第33話 ふたつの風
婚礼の日の朝、サランはいつもより早く目を覚ました。
ゲルの天窓から差し込む光はまだ淡く、夜の名残を残した空気には冷たさがある。傍らではテムルが毛布に包まれて眠り、その向こうからフルンとツァラの寝息が聞こえていた。外では馬が草を食む音がかすかに響き、どこかのゲルではすでに火を起こしたらしく、乾いた燃料の煙が風に乗って流れてくる。
普段なら起き上がればすぐに火を確かめ、水や朝餉の支度を始めるところだったが、今日は毛布から出たところで手が止まった。壁際には昨日届けられた婚礼衣装が掛けられ、その隣にはバヤルの母親たちと選んだ銀の髪飾りが置かれている。
衣装はサランが普段着ているツァルヒ族のものを基にしており、黒を中心とした布の袖や裾には赤い糸で細かな刺繍が施されていた。母や祖母が着ていたものとまったく同じではないものの、自分の記憶と今の衣装を頼りに仕立てられたそれは、ひと目でツァルヒ族のものだと分かる姿をしている。
自分の部族の衣装と、これから家族になる者たちから受け取った銀飾り。その二つが並んでいる光景を眺めていると、背後で毛布が動いた。
「姉ちゃん、もう起きてたの?」
眠そうな声に振り返ると、テムルが毛布から顔だけを出していた。
「今起きたところ。まだ早いから、もう少し寝ててもいいよ」
「今日は寝てられないよ。姉ちゃんの婚礼なのに僕だけ寝坊したら嫌だし、それに準備だってあるでしょ」
そう言いながら起き上がったものの、髪はあちこちへ跳ねている。サランは思わず笑い、近くまで来た弟の髪を手櫛で直した。
「その頭で婚礼に出る方が嫌だから、あとでちゃんと整えなさいよ。バヤルの家族にも会うんだから」
「分かってるって。それより姉ちゃんの方が大変じゃない? 昨日、飾りをつけるだけでもずいぶん時間かかってたじゃん」
「だから少なくしてって言ったのに、結局増やされたんだよ。今日も朝からずっと座らされそう」
サランが銀飾りへ目を向けると、テムルもそちらを見てから、壁際に掛けられた婚礼衣装へ視線を移した。
「でも、昨日つけたとき似合ってたよ。いつもの姉ちゃんとちょっと違ったけど、ちゃんと姉ちゃんだったし」
何気なく言われた言葉にサランは少し目を丸くしたが、すぐに口元を緩めて弟の頭を撫でた。
「朝から変な褒め方するね。でも、ありがと」
「褒めたのに変って言わないでよ」
テムルは少し照れたように姉の手から逃げ、そのまま寝癖を自分で押さえ始めた。
やがて外から女性たちの声が聞こえ始めると、静かだったゲルの中は一気に慌ただしくなった。バヤルの母親と妹、それに親族の女たちが次々と入ってきて、サランは言われるまま敷物の中央へ座らされる。
温めた湯で顔や手を清め、丁寧に髪を梳かれたあと、昨日まで何度も確認した婚礼衣装へ袖を通していく。黒い布が身体へ馴染む感触は普段の衣装と似ていたが、腕を動かすたびに赤い刺繍が視界の端へ入り、いつもとは違う日なのだと意識させられた。
「サラン、少しじっとしてて。髪がずれるから」
背後から妹に言われ、サランは上げかけた手を膝へ戻した。
「さっきからずっと座ってるんだけど。まだ終わらないの?」
「もう少しだから我慢して。せっかく綺麗にしてるんだから、途中で普段の髪に戻さないでよ」
「諦めて普段着で出てもいいなら、今すぐそうするけど」
サランが振り返ろうとした途端、妹に頭を戻され、横からは母親にも「駄目に決まってるでしょう」と笑われた。その様子を入口近くで見ていたテムルまで口元を押さえている。
「テムルまで笑わないでよ。あとで覚えてなさいよ」
「僕は何もしてないって。いつも平気そうな姉ちゃんが、今日はずっと落ち着かないから面白いだけ」
「だったら外でバヤルでも見てきたら? こっちはまだ時間かかりそうだし」
「さっき見てきたよ。バヤルもいつもより落ち着いてなかったから、今日は二人とも同じだね」
その一言でサランの動きが止まり、背後で髪を整えていた妹がすぐに気づいて楽しそうに顔を覗き込んできた。
「バヤルのこと、そんなに気になる?」
「別に。テムルが言うから聞いただけだし、まだ何も聞いてないでしょ」
昨日まで何度も繰り返したようなやり取りに周囲の女性たちから笑い声が上がり、サランは言い返すのを諦めて膝の上へ視線を落とした。
やがて髪が整えられ、最後に銀の飾りが差し込まれると、細かな金属片が耳元で触れ合って澄んだ音を立てた。母親は少し離れたところから全身を眺め、満足そうに頷く。
