第7話 草を分かつもの
婚礼の賑わいが草原から消えて、五日が過ぎていた。
湖の南岸に並んだゲルからは、祝いの日に風をはらんでいた色鮮やかな布のほとんどが外され、何日も燃え続けた大きな焚き火の跡だけが、黒く焦げた土となって残っている。遠方から訪れていた親族の何組かはすでに別の草地へ向かい、残った者たちは馬や羊を追い、乳を搾り、革を干し、傷んだ馬具を直しながら、いつもの暮らしへ戻っていた。
朝の湖から流れてくる空気にはわずかな湿り気があり、それを押し流すように西から乾いた風が吹いている。馬の群れが動くたび、朝露を残した草が脚へ擦れて柔らかな音を立て、踏みしめられた草と湿った土の青い匂いが立ち上った。
バヤルはハルガの背に揺られながら、広い草原を眺めていた。
婚礼の翌日から、妹のアルナは夫と新しい暮らしを始めている。とはいえ、今のところは同じ湖の周辺にいるため、会おうと思えばいつでも会える距離だった。
それでも、笑い声と音楽が絶えなかった数日前に比べると、今朝の草原は妙に広く感じられる。
「あれ……バヤル、あそこ見てくれ」
前を走っていた若者が手綱を引いた。バヤルもハルガを止め、指された東寄りの草地へ目を向ける。
低い丘の向こうから、白や灰色の羊の背が次々と現れていた。その間には山羊も混じり、さらに離れた場所には十頭を超える馬までいる。
家畜の群れ自体は珍しくない。しかし、その群れには見覚えがなく、昨日までこの辺りにいたものでもなかった。
「うちのじゃないな。昨日、あんなところに群れがいたか?」
「いや。それに向こうを見ろ、人もいる」
さらに先の丘には騎馬の男が二人いた。衣服の色や帽子、馬具へ下げた飾りは自分たちのものと明らかに違う。
バヤルはハルガをゆっくり前へ進ませた。
距離が縮まるにつれ羊の鳴き声がはっきりし、毛と糞、乾いた土の混じった家畜特有の匂いが風に乗って届く。群れは落ち着いて草を食んでおり、迷い込んだ数頭という規模ではない。
誰かが意図して、ここまで連れてきている。
「いったん戻って知らせよう。誰の群れかも分からないうちから追い立てるわけにはいかない」
「でも、ここは俺たちが使ってる草地だぞ」
「だから話をするんだよ」
丘の上の男たちも、すでにこちらへ気づいていた。しかし近づいてくる様子はなく、互いに離れた場所から相手を見たまま動かない。
乾いた風だけが両者の間を通り抜け、背の高い草を一斉に同じ方向へ伏せていった。
*
昼前には、相手が誰なのか分かった。
以前からこの辺りの草原を巡っている別の部族で、市で顔を合わせたり、家畜や革を交換したりしたこともある。ただ、普段使っている放牧地はもう少し西寄りで、これほど湖へ近づくことは滅多になかった。
しかも向こうの方が少し大きく、家族も家畜もこちらより多い。
話をするため、双方から数人ずつが草原の途中へ出た。バヤルも同行したが、話の中心に立ったのは年長者たちだった。
「ずいぶん東まで来たな。普段なら、ここまで湖へ寄ってこないだろう」
こちらの年長者が尋ねると、相手側の男は西へ目を向けた。
「西の草が悪くて、このままじゃ群れを支えきれん。それで東へ動かしてきた。ここならまだ草が残っているからな」
「事情は分かったが、ここは俺たちが今季使っている。今食わせ尽くされたら、あとで困るのはこっちだ」
相手側の若い男が馬上で身を乗り出した。
「全部使うとは言ってないだろう。草原に線でも引いてあるのか?」
「もう羊を何十頭も入れてるじゃねえか」
バヤルの隣にいた若者の身体が前へ出かけたところで、双方の年長者がほとんど同時に制止した。
