第35話 遠い黒煙
婚礼から数日が過ぎ、サランたちの暮らしにも新しい習慣ができていた。朝は三人で仕事を分担し、夕方には同じゲルへ帰る。初めのうちこそバヤルの道具や寝具が目についたものの、今では以前からそこにあったように馴染んでいる。
その日は雲が少なく、狩りへ出るには申し分のない朝だった。サランがサルヒの鞍を確かめていると、ボルに荷物を積んでいたテムルが、短弓を鞍へ括りつけようとしている。
「テムル、弓は自分で持てよ。獲物が出てから荷物をほどいていたら間に合わないぞ」
ハルガの鞍を締め終えたバヤルが声をかけると、テムルは弓を背負い直した。
「ずっと背負ってたら邪魔にならない? 今日は遠くまで行くんでしょ」
「慣れるまではな。でも狩りでは、的の方から待ってくれるわけじゃない。今日は射ることより、獲物への近づき方を覚えるつもりでいろ」
バヤルは矢筒の紐も確かめ、緩みを締め直してやった。テムルは緊張した面持ちで頷いたが、その目は期待に輝いている。
「ちゃんと教わった通りにするよ。勝手には射たないから」
「その約束は守ってね。練習場で当たったからって、もう狩人になったわけじゃないんだから」
サランが念を押すと、テムルは分かっていると答え、逆に姉の腰を指さした。
「姉ちゃんこそスリングを忘れてない?」
「忘れるわけないでしょ。ほら、ちゃんと持ってるよ」
腰の袋を叩いて見せると、テムルは満足そうに笑った。
足元ではフルンとツァラが落ち着かず、三人の周りを行き来している。いつもより遠出すると察しているのか、馬が動き始めるのを待ちきれない様子だった。
「二匹も連れていくの?」
「そろそろ草原での動き方を覚えさせたいからね。ただし、勝手に獲物を追いかけたら困るけど」
「それが一番難しそうだな」とバヤルが笑う。「何か見つけたら、俺たちの声なんか耳に入らなくなりそうだ」
「だから今日、様子を見るんだよ。駄目なら次は留守番させるから」
サランがそう言ってサルヒに跨がると、フルンが一声鳴いた。三頭の馬が歩き出すや、二匹は競うように草の中へ駆けていった。
*
野営地を離れると、人の声は次第に遠のいていった。緩やかな起伏が続く草原には、風化した岩や半ば土に埋もれた古い石の列が点在している。さらに遠くでは巨大な窪地の縁が低い丘のように連なり、その向こうを小さな獣の群れが移動していた。
三人は馬を急がせず、風向きと地面の痕跡を確かめながら進んだ。フルンとツァラは最初こそ好き勝手に走り回っていたが、やがて馬の近くへ戻ってきた。それでも草むらから鳥が飛び立つたびに耳を立て、サランに呼び戻されている。
「フルン、戻って。今日は鳥を追いかけに来たんじゃないよ」
少し強く呼ぶと、フルンは不満そうに振り返りながらも戻ってきた。テムルはボルの上で笑い、以前より言うことを聞くようになったと褒める。
「分かってるなら、最初から追わなければいいんだけどね」
「ツァラは僕の言うことを聞くよ。フルンは姉ちゃんに似て、先に動いてから考えるんじゃない?」
「どういう意味よ、それ」
サランが言い返そうとしたところで、先頭のバヤルが片手を上げた。二人はすぐに口を閉じ、ハルガが進む方角へ目を凝らす。
「岩の右側、低いところを見てみろ」
草の間で小さな耳が動いた。灰褐色の背中が一瞬見え、再び隠れる。サランが数えると、四匹ほどが群れているようだった。
「風はこっちに向かってる。まだ気づかれていないな。テムル、狙ってみるか?」
「僕が射っていいの?」
「ああ。ただし、ここからでは遠い。馬を置いて歩こう。狼たちも連れていけないから、待たせておくぞ」
馬を起伏の陰へ寄せ、二匹に待つよう言い聞かせる。フルンは何度か立ち上がりかけたが、サランが低い声で制すると、ツァラの隣へ渋々伏せた。
三人は草丈を利用し、乾いた茎を踏み折らないよう距離を詰めていく。普段なら何かと口を開くテムルも、今はバヤルの足運びを真似ることに集中していた。
十分に近づいたところで、バヤルが止まる。
「ここから一本だけ射ってみろ。外れても追わなくていい。落ち着いて構えろよ」
テムルは頷き、背中から短弓を下ろした。足の位置を確かめ、矢を番えて弦を引く。何度も練習した動きだが、目の前にいるのは動かない草束ではない。
灰褐色の獣がふいに顔を上げた。その瞬間、テムルの指が弦から離れる。
矢は草の上を抜けたものの、獲物の脇を通って地面に刺さった。四匹が跳ねるように走り出し、テムルは思わず一歩踏み出しかける。
「追うな。最初に言っただろ」
バヤルに肩を押さえられ、テムルは悔しそうに遠ざかる背中を見送った。
「当てられると思ったんだけどな。練習の的よりずっと難しいね」
「逃げられると思うと、つい早く射ちたくなる。今も最後だけ急いだだろう?」
「うん。顔を上げたから、今射たないと逃げると思って……」
「それに気づけたなら十分だ。次は同じところで慌てないようにすればいい」