「これでいいでしょう。ちゃんとツァルヒ族の服なのに、こちらの飾りもよく似合ってるよ」
磨かれた金属板を渡され、サランはそこへ映る自分を見つめた。見慣れた黒を基調とした衣装でありながら、普段とは違う刺繍が袖や胸元を彩り、髪にはバヤルの部族の銀飾りが揺れている。
自分であることに変わりはないのに、これまで見たことのない自分がそこにいるような気がした。
「……変じゃない?」
「全然。さっき僕が言ったでしょ。いつもとは違うけど、ちゃんと姉ちゃんだよ」
テムルが横から金属板を覗き込み、今度は笑わずに答える。サランは映った自分をもう一度見てから、緊張を吐き出すように息をついた。
「それなら大丈夫かな。じゃあ、そろそろ行こうか」
*
ゲルの外へ出ると、いつもの野営地がまるで違う場所のように見えた。
中央には人々が集まり、普段より色鮮やかな衣装が草原を彩っている。料理を煮込む大鍋からは白い湯気が立ち、焼いた肉や乳、香草の匂いが風に混じっていた。子供たちは大人たちの間を縫うように走り回り、今日のために訪れた者たちの馬もあちこちへ繋がれている。
サランが姿を見せると近くにいた人々の視線が集まり、その先には、いつもより整えられた衣装を身につけたバヤルが立っていた。腰帯にも婚礼用の飾りがつけられ、見慣れたはずの姿が今日は妙に違って見える。
バヤルもサランに気づいたものの、しばらく何も言わずに見つめていた。
隣に立っていたテムルが二人を交互に見て、すぐに口元を緩める。
「バヤル、ずっと見てないで何か言った方がいいんじゃない? 姉ちゃんもさっきから待ってるよ」
「ちょっと、私は待ってないからね」
サランが弟を睨んだところで、我に返ったバヤルが一度咳払いをした。
「……似合ってる。いつもの服もいいけど、今日はすごく綺麗だと思う」
予想していた「いいんじゃないか」とは違う言葉に、今度はサランの方が返事に困った。銀飾りへ触れようとした手を途中で止め、少しだけ視線を逸らす。
「そう? ありがとう。バヤルも今日はちゃんとしてるね。いつもよりずっとそれらしく見える」
「今日はって何だよ。普段はちゃんとしてないみたいじゃないか」
「普段よりって意味だって。それくらい分かるでしょ」
二人が顔を見合わせている横で、テムルがとうとう吹き出した。
「二人とも変だよ。いつも普通に話してるのに、今日はずっとそんな感じじゃん」
「テムルは少し黙ってなさい」
サランが睨んでも弟の笑いは止まらず、周囲からも笑い声が起こった。そのおかげで張り詰めていた緊張が少しずつ解け、サランも最後には諦めて笑った。
婚礼は、サランが想像していたよりも穏やかに進んでいった。
部族の長老や年長者たちの前で二人が並び、それぞれの家族と祖先へ感謝を示し、これから夫婦として暮らしていくことを人々の前で認めてもらう。サランには分からない細かな作法もいくつかあったが、そのたびに隣のバヤルが小声で次にすることを教えてくれたため、戸惑いながらも一つずつ終えることができた。
すべての作法を終え、二人が夫婦として認められると、集まった人々から大きな歓声と拍手が上がった。その中でもテムルは誰よりも嬉しそうに手を叩いており、サランと目が合うと満面の笑みを浮かべる。
その姿を見た瞬間、朝から胸の奥に残っていた小さな緊張がようやくほどけた。
自分だけが新しい家族を得るのではなく、テムルも一緒にここへ来て、これからも同じ家で暮らしていく。ずっと分かっていたことだったが、バヤルと並び、弟の笑顔を見ることで、ようやくそれが形になったように思えた。
サランが笑い返すと、テムルはさらに大きく手を叩いた。
*
儀式が終われば、あとは宴だった。
大鍋から肉料理が次々と取り分けられ、焼いた生地や乳製品、酒が人々の間を巡っていく。草原には歌声と楽器の音が響き、それに合わせて踊る者もいれば、敷物の上へ腰を下ろして酒を飲みながら話し続ける者もいる。
サランも最初こそ大人しく座っていたものの、祝いの言葉とともに何度も杯を渡されるうちに頬が少し赤くなっていた。
「姉ちゃん、さっきからお酒ばっかり飲んでない? 今日はまだずっと宴が続くんだから、少し休んだ方がいいと思うよ」
隣に座ったテムルが心配そうに杯を見ると、サランは残っていた酒を飲まずに中身を眺めた。
「これくらいなら全然平気だよ。それに料理もちゃんと食べてるから大丈夫」
