第5話 草原の市
新しい草場へ移ってから四日目の朝、サランはゲルの入口に膝をつき、市へ持っていく品を敷物の上へ並べていた。
東の丘から顔を出したばかりの朝日はまだ弱く、谷の底には夜の冷気が薄く残っている。露をまとった草は風が渡るたび銀色に瞬き、ゲルの覆いへ染みついた煙の匂いが、湿った土と若草の青い香りに混じっていた。
先日仕留めた風走鹿の皮を膝へ載せ、サランは端を指でなぞりながら乾き具合を確かめる。余分な肉や脂は落としてあり、交換に出せる品の中ではこれが一番大きい。ほかには少量の加工肉があるくらいだった。
少し離れた小川の近くでは、サルヒとボルが朝の草を食み、その向こうにはトゴと三頭の山羊がいる。
サランはミラの背へ手を載せた。夜露を吸った毛から、ひんやりとした感触が掌へ移ってくる。
「一日くらいならここに残してもいいと思ったけど、やっぱり連れていった方が安心だよね。繋いでる間に狼や肉食魔獣が来たら逃げられないし」
「連れていくのはいいけど、市で山羊まで預かってくれるの?」
背後から聞こえた声に振り返ると、起きてきたテムルが眠そうに目を擦っていた。
「預かり場があるから、そこで頼んでみるよ。馬やラバしか預けたことはないけど、三頭くらいなら何とかなるでしょ」
サランが何でもないように答えると、テムルは姉の顔をじっと見てから、草を食べ続けているガルへ視線を移した。
「つまり、山羊を預かってくれるかどうかは知らないんだね」
「聞く前から駄目って決める方がおかしいでしょ。駄目だったら、そのとき別の方法を考えればいいんだから」
もっともらしく言いながらも、サラン自身、山羊が預けられているところを見た記憶はない。最後にガルを見ると、牡山羊はそんな心配など知らないように草を噛んでいた。
「……お前が一番交渉を難しくしそうなんだけどね」
*
ゲルを一日留守にする準備を済ませると、サランはサルヒへ鞍を載せ、腹帯を確かめながら青毛の下にある筋肉へ手を滑らせた。
競走の翌日に狩り、その後には草場への移動と続いたものの、ここ数日は十分に休ませている。脚にも歩様にも問題はない。
テムルもボルへ鞍を載せ、トゴには荷鞍を取り付けた。今日はゲル一式がないため、風走鹿の皮と水袋、昼食、空袋程度しかない。
「今日は荷物が少ないから楽でよかったね、トゴ」
サランが首筋を撫でる横で、テムルが荷鞍を眺めながら口元を緩めた。
「行きはね。帰りは麦とか塩とか増えるんでしょ?」
その声が聞こえたのか、トゴの長い耳が左右へ開く。
「今それを言わなくてもいいでしょ。帰りのことは帰りに考えればいいの」
サランはトゴと目を合わせないまま、三頭の山羊へ向かった。
ミラとナラは素直に歩き出したが、ガルだけは朝露をまとった柔らかな草に夢中で、綱を引かれると四本の脚で一度踏ん張った。
「向こうにも草はあるんだから、今くらい我慢してよ」
少し強く引くと、ガルは口いっぱいに草をくわえたまま渋々歩き出す。
サランがサルヒへ跨がり、テムルもボルへ乗る。その間を荷を負ったトゴが歩き、後ろには三頭の山羊が続いた。
二人暮らしとは思えないほど賑やかになった一行は、朝の谷をあとにした。
*
市が近いことは、天幕が見えるより前から分かった。
草原を横切る蹄跡が増え、羊や山羊、牛の跡へ荷車の深い轍まで重なっていく。踏み倒された草の間から乾いた土が露出し、風に乗って細かな埃と家畜の匂いが流れてきた。
やがて羊を追う一家や毛皮を積んだ男、荷馬を引く商人ともすれ違うようになり、丘を越えるごとに人のざわめきや家畜の鳴き声、金属を叩く甲高い音まで聞こえてくる。
最後の低い丘を上ったところで、草原の上へ突然、町のような光景が広がった。
何十ものゲルや色鮮やかな天幕が平地へ並び、荷車をそのまま店にした商人や、敷物へ品物を広げる者、その間を行き交う人と家畜が視界を埋めている。石や木で造られた町のような道はなく、人が歩けばそこが道となり、荷車が止まれば流れが二つに分かれていた。
近づくほど匂いも濃くなる。焼いた羊肉、焚き火の煙、温めた乳、革、獣毛、馬の汗、土埃。その中へ甘辛い香辛料の香りまで混じっていた。
「肉の匂いがする。市に来たら、やっぱりあれ食べたいな」
前方へ身を乗り出すテムルを見て、サランは思わず笑った。
「朝ご飯を食べたばっかりでしょ。これだけ色んな匂いがするのに、最初に気づくのが肉なんだから」
「市で食べる肉は別だよ。姉ちゃんだって匂い嗅いだら食べたくなるでしょ?」