まだ誰も武器へ手を伸ばしてはいない。それでも、馬が乾いた地面を蹄で掻く音が妙に大きく聞こえるほど、空気は張り詰めていた。
バヤルにも相手の事情は理解できた。草が足りないなら、家畜を連れて移動するしかない。それは草原で暮らす者なら誰でも知っている。
だが、自分たちの群れを飢えさせるわけにもいかない。
「それに、その数を置けば草だけでは済まん。いずれ湖へ水を飲ませに下ろすだろう」
こちらの年長者が続けると、相手の男は目を細めた。
「湖はお前たちだけのものじゃない」
「分かっている。だが、何百頭も同じ岸へ集めれば水際は荒れるし、こっちの群れまで自由に下ろせなくなる。だから勝手に使い始める前に話をしてくれと言っているんだ」
草だけなら場所をずらせるかもしれないが、家畜を抱えて暮らす以上、水から離れることはできない。相手が長く留まれば、いずれ同じ湖岸を使うことになる。
「今日はこれ以上、東へ群れを入れないでくれ。こっちも家畜の数と残っている草を見て、どこまでなら互いに使えるか考える。そのうえでもう一度話そう」
相手側の男はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「分かった。今日はこれ以上動かさない」
双方は馬首を返した。
話は終わった。
少なくとも、その場では。
*
夕方、ゲルの間に設けられた焚き火のそばでは、昼間の話を巡って男たちの議論が続いていた。
鍋から肉と乳を煮込んだ匂いが漂い、燃料に使う乾いた家畜の糞の煙が夕風に押されて流れていく。少し離れた場所では子供たちが追いかけ合い、女たちは革袋や木桶を片づけており、周囲だけを見れば普段と変わらない夕暮れだった。
「俺は気に入らない。西の草が悪いなんて言ってたけど、こっちが何も言わないと思って入ってきただけじゃないのか?」
「決めつけるなよ。向こうが困ってるのは本当らしい。それと好きに使わせるかどうかは別の話だ」
バヤルが返すと、若者は向こうの味方をするのかと顔をしかめた。その言葉を遮ったのは、昼の話し合いにも参加していた三十代後半の男だった。
「バヤルの言うとおりだ。向こうに事情があるから全部譲るわけでもなければ、気に入らないから殴り合えばいいわけでもない。あの数が湖へ下りてくれば、水場でも揉めることになる。戦える男は働き手でもあるんだ。一人怪我すれば、その分は家族へ返ってくる」
若者はしばらく黙ったあと、焚き火へ視線を落とした。
「……分かってる。ただ、こっちだけ我慢するのは嫌なんだ」
「それは俺たちも同じだ。だから話をする」
薪が小さく爆ぜる。
バヤルは炎を見つめながら、昼間に見た相手側の家畜を思い出していた。
あれで終わればいい。
そう思った。
だが翌朝、その期待はあっさり裏切られた。
*
「馬が三頭いない! 群れを二回数えたけど、やっぱり足りない!」
朝の静けさを切り裂いた声に、バヤルは毛布を跳ねのけてゲルの外へ飛び出した。
湖の向こうには薄い朝靄が残り、草には無数の露が光っている。駆け寄ってきた若者から特徴を聞くと、一頭は若い牝馬、一頭は荷役にも使う丈夫な騸馬、そしてもう一頭は若者が普段乗っている鹿毛だった。
夜間、すべての馬を杭へつないでいるわけではないため、群れから離れただけという可能性もある。しかし、三頭同時となれば話は違う。
「昨日の奴らだ。向こうの群れを見れば分かるんだから、今すぐ行こう」
「待て。向こうが盗ったって決まったわけじゃないし、昨日揉めたばかりだ。何人も馬で乗り込めば、それだけで喧嘩になるぞ」
「向こうにいたら返してもらうだけだ!」
「そのつもりでも、向こうからどう見えるか考えろ!」
声が大きくなるにつれ、人が集まり始めた。
