戻す。フルンは野鼠を追いかけかけたが、サランに呼ばれると渋々戻ってきた。
陽が高くなる頃、見慣れた湖が現れた。水面には光が散り、岸辺のゲルの間を人々が行き交っている。これまではバヤルを訪ねて帰る場所だったが、今日からは自分たちもここで暮らすのだと思うと、サランは知らず手綱を強く握っていた。
「姉ちゃん、緊張してる? さっきからあんまり喋らないね」
「気のせいよ。あなたこそ前を見て、山羊を逃がさないようにして」
荷馬と山羊、それに二匹の大草原狼を連れた一行は目立った。作業中の男が手を止め、子供たちが遠巻きに見つめる。フルンとツァラも見知らぬ人の気配を感じたのか、馬のそばへ寄ってきた。
やがてゲルの前にいたバヤルの父親が手を上げ、その隣から母親が歩み寄ってきた。何度も顔を合わせている相手なのに、サランは思わず背筋を伸ばす。
「よく来たね、サラン。テムルも長旅で疲れたでしょう。今日からよろしくね」
母親は二人へ柔らかく笑いかけた。何気ない一言だったが、ここにいていいと認められたようで、サランは返事をするまで少し時間がかかった。
「……はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
荷を降ろし始めると、周囲から自然に人が集まってきた。男たちはゲルの骨組みを慎重に運び、年配の女性は鍋の入った袋を指して置き場所を尋ねる。
「それは新しいゲルへ持っていくんだね。私が運んでおくよ」
「あ、私が持ちます。そんな、お願いするほど重くないですから」
「だから私にも持てるんだよ。あなたはほかの荷物を見ておいで」
「何をぼんやりしてるんだ? 疲れたなら少し休めよ」
「みんなが手伝ってくれるのを見てたの。私たちの荷物なのに、当たり前みたいに」
「今日から一緒に暮らすんだろ。困ってたら手を貸すさ。今度は俺たちが誰かを手伝えばいい」
そう言われて周囲を見渡すと、誰も見返りを求めず、手の空いた者が別の荷物へ手を伸ばしている。かつてツァルヒ族の中で暮らしていた頃も、ゲルを移す時は大人たちが声を掛け合っていた。その記憶が胸をよぎり、サランは静かに息を吐いた。
「……じゃあ、私も運ぶ。どこに持っていけばいい?」
バヤルが指した先には、新しい木材で骨組みを組み始めたゲルがあった。以前のものより大きく、これから三人で暮らすことを考えた造りになっている。
「これが私たちの家になるの?」
「ああ。結婚するんだから、いつまでも狭いままじゃ困るだろ」
「分かってるよ。……ありがとう、バヤル」
*
人手があると、ゲルは驚くほど早く形になった。テムルが骨組みを支え、バヤルの父親が縄を締め、母親とサランが白い覆いを引き上げる。互いに声を掛け合ううち、ばらばらだった部材が一つの家になっていった。
少し離れた場所では、テムルの周りに同じ年頃の子供たちが集まっていた。フルンとツァラを見たがる子供たちに、テムルは得意そうに名前を教えながらも、勝手に触らないよう注意している。
「大草原狼だから、もっと大きくなるんだよ。まだ知らない人には慣れてないから、近づく時は僕を呼んでね」
子供たちは目を輝かせ、テムルの話を聞いていた。弟が自分以外の誰かと楽しそうに笑う姿を見て、サランの胸が温かくなる。
「テムル、もう友達ができそうだね」
「そうだといいんですけど。あの子、これまでは同じ年頃の子と話す機会があまりなくて」
「心配いらないよ。あんなに楽しそうなんだから。それよりサラン、肩に力が入りすぎてる。今日から全部一人で背負わなくていいんだよ」
最後の縄が締められ、白いゲルが風の中へ立ち上がると、テムルが歓声を上げた。手伝っていた人々も笑い、サランは新しい家をしばらく見つめた。
「どうだ、住み心地はよさそうか?」
「まだ中で寝てもいないのに分からないよ。でも……悪くないと思う」
「明日、荷物の整理を手伝ってもらってもいいですか? まだ置き場所が決まっていなくて」
「もちろん。その代わり、今度は私の仕事も手伝っておくれ」
*
夕方になっても、新しいゲルの中には木箱や袋が積まれたままだった。テムルが寝具を壁際へ運び、次の箱を持とうとしたところで腹を押さえる。
「姉ちゃん、お腹空いたよ。もう少し片づけたらご飯にしない?」
「そうだね。あとこの箱だけ――」
言いかけたところで入口の覆いが動き、バヤルの母親が顔を覗かせた。
「二人とも、夕飯はこっちで食べなさい。今日は一日働いたんだから、片づけは明日でいいよ」
テムルの顔がぱっと明るくなり、サランを振り返る。
「姉ちゃん、行こうよ。僕、もうお腹ぺこぺこだよ」
サランは笑いながら箱を壁際へ寄せ、手を止めた。今日中に全部終わらせる必要はない。明日も明後日も、この家で暮らしていくのだから。
外へ出ると、夕方の草原には煮炊きの煙と食事の匂いが漂っていた。昼間に狼の話を聞いていた少年がテムルを見つけ、明日も見せてほしいと声をかける。テムルが嬉しそうに頷くのを見て、サランも自然に笑みを浮かべた。
*
夕食を終えて戻る頃、湖の上には星が広がっていた。テムルはゲルへ入るなり寝床へ倒れ込み、サランが着替えるよう注意すると、眠くないと言いながら大きな欠伸をした。
「それで眠くないって言うの? 今日は朝から働いたんだから、早く休みなさい」
「分かったよ。でも姉ちゃん、ここって賑やかだね。僕、結構好きかもしれない」
「まだ一日目だよ。これから慣れていかなきゃいけないことも多いんだから」
「うん。でも嫌じゃないよ。姉ちゃんはどう?」
サランは入口の覆いを少し開け、点々と浮かぶ灯りを眺めた。朝には見知らぬ人々の声が不安だったのに、今は誰かがここで暮らし、明日も顔を合わせる証のように思える。
「私も……嫌いじゃないかな」
その時、外からバヤルの声がした。サランが顔を出すと、彼は新しいゲルを見上げてから、少し照れたように笑った。
「様子を見に来ただけだ。どうだ、ここで暮らしていけそうか?」
「さっきテムルにも聞かれたよ。二人とも心配しすぎなんだから」
「そりゃ心配もするだろ。慣れない場所へ来てもらったんだからな」
サランはゲルの中を振り返った。テムルは寝床でツァラを撫で、フルンは入口を守るように伏せている。古いゲルも二人だけで過ごした日々も、消えてしまったわけではない。これからは、それらを抱えたまま新しい暮らしを重ねていける。
「うん。嫌じゃないよ。まだ知らないことばかりだけど、ここならやっていけると思う」
「そうか。それならよかった」
「明日、荷物の整理を手伝ってくれる? 一人でもできるけど、早く片づけたいから」
「もちろん。朝になったら来るよ」
「……ありがとう。私には、誰かに頼めるってことがまだ不思議なの」
バヤルは余計なことを言わず、ただ頷いた。その穏やかな顔を見て、サランも笑い返してゲルの中へ戻った。
夜の草原には、いくつもの人の暮らしの灯りが浮かんでいた。古い家を離れた寂しさはまだ胸に残っている。それでも新しいゲルの中にはテムルの寝息があり、外には明日も会える人々がいる。サランはその気配を感じながら、静かに灯りを落とした。




