第8話 風の向こうを見に
朝の仕事がひと段落したころ、サランはゲルの脇にしゃがみ込み、昨夜のうちに緩んでいた山羊囲いの縄を締め直していた。
湖から離れたこの草地にも朝の冷たさはまだ残っていたが、陽が高くなるにつれて、夜露に濡れていた草の先から少しずつ水気が消え始めている。地面へ膝をつけば衣服越しにも土の冷たさが伝わる一方、背中には柔らかな日差しが当たり、その温度の違いが季節の移ろいを感じさせた。
「姉ちゃん、この杭も直す?」
「それはまだ大丈夫。そっちじゃなくて、ガルのところを見て」
サランは縄を強く引きながら答えた。囲いの向こうでは、名を呼ばれた雄山羊のガルが知らぬ顔で草を噛み、傍らではミラとナラが地面へ鼻先を寄せながら若草を探している。
昨夜、ガルが角を擦りつけたせいで杭の一本が傾き、縄まで緩んでしまったのだが、当の本人に反省している様子はまるでなかった。
「ガル、これお前がやったんだからな。少しは反省しろよ」
「メェ」
山羊に説教するテムルを見て、サランは笑いながら立ち上がった。膝についた土を払い、最後に縄を引いてみると、粗く編まれた繊維が掌へざらりと擦れる。これなら、多少角を押しつけられても簡単には外れないだろう。
サルヒとボルは少し離れた場所で草を食み、トゴも荷物のない気楽さを楽しむように長い耳を風へ揺らしている。
そんな穏やかな朝の中で、サランはふと顔を上げた。
風に混じって蹄の音が聞こえる。一頭ではなく、二つの蹄音が一定の間隔を保ちながら近づいてきていた。
「誰か来るみたい」
テムルも顔を上げ、サランは無意識に腰へ手を伸ばしかけたが、草の向こうに現れた黒鹿毛を見てすぐに力を抜いた。
「あ、バヤルだ」
「ほんとだね。でも、もう一人いる」
先を進んでいたのはハルガに乗ったバヤルで、その隣には三十代の終わり頃に見える男がいた。日に焼けた顔と肩幅のある身体には働き慣れた者らしい逞しさがあり、腰には短い刃物を下げているものの、それへ触れる様子はない。
サランは男の顔を見ながら、婚礼の日にバヤルたちの近くで何度か見かけたことを思い出した。
二頭が近づくにつれて、馬の汗と革、踏み潰された草の匂いが風へ混じってくる。
「朝から突然来て悪いな」
バヤルが片手を上げると、サランは二人を見比べた。
「わざわざ謝るなら来なければいいのに。……まあ、来ても別にいいけど。それで、今日はどうしたの?」
バヤルが答えるより先に、隣の男が馬から下りた。鐙から足を抜いて草の上へ降り、馬の首を一度撫でてからサランへ向き直る。
「婚礼ではまともに話してなかったな。俺はオルハンだ」
「サラン。……って、知ってる顔だね」
「ああ。今日はそのサランに頼みたいことがあって来た」
男の表情にも、バヤルの顔にも笑みはなかった。
何かある。
そう感じたところで、テムルが横から顔を出した。
「姉ちゃんに何を頼むの?」
オルハンがわずかに言葉を止めたのを見て、サランはすぐに察した。
「テムル、トゴがちゃんと水を飲んでるか見てきてくれる?」
「さっき見たけど……僕に聞かせたくない話?」
十歳になった弟は、もう何も考えず姉の言葉だけに従う幼子ではない。サランは少し困ったものの、誤魔化し続けることもせず、小さく頷いた。
「ちょっとだけね。お願い」
「……分かったよ」
不満そうに唇を尖らせながらも、テムルはトゴのいる方へ歩いていった。その背中が十分離れるのを待ってから、サランは二人へ向き直る。
「それで? テムルに聞かせない方がいいくらいには危ない話なんでしょ」
「少しはな。向こうで話そう」
三人はゲルから少し離れ、風上へ歩いた。乾き始めた草が脛へ擦れてさらさらと鳴り、煮炊きの残り香が薄れる代わりに、草と土、それに二頭の馬から漂う温かな汗の匂いが強くなっていく。
十分に離れたところで、オルハンは昨日の出来事を説明した。
「西から別の部族が入ってきた。向こうも草が足りないらしくて、俺たちが使っているところへ羊や山羊を連れてきたんだ。放っておけば湖の水場まで重なるから話し合って、昨日のところはこれ以上東へ入らないということで別れたんだが、今朝になって俺たちの馬が三頭いなくなった」
「向こうに盗られたと思ってるの?」
「分からん。だから困ってる」
その答えを聞いて、サランはわずかに目を細めた。最初から相手を犯人と決めつけているのなら、頼まれても断った方がいいと思っていた。
「三頭とも同じ群れにいて、最後に確認したのは昨日の夕方?」
「ああ。自分たちで離れた可能性もあるから、今も何人かが周囲を探している」
「それなら、どうして私に頼むの?」
オルハンは一度バヤルを見てから答えた。
「俺たちが相手の群れを見に行けば、それだけで昨日の続きだと思われる。顔も服も馬具も知られているからな。何人も馬で近づけば、確認だけのつもりでも喧嘩になるかもしれない。その点、お前なら服も馬具も俺たちとは違うし、向こうから見れば旅をしている別の部族の騎手だ」
サランは自分の袖へ目を落とした。確かに衣服の形も装飾もバヤルたちとは違い、馬具にもツァルヒ族独自の作りが残っている。
「つまり、向こうの群れに三頭がいるかどうか、私に見てきてほしいんだね」