「そう言ってる人ほど危ないって、前に姉ちゃんが言ってたじゃん。自分のときだけ違うっていうのはずるいよ」
真面目な顔で以前の言葉を返してくる弟がおかしくなり、サランは笑いながら杯を脇へ置いた。
「分かったよ。じゃあ少し休むから、それでいい?」
「うん。その方がいいと思う」
満足そうに頷いたテムルの向こうから、親族や知人への挨拶に回っていたバヤルが戻ってきた。こちらも何度か酒を勧められたらしく少し頬が赤く、サランの隣へ腰を下ろすなり料理へ手を伸ばす。
「やっと戻ってきた。自分の婚礼なのに、ずっとあっちこっち行ってたじゃない」
「挨拶だよ。今日は顔を出してくれた人も多いんだから仕方ないだろ。それよりサランはちゃんと食べてるか? 朝からほとんど何も食べてなかっただろ」
「食べてるって。さっき肉ももらったし、乳も飲んだよ。テムルにも同じこと言われたところ」
バヤルは脇へ置かれた杯を見てからサランへ視線を戻した。
「酒の方が多かったんじゃないか?」
「バヤルまでテムルみたいなこと言わないでよ。今ちょうど休むことにしたんだから」
「僕が先に言ったんだから、バヤルが僕みたいなんだよ。そこはちゃんとして」
テムルが真面目な顔で訂正すると、三人は顔を見合わせて笑った。
少し離れた場所では、フルンとツァラが宴のおこぼれを狙って人々の間をうろついている。誰かから肉の欠片をもらったらしく、二匹で奪い合うようにじゃれ、その向こうではサルヒとハルガが並んで静かに草を食んでいた。
サランはそんな光景を眺めながら、膝の上へ置いていた手から少し力を抜いた。
隣にはバヤルがいて、その向こうには料理を頬張るテムルがいる。サルヒもボルも、フルンもツァラもここにおり、周囲には自分を迎えてくれた人々の笑い声が満ちている。風が通り抜けるたび、髪につけた銀飾りが耳元で涼やかな音を鳴らした。
そのうち、敷物の上へ置かれていたバヤルの手がサランの指先へ触れた。
サランは一度その手を見てから、自分から指を重ねた。
「どうした?」
「何でもないよ。ただ、今日は思ってたよりずっと楽しいなって。朝は少し緊張してたけど、今はもう大丈夫」
「俺も朝は緊張してたよ。テムルにまで言われたくらいだから、たぶん隠せてなかったんだろうな」
「やっぱり本当だったんだ。あとで本人に聞こうと思ってた」
「聞かなくていいだろ」
バヤルは苦笑しながら握った手へ少し力を込め、サランもその手を離さなかった。
反対側ではテムルが料理を食べながら二人を横目で見ていたが、今度は何も言わず、少しだけ口元を緩めてから皿へ視線を戻した。
宴は日が傾いても続いた。
草原を渡る風には人々の歌声が乗り、傾いた陽がゲルや馬、人々の長い影を草の上へ伸ばしていく。昼間から走り回っていた子供たちも次第に大人しくなり、フルンとツァラも疲れたのか敷物の近くで身体を寄せ合っていた。
やがて三人で自分たちのゲルへ戻る頃には、空の端が淡い茜色へ染まっていた。
テムルが少し先を歩き、その後ろをサランとバヤルが並んで歩く。フルンとツァラも今日は走り回る元気が残っていないのか、二人の足元を静かについてきている。
サランは途中で一度だけ振り返り、まだ宴の続く野営地を眺めた。風に乗って届く笑い声や歌声を聞いていると、朝から過ごした時間が思っていた以上に早く過ぎてしまったように感じられる。
今日から何もかもが変わるわけではない。明日になれば水を汲み、家畜を見て、食事を作り、これまでと同じように草原で暮らしていく。
ただ、その暮らしの中にこれからはバヤルがいる。
朝になれば同じゲルで目を覚まし、食事を囲み、テムルと三人で一日を始める。それだけのことが、今のサランにはとても大きな変化に思えた。
「姉ちゃん、早く帰ろうよ。お腹いっぱいになったら眠くなってきた」
少し先からテムルに呼ばれ、サランは宴から視線を戻した。
「今行くよ。眠いなら足元ちゃんと見なさいよ。転んでも知らないからね」
「子供じゃないんだから転ばないよ。それより姉ちゃんはお酒飲んでたんだから気をつけてよ」
「もう酔ってないって。テムルはいつまでそれ言うのよ」
二人のやり取りを聞きながらバヤルが笑い、その声につられてサランも笑った。
三人の前には、朝までサランとテムルの家だったゲルが見えている。外見も中に置かれたものも昨日までと変わらないが、今夜からはそこへ帰る者が一人増える。
サランは隣を歩くバヤルの手を握り直し、少し先を歩くテムルの背中を追った。
三人の家へ向かって。




