第32話 受け継ぐもの
バヤルの部族へ移って数日が過ぎ、サランたちの新しいゲルにも少しずつ生活の匂いが馴染んできた。朝の草原には夜の冷たさが残り、いくつものゲルから立ち上る煙が、温めた乳や焼いた生地の香りを運んでいる。以前の小さなゲルは骨組みも覆いもまとめ、必要になれば使えるよう大切に保管してあった。
サランが入口で敷物を払っていると、馬の近くからテムルの声がした。
「フルン、そっちへ行くなって。サルヒに蹴られても知らないよ!」
水の入った革袋を運んでいたテムルが足を止める。フルンは耳を動かしただけで走り続け、その後ろをツァラが追いかけていた。
「姉ちゃんが甘やかすから、フルンはちっとも言うこと聞かないんだよ」
「私だけのせいにしないでよ。テムルだってツァラには甘いでしょ。何をしてもフルンのせいにするんだから」
「ツァラはちゃんと言うこと聞くよ。フルンについて行ってるだけだって」
言い終わる前にツァラがフルンを追い越し、サルヒの後ろを駆け抜けた。鬱陶しそうに尾を振ったサルヒが一歩横へ動く。サランが黙って弟を見ると、テムルは気まずそうに革袋を持ち直した。
「……いつもは、もう少し大人しいんだけど」
「はいはい。言い訳はいいから、水をこぼさないでね」
そんなやり取りをしていると、ゲルの間から黒鹿毛のハルガが現れた。馬上のバヤルを見つけたテムルは、鞍の脇に括られた短弓へ真っ先に目を向ける。
「バヤル、ちゃんと持ってきてくれたんだ!」
「昨日約束しただろ。そんなに心配しなくても忘れないぞ」
バヤルは笑いながら馬を降り、革紐を解いて短弓を取り外した。成人用より一回り以上小さく、木と角を組み合わせた弓身には使い込まれた跡がある。握りの革も擦れていたが、弦は新しく張り替えられていた。
「俺が子供の頃に使っていた弓だ。今のお前には、これくらいがちょうどいいと思う」
テムルは両手で受け取ると、指先で革の握りを確かめた。見た目より重みがあるらしく、腕を少し下げてから持ち直す。
「バヤルが使ってたなら、結構古いんだね。でも、ちゃんと使えるの?」
「古いのは余計だ。昨日、弓身も弦も確かめてあるから安心しろ。ただし、いきなり引くなよ」
弦へ指を伸ばしかけたテムルの手を、バヤルが軽く止めた。持ち方も知らずに引けば腕や肩を痛めると説明され、テムルは少し不満そうにしながらも素直に頷く。
「じゃあ、どこで教えてくれるの? 早く練習したいな」
「野営地の外に低い窪地があるだろ。的の後ろが土手になっていて、人も家畜も近づかない場所だ。まずはそこで構え方からだな」
サランも一緒に行こうと敷物を片づけたが、歩き出したところで背後から呼び止められた。振り返ると、バヤルの母親と妹が並んで立っている。
「サラン、あなたはこっち。婚礼の準備で、まだ決めなきゃいけないことがあるでしょう」
「でも、テムルが初めて弓を射るんだよ。少しくらい見てからでも……」
妹が笑いながらサランの腕を取ると、テムルまで短弓を抱えて頷いた。
「僕は大丈夫だよ。バヤルが見てくれるし、終わったら姉ちゃんにも見せるから」
「分かった。でも、勝手に射たないでね。人や馬の方へ向けるのも絶対駄目だから」
「ちゃんと教えるから安心しろ。そっちも準備を頑張れよ」
バヤルに片手を上げられ、サランはようやく二人を見送った。
*
連れてこられたゲルへ入ると、敷物の上には赤や青、深緑の布が広げられ、銀の飾りや刺繍の帯が並んでいた。普段の仕事とは縁遠い華やかさに、サランは入口で思わず足を止める。
「……これ、全部身につけるの? 重くて歩けなくなりそう」
「全部じゃないよ。サランに合うものを選ぶの。まずは座って、服を見てみよう」
