第6話 風祝ぐ草原
市でバヤルと再会してから十日後、サランたちは朝露がまだ草の先に残っているうちに、ゲルを張った谷を出発した。
目指すのは北東。バヤルから教えられた目印は、大きな丸い窪地と、その先にある細長い湖だった。
道らしい道はないが、草原で暮らしてきたサランにとって困ることではない。遠くに連なる丘の形と朝日の位置を確かめ、ときおり頬を撫でる風や地面の傾きを読みながら、サルヒの進む方向を少しずつ整えていく。
「姉ちゃん、今日も競走に出るの?」
隣を進むボルの上からテムルが尋ねると、サランは呆れたように自分の服へ目を落とした。
「出ないよ。今日は祝いなんだから、こんな格好で本気の競走なんてできないでしょ」
普段の狩りや移動とは違い、今日は襟元や袖にツァルヒ族の細かな幾何学模様が刺繍された上衣を着て、腰から下には祝い用の長いスカートを重ねている。馬に乗る程度なら問題ないが、本気で駆けるための服ではない。
「でもバヤルに誘われたら出そうだよね。姉ちゃん、競走好きだから」
「……好きだけど、今日は出ないの。何しに行くのか忘れないでよ」
言い返すサランの後ろでは、軽い荷を背負ったトゴと三頭の山羊が続いていた。ちょうどガルが丈の高い草へ首を伸ばしたため、サランが綱を引くと、牡山羊は口いっぱいに草をくわえたまま不満そうに顔を上げる。
「ガルも今日は寄り道禁止。向こうへ着いたら好きなだけ食べさせてあげるから」
「ガルは結婚祝いより草の方が嬉しいと思うよ」
「それは否定できないね」
二人の笑い声が、朝の冷たい風へ溶けていった。
*
昼前、大きな円形の窪地を回り込んで低い丘を越えると、草原の向こうに細長い湖が現れた。
陽光を返す水面は銀色の帯のように伸び、その南側には十数張りのゲルと天幕、荷車が集まっている。周囲には馬や羊、山羊の群れまでいて、小さな集落が突然現れたようだった。
風に乗って話し声や子供たちの笑い声、楽器の音が届き、さらに近づけば焼いた肉や煙、温めた乳の濃い香りまで鼻をくすぐる。
「肉の匂いがする。もう昼だし、着いたら食べてもいいよね?」
「まだ着いてもないのに食べる話? ちゃんと挨拶してからだからね」
呆れながら答えていると、馬の群れから一頭の大きな黒鹿毛が抜け出し、こちらへ駈けてきた。
ハルガだった。
その背に乗ったバヤルはサランたちの前で速度を落とし、笑顔を見せる。
「来たか。二人とも本当に来てくれたんだな」
「約束したでしょ。それにテムルが十日前から楽しみにしてたから」
サランが笑い返すと、バヤルはテムルや動物たちを見回したあと、改めてサランへ視線を戻した。普段とは違う上衣や長いスカートを見て、一瞬だけ言葉を止める。
「今日はずいぶん違うな。……その格好、よく似合ってる」
「……そう? 祝いに来るんだから、一応ちゃんとしてきたんだけど」
予想以上に素直な言葉が返ってきて、サランはわずかに頬を熱くした。その様子を見ていたテムルが、思い出したように口を開く。
「だから姉ちゃん、今日は競走しないんだって。この服じゃ無理だから」
「テムル、それ今言わなくていいでしょ!」
バヤルは声を上げて笑い、サランが睨むのも構わず、動物を置ける場所へ二人を案内した。
*
サルヒたちを草地へ移し、山羊にも水を飲ませると、バヤルは今日の主役である妹のアルナを紹介した。
「あなたがサラン? 兄さんに勝った人だよね」
祝いの衣装をまとったアルナは、挨拶もそこそこに目を輝かせた。
「兄さんから聞いたよ。ハルガに乗った兄さんに最後までついていって、そのまま勝ったんでしょ?」
「余計なところまで覚えてなくていい」
背後でバヤルが顔をしかめると、サランは堪えきれず笑った。
「ちゃんと家族に負けたって話したんだ」
「俺が黙ってても、一緒にいた連中が勝手に喋るんだよ」
アルナの隣には夫となる青年がおり、サランたちが祝いとして持ってきた風走鹿の干し肉を受け取ると、丁寧に礼を言った。
その後は両親や親族へ順番に紹介されたが、次々と名前を聞かされたテムルは途中で覚えることを諦めたらしく、そっとサランの袖を引いた。
「姉ちゃん、もう誰が誰か分かんない」
「大丈夫。私もだから」
「二人とも聞こえてるぞ」