バヤルが肩を叩くと、テムルはようやく表情を緩めた。サランは少し離れた場所に刺さった矢を拾い、弟へ返す。
「矢をなくさずに済んだんだから、今日はそれでいいよ。狩りは獲物を持ち帰ることだけじゃないしね」
「姉ちゃんなら当てられた?」
「この距離ならスリングで狙えたと思うけど、動かれたら私だって外すよ」
「じゃあ次は姉ちゃんがやってよ。僕だけ失敗したのは悔しいし」
「それ、私にも外してほしいってことじゃないでしょうね」
テムルが笑いながら首を振り、バヤルもつられて笑った。
*
その後も草原を回り、昼を過ぎる頃には小型の獣を二匹仕留めた。一匹はバヤルの矢、もう一匹はサランのスリングによるものだった。テムルは結局獲物を射られなかったが、足跡をいち早く見つけ、バヤルから褒められていた。
フルンとツァラも三人が身を低くすると前へ出なくなり始めたものの、仕留めた獲物を見た途端に鼻を寄せた。
「食べるのは帰ってから。これはみんなの分なんだからね」
テムルがツァラを押し戻す横で、フルンは隙を窺っている。サランが先回りして呼び寄せると、耳を伏せて足元へ座った。
「狩りの途中より、獲った後の方が大変だな。このまま大きくなったら一頭丸ごと持っていかれそうだ」
「その頃にはちゃんと言うことを聞くよ。……たぶん」
「最後の一言で信用できなくなったぞ」
バヤルが笑いながら獲物をボルへ括りつけた。陽も傾き始め、帰路につくにはちょうどよい時刻だった。
サランが鐙に足を掛けた時、風向きが変わった。草の匂いに混じり、かすかな焦げ臭さが鼻を刺す。彼女は足を下ろし、西の方へ顔を向けた。
「……何か燃えてない?」
バヤルも手を止め、風を確かめるように顔を上げた。テムルにはまだ分からないらしく、二人を見比べている。
「煙の匂いか? どこからだ」
「たぶん、あっち。さっきまではしなかったと思う」
遠くの起伏を越えた先、草原と空の境に細い黒い筋が見えた。目を凝らすうちに、それが絶えず立ち上る煙だと分かる。
「草が燃えてるのかな。乾いてる場所なら火が広がることもあるよね」
テムルの言葉にバヤルは首を振った。
「野火ならもっと横へ広がるはずだ。あれは同じ辺りから上がり続けている」
野営地の炊事の煙とも違う。黒い煙は風に流されながら、根元から次々に湧き上がっていた。草原では落雷による火事も珍しくないが、サランには何か別のものが燃えているように思えた。
「人のいる場所かもしれないね」
「ああ。様子を見に行こう。ただし、何が起きているか分からない。近くまで馬で突っ込むのはやめるぞ」
獲物を積んだまま進んでも構わないかとテムルが尋ねると、バヤルは長居するつもりはないと答えた。火事なら場所を確かめ、必要なら部族へ戻って人手を呼ぶ。その方針を決め、三人は進路を西へ変えた。
近づくにつれ、一本に見えた黒煙が幾筋も重なっていることが分かってきた。焦げ臭さは強まり、フルンとツァラも先ほどまでのように走り回らず、馬のそばを離れない。
やがてバヤルがハルガを止め、草に覆われた浅い窪地を指した。
「馬はあそこへ。ここから先は歩こう」
三人は馬を窪地へ入れ、手綱をまとめた。テムルが短弓へ手を伸ばしても、サランは何も言わなかった。狩りの時とは違う緊張が、すでに三人の間へ広がっていた。
バヤルを先頭に草の中を進む。緩やかな丘を登るにつれ、煙に焼けた革や焦げた木の臭いが混じり、さらに何とも言えない重苦しい臭気が漂い始めた。
頂上近くでバヤルが突然しゃがみ込み、サランもすぐに身を低くしてテムルを伏せさせる。バヤルは答えずに向こう側を見つめ、二人を手招きした。
サランは草の間を這うようにして隣へ寄り、丘の向こうを覗いた。
そこには、野営地があった。
いや、野営地だったものが残っていた。
いくつものゲルは焼け落ち、黒くなった骨組みが地面へ斜めに突き刺さっている。まだ火の残る場所から煙が上がり、横倒しになった荷車の周囲には木箱や荷物が散乱していた。焼け焦げた布の切れ端が風に転がっていく。
「……火事?」
テムルの小さな声に、バヤルは答えなかった。サランも焼けたゲルではなく、地面へ目を向けていた。
無数の蹄跡が野営地の外から押し寄せ、ゲルの間を駆け回り、別の方向へ抜けている。逃げる人々が一斉に走った跡とは違った。壊れた木箱のそばには矢が落ち、持ち主の見えない衣服や革袋が散らばっていた。
野火が通り過ぎただけなら、こんな壊れ方はしない。
「二人とも、ここから勝手に動くな。まだ誰かいるかもしれない」
バヤルの低い声を聞き、サランは腰のスリングへ手を添えた。テムルも短弓を握りしめている。
つい先ほどまで、三人は今日の獲物をどう料理するか話しながら帰ろうとしていた。その日常から馬で少し走っただけの場所に、焼け落ちた野営地がある。
黒煙は今も空へ昇り続けていた。サランは風に流される煙を見上げ、それから眼下の光景へ視線を戻した。
これは、ただの火事ではない。