妹に促されて腰を下ろすと、母親が一着の婚礼衣装を広げた。柔らかな布の袖口や裾には細かな刺繍が施され、色糸の模様が光を受けて浮かび上がる。
「綺麗……。これ、全部手で縫ってあるんだよね」
「そうよ。少し前のものだけど、手直しすればサランにも合うと思う。身体に合わせてみる?」
普段着の上から衣装を当ててもらうと、妹が肩と腰の位置を確かめ、母親が背中の布を整えた。サランは袖口の刺繍を指でなぞりながら、しばらく黙っていた。
「……せっかく見せてもらったのに、ごめんなさい。婚礼では、できればツァルヒ族の服を着たいんです」
言葉にした途端、サランは二人の顔を窺った。ここへ嫁ぐのに別の部族の衣装を望むのは、失礼に当たるかもしれない。それでも、どうしても譲れない気持ちがあった。
「今着ている服をそのまま使うんじゃなくて、婚礼用に作りたいんです。母さんが着ていた服みたいに、袖や裾に刺繍を入れて」
母親は衣装を丁寧に畳み、穏やかに頷いた。
「いいじゃない。バヤルと結婚したからって、サランがツァルヒ族じゃなくなるわけじゃないでしょう。自分の婚礼なんだから、着たい服を着なさい」
あまりに自然な返事に、サランは目を丸くした。妹も身を乗り出し、ツァルヒ族の婚礼服はどんな色なのかと尋ねてくる。
「黒を多くして、赤は少しだけ入れたいな。母さんの服は袖と裾にもっと模様があったと思う。腰の辺りにも刺繍があった気がするけど、そこははっきり覚えてなくて……」
「覚えているところを残せばいいのよ。全部を昔と同じにしなくても、サランが大切にしたい形にすればいい」
母親はサランの袖を広げ、刺繍を入れる位置を一緒に考え始めた。曖昧だった記憶が少しずつ衣装の形になっていくにつれ、サランの表情も明るくなった。
そこへ妹が飾りの箱を引き寄せ、小さな銀片を連ねた髪飾りを取り出した。髪の横へ合わせると、飾り同士が触れて澄んだ音を立てる。
「服がツァルヒ族のものなら、飾りはこっちのものにしようよ。両方を合わせたら素敵だと思う」
サランは髪飾りを受け取り、掌の上でそっと傾けた。銀の小片が揺れる様子を見ているうちに、自然と笑みが浮かぶ。
「……これは好きかも。黒い服にも合いそうだし、これを使いたいな」
「じゃあ次は首飾りと腰の飾りだね。まだまだ選ぶものがあるよ」
「ちょっと待って。今、あんまり飾りを増やしたくないって言おうとしたところなんだけど」
慌てて妹の手を止めると、母親が笑いながら小ぶりの首飾りを一つ選んだ。髪に一つ、首に一つなら邪魔にならないだろうと言われ、サランもようやく納得する。
「ほら、これならバヤルも驚くんじゃない?」
「どうせ『いいんじゃないか』って言うだけだよ。細かい模様なんて気づかないと思う」
「それはありそうね」と母親まで笑ったので、妹は頬を膨らませた。
「だったら、何も言えなくなるくらい綺麗にすればいいじゃない」
「何でそこまで驚かせたいのよ。私は普通でいいってば」
言い返しながらも、サランは選んだ髪飾りを箱へ戻さず、自分の膝の横へ大切に置いた。
衣装の相談が一段落すると、今度は婚礼後の暮らしについて話が移った。今のゲルを三人で使うなら、バヤルの荷物を置く場所や寝具を増やす必要がある。
「結婚したら、朝起きてもバヤルがいて、夜になっても帰らないんだよね。何だか、まだ変な感じがする」
「それが結婚するってことでしょ。今まで二人だったところに、毎日バヤルがいるんだから」
妹に笑われ、サランは照れ隠しに髪飾りを手に取った。母親は二人のやり取りを聞きながら、必要な物は少しずつ揃えればいいと話す。
「暮らしの準備はそれでいいとして、祝いの日の料理や招く人のことも決めないとね」
「……まだそんなにあるの?」
思わず漏らした声に母娘が揃って笑い、サランも観念したように肩を落とした。
