第34話 三人の朝
婚礼の翌朝、サランはいつもより少し遅く目を覚ました。天窓から差し込む陽が炉の灰を淡く照らし、外では馬の草を食む音に羊や山羊の鳴き声が混じっている。部族の人々はもう働き始めているらしい。起きなければと思って身じろぎしたところで、すぐ隣に誰かが眠っていることを思い出した。
バヤルだった。昨夜から同じゲルで暮らしているのだから当然なのに、朝一番に彼の寝顔を見るのはまだ不思議だった。起こさないよう静かに身体を起こすと、少し離れた寝床からテムルの声がした。
「姉ちゃん、さっきからバヤルのこと見てるけど、何してるの?」
「起きてたなら声をかけてよ。びっくりするでしょ」
サランが乱れた髪を整えながら言い返すと、毛布から顔を出した弟は楽しそうに笑った。
「僕も今起きたところだよ。でも、朝からバヤルがいるのって変な感じだね。昨日までは姉ちゃんと二人だったから」
「私もまだ慣れないよ。そのうち普通になるんじゃない?」
「そうだね。ただ、寝る場所がちょっと狭くなったけど」
「それはバヤルに言って。私は前と同じ場所で寝てるんだから」
二人が声を抑えて話していると、背後から「聞こえてるぞ」と低い声がした。振り向けば、バヤルが片目を開けている。
「狭いなら寝具を動かそう。昨日決めた時は大丈夫そうだったが、実際に寝てみないと分からないからな」
バヤルが起き上がって毛布を畳み始めたので、サランもゲルの中を見回した。二人で使っていた空間に、彼の衣類や道具、寝具が増えている。婚礼前から収納を足すつもりではいたが、どこに置けば使いやすいかまでは決めていなかった。
「朝の仕事が終わったら、三人で片づけようか。今すぐ動かしても、きっとまた変えたくなるし」
サランが炉へ向かうと、バヤルは火を起こす役を引き受けた。水を汲みに行こうと革袋を探していると、テムルが先にそれを持ち上げる。
「水は僕が行くよ。姉ちゃん、昨日は婚礼で疲れたでしょ」
「婚礼したからって、急に働けなくなるわけじゃないよ」
「でも、お酒もたくさん飲んでたでしょ」
「もう!仕方ないでしょ!」
頬を膨らませる姉を見て笑いながら、テムルは入口へ向かった。ちょうど外で待っていたフルンとツァラが飛び込み、フルンはバヤルに飛びつこうとして敷物の上を滑る。バヤルがしゃがんで首筋を撫でると、仔狼は何事もなかったように尾を振った。
「フルンもツァラも、僕と来て。姉ちゃんたちの邪魔しちゃ駄目だよ」
テムルに呼ばれた二匹が外へ駆け出すと、ゲルの中は急に静かになった。サランは炉の前にしゃがむバヤルへ燃料を手渡しながら、少し笑った。
「今までなら、テムルが遊びに出かけたら私一人だったのにね」
「俺だって同じさ。朝起きれば親父たちのゲルにいたんだから。こうしてお前と飯を作るのは初めてだ」
バヤルが燃料を組む横でサランは鍋を用意した。火がつくと夜の冷えを残した空気がゆっくり温まり、二人は水の量や乳茶の濃さを相談しながら朝餉を整えた。誰かが隣にいることを意識しなくなる日も、そう遠くないのかもしれない。
*
食事を終えると、三人は家畜の世話に取りかかった。サランがサルヒの脚と蹄を確かめている間、バヤルは近くに繋いだハルガの鞍具を点検する。ボルとトゴもいつものように草を食んでいた。
「ハルガがここにいるのも、まだ見慣れないな。前はバヤルが訪ねてきた時だけだったのに」
「朝からそればっかりだな。俺もハルガも、もうここの住人だぞ」
「嫌だとは言ってないでしょ。ただ、昨日までと景色が違うんだよ」
サランが笑って鬣を梳いていると、少し離れたところでテムルが短弓を手にしていた。先日バヤルから譲られたもので、まだ矢は番えず、教わった通り弦や弓身を確かめている。
「テムル、勝手に射たら駄目だからね」
「分かってるよ。今日は練習していいって、バヤルが言ってたんだ。昨日は婚礼でできなかったから」
「もちろん教えるが、昨日の分まで射つつもりになるなよ。指も肩もまだ慣れていないんだから」
バヤルがそう釘を刺すと、テムルは大きく頷いた。サランは弟の弓を見て、ふと思い出したように声をかける。
「弓が楽しいのは分かるけど、スリングの練習も忘れないでね。ツァルヒ族の武器なんだから」
「忘れないよ。どっちも使えるようになりたいんだ。両方できた方がいいでしょ?」
当然のように答える弟に、サランは安心して笑った。バヤルから一緒に見に来ないかと誘われ、今日は婚礼の準備もないからと三人で野営地の外の窪地へ向かった。