近くにいたバヤルに指摘され、姉弟は揃って口を閉じた。
そんな中、若い男の一人がサランの上衣に施された刺繍へ目を留めた。
「その模様は初めて見るな。どこの部族なんだ?」
「ツァルヒ族。昔から草原を渡ってる小さな部族だよ」
若者たちは知らないようだったが、少し離れていた年配の男がその名へ反応した。
「ツァルヒ……昔、西の方を渡っていた部族だったか。何年か前、あの辺りで大きなスタンピードがあったと聞いたが……」
サランの指先が、無意識にスカートの布を摘まんだ。
六年前。地面を震わせた無数の足音、舞い上がる土埃、獣の臭いと叫び声。その中で腕に抱えていた、まだ四歳だったテムル。
一瞬だけ蘇った記憶を胸の奥へ押し戻し、サランは小さく頷いた。
「……うん。あったよ」
男はそれ以上尋ねなかった。ただ静かに頷き、今日は祝いなのだからしっかり食べていけと笑う。
サランも笑みを返し、摘まんでいた布から指を離した。
誰が死に、誰が生き残り、その後ツァルヒ族がどうなったのか。それを祝いの日に話す必要はない。
すぐそばでは、アルナから料理を勧められたテムルが嬉しそうに頷いていた。
今日は祝いの日だった。
*
昼になるころには、大きな鍋から肉と香草の濃い匂いが立ち上り、串肉や乳製品、薄く焼いたパン、肉汁で炊いた穀物まで並んでいた。
テムルはすぐに同年代の子供たちへ混ざり、ミラとナラも何人もの子供に囲まれて撫でられている。トゴまで人気者になっていた。
問題はガルだった。
「こら、ガル! それは草じゃなくて飾り!」
祝いのため杭へ巻かれていた草飾りへ口を伸ばした牡山羊を、サランは慌てて引き離した。
「食べたら駄目って言ってるでしょ。せっかく飾ってあるんだから!」
「姉ちゃん、ガルに説明しても分からないと思うよ」
テムルの冷静な声に周囲から笑いが起こる。
サランが恥ずかしさを誤魔化すようにガルの角を押していると、少し離れたところでバヤルまで笑っていた。
「何がおかしいの?」
「いや、仲のいい姉弟だと思ってな」
「今のどこを見てそう思ったのよ」
サランが睨んでも、バヤルは笑うばかりだった。
*
食事が一段落すると、草地へ杭や色布が並べられ、若者たちによる馬術遊びが始まった。
馬を走らせながら杭の間を抜け、急旋回し、鞍から身体を大きく横へ落として地面の布を拾い上げる。競走とは違い、馬の速さだけでなく、騎手と馬がどれほど互いの動きを理解しているかが問われる遊びだった。
「サランも出るか?」
ハルガを連れてきたバヤルに誘われたものの、サランは無言で長いスカートを摘まんでみせた。
「この格好で地面の布なんて拾えるわけないでしょ。裾を引っ掛けて転んだら、アルナの結婚祝いでずっと笑いものにされるじゃん」
「それはそれで盛り上がると思うぞ」
「絶対やらない!」
言い切りながらも、サランの目は馬術へ向いたままだった。
やがてバヤルとハルガの番になる。大柄な黒鹿毛は小さく旋回するより、力強い脚を生かした走りを得意としているらしく、バヤルも無理に曲げず、広い進入角度から滑らかに次の動きへ繋げていく。
地面の布へ近づくと、身体を鞍の横へ大きく落とし、片脚だけで馬体へ残るような姿勢から一息に布を掴み上げた。
「……上手い」
戻ってきたバヤルへサランが素直にそう言うと、からかうつもりだったらしい本人の方が一瞬言葉に詰まった。
「今日は妙に素直だな。『まあまあ』くらい言われると思ったぞ」
「言おうと思ったけど、本当に上手かったから仕方ないでしょ」
「そうか」
それだけ答えたバヤルの顔が妙に嬉しそうで、サランは少し不思議そうに首を傾げた。
*
太陽が西へ傾くと焚き火が増え、昼間は散らばっていた人々が広場へ集まり始めた。
やがて歌声と楽器の音が重なり、女性たちが輪を作って踊り始める。色鮮やかなスカートが広がるたび、焚き火の光を受けた刺繍が浮かんでは消えていった。
サランは見るだけのつもりだった。
「サラン、こっちにおいで。一緒に踊ろう!」
アルナに手を掴まれるまでは。
「待って、私そっちの踊りなんて知らないって!」
「見ながら合わせれば大丈夫!」
そのまま輪へ引き込まれ、助けを求めてテムルを見ると、弟は満面の笑みで手を振っている。