「ああ。ただし見るだけだ。馬がいても近づく必要はないし、その先の話は俺たちがする」
「向こうの人に声をかけられたら?」
「普通に答えて構わない。ただ、俺たちの馬を探していることまで自分から話す必要はない。狩りの途中で通りかかったくらいでいい」
「それ、嘘をつけってこと?」
サランが眉を寄せると、オルハンは少し困った顔になった。
「……聞かれていないことまで話さなくていい、くらいに考えてくれ」
「それならできる」
サランの口元が少し緩み、横で聞いていたバヤルも息を吐いた。
「そこ、そんなに大事なのか?」
「大事だよ。私は嘘つくの苦手なんだから」
「それは何となく分かる」
「自分で言うのと、バヤルに言われるのは違うからね」
年相応にむくれたサランの顔を見て少しだけ空気が緩んだが、彼女はすぐ真顔へ戻った。
「いなくなった三頭の特徴を教えて」
オルハンは若い牝馬、荷役にも使う丈夫な騸馬、若者が普段乗っている鹿毛について、毛色だけでなく顔や脚の白斑、体格、鬣の特徴まで説明した。サランは途中で何度か確認し、頭の中へ三頭の姿を組み立てていく。
「近くまで行ければ見分けられると思う。でも、私一人で行くの?」
「向こうから見えないところまでは俺が同行する。そこから先だけ、お前に見てもらうつもりだ。何かあればすぐ戻ってくればいいし、俺は合流できる距離で待っている」
「バヤルじゃないんだ」
「俺はここまでの案内だ。それに、サランへ頼もうと言い出したのはオルハンだからな」
サランが意外そうにオルハンを見ると、男は頷いた。
「よその娘へ危ないことだけ押しつけるつもりはない。それと、ただで頼む気もない」
オルハンが腰の革袋を掌へ載せると、中で貨幣が触れ合って小さな音を立てた。
「仕事として頼む。報酬の半分を先に、残りは戻ってきたあとに渡す。向こうに馬がいなくても金額は変わらない。お前に頼むのは馬を取り返すことじゃなく、群れを確認して戻ってくることだからな」
サランは革袋へ手を伸ばさず、草原の向こうへ目を向けた。
風に揺れる草の先には、自分の知らない部族がいる。昨日の揉め事がどこまで広がっているのかも、相手が見慣れない騎手をどう受け取るのかも分からない以上、危険がないとは言えなかった。
けれど、やることそのものは単純だった。
相手の群れへ近づき、三頭の馬がいるかどうかを確認する。危険を感じれば離れればいいし、オルハンも近くまで同行する。
「……分かった。その条件なら受けるよ」
「本当にいいのか?」
「うん。ただし、馬を見つけても私から何かするつもりはないからね」
「それでいい。むしろ何もするな」
そこで初めて、サランは差し出された報酬の半分を受け取り、自分の革袋へ入れて口紐を二度引いた。
「じゃあ、準備してくる」
*
ゲルへ戻ると、トゴの首筋を撫でながら待っていたテムルがすぐに近づいてきた。
「姉ちゃん、何だったの?」
「ちょっと手伝いを頼まれたんだ。馬を見に行くだけだから、そんなに時間はかからないと思う」
サランは何でもないことのように答えながらサルヒのところへ向かった。青毛の牝馬は主人が近づくと顔を上げ、黒に近い毛並みを陽の下で青く光らせながら、小さく鼻を鳴らす。
「馬を見るだけなのに、僕には聞かせられなかったの?」
テムルの問いに、鞍を持ち上げたサランの手がわずかに止まった。
やはり誤魔化しきれない。
「少し揉め事があるところへ行くからだよ。でも私は話し合いに行くわけじゃないし、オルハンも途中まで一緒に来てくれる。危ないと思ったらすぐ戻るから」
完全に安心したわけではないらしく、テムルは眉を寄せたままだった。
「……そのオルハンって誰?」
「あっちのおじさん」
少し離れたところで待っていたオルハンがこちらを向いた。
「…….聞こえてるぞ」
「おじさんだって」
「バヤル、お前は黙ってろ」
バヤルが吹き出し、サランも思わず笑ったことで、テムルの表情もようやく少しだけ緩んだ。
「それなら、ちゃんと帰ってきてよ」
「もちろん。テムルにはこっちをお願いね」
サランは弟の頭を軽く撫でてから、サルヒの背へ鞍を載せ、腹帯を締めた。腰にはスリングと使い慣れた石を収め、分銅武器も確かめる。戦いに行くわけではないが、草原へ出る以上、何も持たずに行く理由はない。
準備を終えて鐙へ足をかけ、一息に鞍へ上がると、サルヒの温かな体温と、呼吸に合わせて動く筋肉の感触が脚へ伝わってきた。
「じゃあ行ってくる。早めに帰るからね」
「うん。気をつけて」
テムルがまだ少し心配そうに答える。
サランは笑って小さく手を上げると、サルヒの腹へ軽く脚を当てた。オルハンとバヤルも馬へ乗り、三頭は朝から昼へ移りつつある草原へ進み始める。
一度だけ振り返ると、テムルはゲルの前に立ったままこちらを見ていた。その傍らにはトゴがおり、囲いの中では三頭の山羊が何も知らず草を食んでいる。
サランがもう一度手を上げると、テムルも応えるように手を振った。
それを見届けて前へ向き直り、サランは手綱を握り直した。
婚礼の日、笑い声の中で知り合った者たちから持ち込まれた初めての仕事。
することは、三頭の馬がいるかどうかを見るだけだった。
少なくとも今は、まだそれだけの仕事だった。