的の後ろに土手が続く練習場で、バヤルはまずテムルの足の位置と肩の向きを直した。すぐに矢を渡すのではなく、構えて弦を引く動きを繰り返させる。
「肩に力を入れすぎるな。腕だけで引こうとすると疲れるし、狙いもぶれる。前より形はよくなってるぞ」
「こうかな? 前はもっと肘が下がってたんだよね」
「そうだ。今の位置を覚えてから矢を番えよう」
サランは少し離れた草の上に腰を下ろし、二人のやり取りを眺めた。バヤルは間違いを見逃さず、できたところはきちんと褒める。テムルもむやみに急がず、言われたことを確かめながら構えを直していた。
やがて最初の矢が放たれたが、草束の的を右へ外れて土手に刺さった。テムルが悔しそうに声を上げると、バヤルは飛んだ先を見てから首を振った。
「右へ逸れたことより、放す直前に弓が動いたのを直そう。的に当たったかどうかだけ気にすると、変な癖がつくぞ」
「じゃあ次はそこに気をつける。もう一本射ってもいい?」
「いいぞ。ただし急ぐな。一本ずつ、同じ構えを作るんだ」
テムルが次の矢を取るのを見ながら、サランは膝を抱えた。馬の扱いも、スリングも、草原で気をつけることも、これまでは自分が知る限りのことを弟へ教えてきた。けれど今、弟はバヤルから自分の知らない技を学んでいる。嬉しそうに弓を引く横顔を見ていると、何もかも一人で教えなければと思っていた頃より、肩の力が抜ける気がした。
*
昼を過ぎてゲルへ戻った三人は、朝に話した通り荷物の置き場所を変え始めた。バヤルの寝具を壁際へ寄せ、衣類の袋と道具箱をまとめる。テムルの短弓はフルンたちの届かない高い位置へ掛け、食料やサランの道具も取り出しやすいよう並べ直した。
「ほら、前より広くなったよ。これなら僕の寝る場所も狭くないね」
テムルが中央で両腕を広げると、サランも入口から中を眺めた。朝は通りにくかった場所に隙間ができ、炉の周りにも余裕がある。
「思ったよりバヤルの荷物が少なくて助かったよ。これなら収納を一つ増やすくらいで足りそう」
「俺がどれだけ持ってくると思ってたんだ? 普段使わない物まで運んでも邪魔だろ」
「あとから増やしすぎないでね。置く場所がなくなったら、バヤルの寝床から狭くするから」
「朝はテムルに狭いと言われて、今度はお前か。結婚した翌日から扱いがひどくないか?」
大げさに肩を落とすバヤルを見て、テムルが声を立てて笑った。サランもつられて笑い、冗談だと告げてから炉のそばへ腰を下ろす。
壁にはテムルの短弓があり、隅にはバヤルの道具が置かれている。以前から使っていた自分たちの荷物も、そのまま残っていた。三人で暮らすために何かを捨てたのではなく、必要なものを足して場所を決め直しただけだ。
入口の覆いが揺れ、フルンとツァラが飛び込んできた。二匹は新しい配置を気にする様子もなく走り回り、揃ってバヤルの寝具へ身体を投げ出す。
「おい、そこは俺の場所だぞ」
バヤルが近づいてもフルンは腹を見せるばかりで、ツァラも動こうとしない。テムルは寝具を指さして笑った。
「やっぱりバヤルの寝る場所、狭くなりそうだね」
「お前たちまで俺に厳しいのか。少しは新入りに優しくしてくれよ」
バヤルが苦笑しながらフルンの腹を撫でると、サランは二匹を呼んで寝具から下ろした。外では夕方の風が草を鳴らし、遠くから部族の子供たちの声が届いている。
婚礼の翌日も、いつもと同じように水を汲み、家畜を世話し、テムルは弓を習った。違うのは、帰ってきたゲルでバヤルが一緒に荷物を動かし、夕餉の支度を待っていることだった。
「姉ちゃん、何笑ってるの?」
テムルに声をかけられ、サランは自分の口元が緩んでいたことに気づいた。
「何でもないよ。そろそろ夕飯にしようか。二人とも手伝ってくれる?」
「もちろん。俺は何をすればいい?」
「バヤルは水をお願い。テムルは食器を出してね。私は肉を切るから」
「分かった。僕、先に終わったら姉ちゃんの方も手伝うよ」
テムルが立ち上がると、フルンとツァラも何かもらえると思ったのか炉へ寄ってきた。サランは二匹をそっと遠ざけ、肉を切る場所を空ける。
昨日までは二人でしていたことを、今日から三人でする。婚礼を終えたからといって暮らしが突然変わるわけではないけれど、同じ朝を迎え、同じ場所へ帰ってくる日々を重ねれば、やがてこの賑やかさが当たり前になるのだろう。サランは鍋を運ぶバヤルと食器を並べるテムルを見て、今度は隠さずに笑った。