*
婚礼の相談が終わる頃には、陽がかなり高くなっていた。外へ出たサランは大きく息を吸い、布や羊毛の匂いに慣れた鼻へ草の香りを入れる。手には、婚礼で使うと決めた銀の髪飾りを持っていた。
窪地へ向かうと、先に気づいたテムルが大きく手を振った。
「姉ちゃん、見て! 最後の一本が的に当たったんだ!」
草を束ねた的の端には、一本の矢が刺さっていた。テムルは何度も外したことまで正直に話しながら、嬉しそうに弓を持ち上げる。
「初めてなのに当てたんだ。すごいじゃない。指は痛くない?」
「少し赤くなっただけ。バヤルが休めって言うから、ちゃんと休んだよ」
バヤルは頷き、構え方はまだ直すところが多いが今日は十分だと説明した。テムルは名残惜しそうに短弓を見つめ、それから両手で差し出す。
「ありがとう。また教えてね。次はもっと真ん中に当てたいな」
ところがバヤルは受け取らず、弓を抱えているよう促した。
「それはお前にやる。俺にはもう小さすぎるし、しまっておくより使ってもらった方がいい。弦や弓身の手入れも教えるから、大事にしろよ」
テムルは驚いたように弓を見下ろし、擦れた革の握りを親指で撫でた。
「……本当にいいの? バヤルが子供の頃から使ってた、大事な弓でしょ」
「だからこそだ。ただし、一人で勝手に射つな。練習する時は必ず俺を呼べよ」
「うん。ちゃんと守る。ありがとう、バヤル」
その返事は、的に当てた時よりも静かだった。サランは二人を見ながら、手の中の髪飾りを握り直した。バヤルはテムルを自分の弟だから面倒を見るのではなく、共に暮らす家族として向き合おうとしてくれている。
その時、テムルが銀の飾りに気づいて顔を近づけた。
「姉ちゃん、それ何? 綺麗だけど、いつ使うの?」
「婚礼の髪飾りだよ。服はツァルヒ族のものにするけど、飾りはここのものを使うことにしたの」
サランが掌を開くと、銀片が陽を反射した。テムルは少し考え、まだ服がないから分からないけれど似合いそうだと言った。
「それ、ちょっと適当じゃない? バヤルはどう思う?」
「いいんじゃないか。お前が自分の部族の服を着たいなら、それが一番だろ」
予想通りの返事にサランは吹き出した。バヤルが不思議そうに首を傾げる横で、テムルも楽しそうに笑っている。
「お母さんと同じこと言うんだね。やっぱり親子だなって思っただけ」
「何だよ、それ。褒めてるのか?」
「もちろん。ちゃんと嬉しかったよ」
サランが笑って答えると、テムルは短弓を抱え直し、新しいゲルへ帰ったら狼たちの届かない場所に置きたいと言い出した。
「それがいいね。フルンなら弦を噛みそうだし、ツァラだって一緒にいたずらするかもしれないよ」
「ツァラはそんなことしないと思うけど……フルンが始めたら、ついて行くかも」
「結局するんじゃない」
言い合いながら歩いていると、噂を聞きつけたようにフルンとツァラが駆け寄ってきた。テムルは慌てて弓を頭上へ持ち上げ、二匹が跳ねるのを見て声を上げる。
「ほら、もう狙ってる! 姉ちゃん、ちょっと止めてよ!」
サランが笑いながら二匹を呼び戻す間、バヤルは巻き込まれないよう少し離れて歩いていた。
テムルの腕にはバヤルが幼い頃に使っていた短弓があり、サランの掌には新しい家族から選んだ髪飾りがある。けれど、二人がこれまで大切にしてきたものが消えるわけではない。テムルはツァルヒ族のスリングを使いながら弓を学び、サランは母の記憶を残す衣装に、この部族の銀飾りを添えるのだ。
風に揺れた髪飾りが小さく鳴った。サランはそれを落とさないよう握り直し、短弓を大事そうに抱えるテムルと、隣を歩くバヤルに笑いかけた。三人の向かう先には、朝の光を受けた新しいゲルが見えていた。