「頑張って、姉ちゃん!」
「裏切者!」
笑い声に包まれながら、サランは仕方なく隣の女性の動きを真似た。
一歩進み、腕を上げ、手首を返して半歩下がる。最初は拍から遅れたものの、何度か繰り返すうちに足が自然と音を拾い始めた。草を踏む感触が靴底から伝わり、焚き火の熱を帯びた頬へ、夜の冷たい風が心地よく触れる。
そのとき、身体が別の動きを思い出した。
まだツァルヒ族のゲルがいくつも並んでいた頃。祝いの日には母や年上の娘たちが踊り、幼いサランも輪へ混ざって、何度も足を間違えながら真似をしていた。
無意識のうちに足取りが変わる。
今の踊りとは少し違う拍を挟み、片腕を前へ流し、もう片方を風を受けるように広げる。身体を半回転させると、馬術には邪魔だと思っていた長いスカートが、今度は動きに合わせて大きく広がった。
「それ、何?」
隣で踊るアルナが目を輝かせる。
「うちの踊り。ツァルヒの!」
「いいじゃない、そのままやって!」
アルナの笑顔につられ、サランも自然に笑った。
もう遠慮する必要はなかった。
腕を広げ、頬や袖に触れる風を感じながら身体を回す。風を操るのではない。ただ、そこにある風と一緒に動けばいい。
髪が揺れ、袖が腕の動きを追い、広がったスカートの刺繍へ焚き火の光が走る。知らない部族の祝いの踊りと、身体の奥に残っていたツァルヒ族の踊りが少しずつ重なっていった。
テムルが呆然と見ている。その少し後ろでは、バヤルも先ほどまでの笑みを消し、何も言わずサランを見つめていた。
曲が終わるころには、額へ薄く汗が浮かんでいた。
「姉ちゃん、踊れたんだ。僕、初めて見た」
駆け寄ってきたテムルへ、サランは笑いながら手を伸ばし、その髪を乱す。
「テムルが覚えてないだけだよ。小さい頃には見てると思うけど、まだ四歳くらいだったからね」
人前で頭を撫でられたテムルが恥ずかしそうに逃げると、その横からバヤルが近づいてきた。
「上手かったぞ。あんな踊りは初めて見た」
「……忘れて」
「何でだよ。あれだけいいものを見せられて、忘れられるわけないだろ」
興奮の残る顔で真っ直ぐ言われ、今度はサランの方が急に恥ずかしくなって視線を逸らす。
するとバヤルは少し考えてから、さらに続けた。
「それに、その格好は馬に乗ってるときより踊ってる方が似合うな」
サランはすっと冷めた顔で振り返った。
「……それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「ならいいけど」
その横でテムルが何とも言えない顔で二人を見比べていた。
*
夜が深くなると、草原の空には数え切れないほどの星が広がった。
ゲルの間ではいくつもの焚き火が赤く燃え、祝いはまだ続いている。誰かが歌えば別の誰かが声を重ね、疲れた子供たちは親に抱えられてゲルへ戻っていった。
サランとテムルは焚き火から少し離れた草の上へ並んで座っていた。
朝から馬に乗り、大勢と話し、食べて笑い、最後には踊りまでした身体には心地よい疲れが残っている。
火の向こうではアルナが夫の隣で笑い、その周囲には家族や親族、友人たちが集まっていた。
昔にも、こんな夜があった。
失ったものは戻らないし、その記憶を消す必要もない。けれど目の前の人々は、失った誰かの代わりではなかった。今日初めて話した者もいれば、少し前まで名前すら知らなかった者もいる。
「姉ちゃん、今日は楽しかったね」
テムルが焚き火を見つめたまま呟くと、サランは火の光に照らされた弟の横顔を見た。
昔の祝いをほとんど覚えていないテムルにとって、今日の夜は新しい記憶になるのだろう。
「……うん。楽しかったね」
サランが笑う。
風が吹き、焚き火の煙と料理の匂いを星空へ運んでいく。
向こうから聞こえた笑い声に目を向けると、ちょうどバヤルもこちらを見ていた。目が合った彼が軽く手を上げ、サランも少しだけ笑って手を上げ返す。
草原は広い。
昨日まで知らなかった者と出会い、名前を知り、別れ、時にはもう一度出会う。失われたものが戻るわけではない。それでも、その先で新しく結ばれていく縁はある。
夜の草原を渡る風は、人々の歌と笑い声を乗せながら、祝いの火の上をいつまでも吹き抜けていた。