家畜は財産であり、とりわけ馬の価値は重い。それだけでなく、移動にも狩りにも欠かせない、日々を共にする存在だった。
「馬を盗られたなら、もう草や水場の話じゃないだろ!」
「だから盗られたと決めつける前に確かめるんだ!」
若者が手綱を掴んだところで、昨日の三十代後半の男が肩へ手を置いた。
「お前たちが行けば、向こうは昨日顔を合わせた連中が何人も馬で来たと見る。話をしに来たとは思わないだろう」
「だったらどうするんだ。ここで待ってるのか?」
男はすぐには答えず、朝風に揺れる草原を見つめた。
やがて何かを決めたように口を開く。
「……婚礼に来ていた、あの娘に頼んでみるか。サランといったな」
何人かが同時に顔を上げ、バヤルも男を見た。
「サランに何を頼むんだ?」
「向こうへ乗り込ませるわけじゃない。俺たちの馬らしいのが群れの中にいるか、それだけ見てもらう。見つけても声はかけず、戻ってきてもらえばいい。そのあとの話は俺たちがする」
周囲の男たちには戸惑いが残った。
「でも、あの娘は俺たちの部族の者じゃないだろ。まだ若いし、こっちの揉め事に巻き込むのか?」
「だから命令はしない。事情を話して頼むだけだし、嫌だと言われたらそれまでだ。それに俺も途中まで同行する。向こうから見えそうなところで残って、何かあればすぐ合流できる距離にいる」
男はそこで周囲を見回した。
「俺たちが行けば、服も馬具も昨日見られているからすぐ分かる。でもサランは違う。向こうから見れば、草原を旅しているよその騎手だ。それに、馬の扱いも心配はいらないだろう」
「まあ……バヤルとハルガに勝った娘だからな」
「それは今、言わなくていい」
バヤルが渋い顔をすると、張り詰めていた空気の中に小さな笑いが混じった。
「速いだけじゃない。地面を見て走れる娘なんだろ? 競走のとき、泥濘を避けたって聞いたぞ」
「……ああ。俺はそのまま入ったけどな」
「そこまで自分で言わなくてもいいだろ」
もう一度笑いが起きたが、三十代後半の男はすぐに表情を引き締めた。
「頼むのは偵察だけだ。馬を見つけても近づかず、向こうの者に声をかけられたら旅の途中だと言って離れる。危険なことをさせるつもりはないし、受けるかどうかを決めるのは本人だ」
最初に反対していた男も、しばらく考えた末に息を吐いた。
「……本人が嫌だと言ったら、それまでなんだな?」
「当然だ。よその娘に俺たちの揉め事を押しつけるつもりはない」
それなら、と周囲の者たちもようやく頷いた。
バヤルは朝の光の中で揺れる草原を眺めながら、その向こうに青毛の牝馬を思い浮かべた。
競走では自分とハルガを追い抜き、婚礼の日には弟と家畜を連れて現れ、夜には輪の中で楽しそうに踊っていた少女。
「サランなら、事情をちゃんと話せば聞いてはくれると思う。ただ、引き受けるかどうかは本人に決めてもらおう」
「ああ。まず俺たちが出向いて、全部説明する」
三十代後半の男が頷くと、若者も握っていた手綱から力を抜いた。
今必要なのは、喧嘩を始めることではない。消えた三頭の馬がどこにいるのか、それを確かめることだった。
「……分かった。それなら頼みに行こう」
若者の言葉に、バヤルも頷いた。
草原を渡る朝の風は昨日と変わらず、湖面を揺らしてからゲルの間を吹き抜けていく。
けれど、湖の南で暮らす者たちと、西から近づいてきた者たちとの間には、まだ目には見えない細い亀裂が生まれ始めていた。それがこのまま広がるのか、それともまだ閉じることができるのかは、誰にも分からない。
ただ一つ決まったのは、いなくなった三頭の馬を探すため、青毛の牝馬に乗る少女のもとへ事情を話しに行くということだった。