「はいはい。買い物がちゃんと終わったら考えてあげる」
普段は歳のわりに大人びている弟が、こういう場所では十歳らしく目を輝かせる。その姿を横目に見ながら、サランは市の外側にある家畜預かり場へ向かった。
*
預かり場には多くの馬と何頭かのラバがいたが、やはり山羊は一頭もいなかった。
受付にいた壮年の男はサルヒ、ボル、トゴを順番に見たあと、サランの後ろに並ぶ三頭へ目を止めた。
「馬二頭とラバ一頭、それに……まさか、その山羊も預けるつもりじゃないだろうな」
「そのまさかなんだけど、三頭だけだから端の空いてる杭へ繋がせてもらえない? 草と水があれば大丈夫だし、馬の区画には入れないから」
サランが愛想よく笑ってみせたものの、男は腕を組んだ。
「うちは馬預かりだ。ラバまでは扱うが、山羊番まで始めた覚えはないぞ」
「でも野営地へ置いてくるわけにもいかないんだよ。私と弟だけだから、市へ来たら誰も残らないし、繋いだまま狼でも来たら逃げられないでしょ」
男はサランからテムルへ視線を移し、二人だけで暮らしているのかと確かめた。サランが頷くと、それ以上は事情を聞かず、少し考えるように顎を撫でる。
「追加で払うから、今日一日だけお願い。三頭で馬一頭分、それに干し肉を少し付ける」
「山羊三頭に馬一頭分じゃ安いな」
「三頭しかいないんだから十分でしょ」
「三頭もいるんだ」
互いに譲らず睨み合っている横で、ガルが近くの馬へ興味を示して歩き出した。綱が張り、相手の馬が耳を伏せたため、サランは慌てて引き戻す。
「……ミラとナラは本当に大人しいから」
「今、一頭減ったぞ」
男の返しにテムルが吹き出し、サランはガルの綱を短く持ち直した。
やがて男は預かり場の端にある使っていない杭を指した。
「馬一頭分と干し肉でいい。ただし馬の区画へ入れるな。あの牡山羊が杭か綱を壊したら別料金だ」
「ありがとう。ガルも壊したりしないから大丈夫……たぶん」
「姉ちゃんまで『たぶん』って言った」
「そこは聞かなかったことにして!」
男の笑い声を背に、サランはようやく胸を撫で下ろした。
*
三頭を指定された場所へ連れていこうとしたとき、不意にサルヒが足を止めた。
耳がすっと前を向き、馬の区画の奥へ鼻先を向ける。その変化を手綱越しに感じたサランが視線を追うと、馬の群れの向こうに見覚えのある黒鹿毛がいた。
「……あの馬、競走のときのだ」
周囲の草原馬より一回り大きく、黒に近い濃い褐色の毛並みの下には、太い首から胸、脚へ続く筋肉が浮かんでいる。
黒鹿毛もこちらへ気づいたらしく、首を上げて鼻を鳴らした。サルヒも鼻先を持ち上げ、二頭はしばらく互いを見つめる。
その傍らにいた青年も自分の馬の様子に気づき、こちらを振り向いた。
「……お前、あのときの」
「久しぶりに会った相手への挨拶がそれ?」
サランが笑うと、青年は少し気まずそうに頭を掻いた。
「まさかここで会うとは思わなかったんだ。それにしても、その牝馬も元気そうだな」
「サルヒ。この子の名前だよ。そっちの黒鹿毛は?」
「ハルガだ。あの競走で負けてからも調子はいいぞ」
青年がハルガの頬を撫でると、サランもサルヒの首筋へ手を置いた。
「ハルガは負けたことなんて気にしてないかもしれないけどね」
「俺は気にしてる。次は勝つからな」
「だったら、こっちも次はもっと離して勝たないとね」
二人が笑いながら視線を交わしていると、横で聞いていたテムルが不思議そうに首を傾げた。
「姉ちゃん、この人が競走で最後までサルヒと走ってた人なんだよね。何て名前なの?」
サランは口を開きかけ、そのまま止まった。
「……そういえば、知らない」
「競走したのに?」
「走る前にいちいち名乗らないでしょ。それに向こうも私の名前を知らないから、お互い様だよ」
青年も苦笑し、競走の日にはそんな余裕がなかったと肩をすくめる。
「じゃあ今度はちゃんと名乗っておくか。俺はバヤルだ」
「私はサラン。こっちは弟のテムル」
名前を交わしただけなのに、競走の日より少しだけ相手が近くなったような感覚が残った。
そこへ預かり場の男から「話すなら預けてからにしろ」と怒鳴られ、サランは慌てて頭を下げる。
別れようとしたところで、バヤルがふと思い出したように呼び止めた。
「そうだ、サラン。十日後に妹の結婚祝いをやるんだけど、お前たちも来ないか?」
「妹さんの結婚祝いに、私たちが行ってもいいの?」
「近くにいる連中も集まるから気にするな。食って飲んで歌って、たぶん馬も走らせる。それに競走のあと、うちの連中がお前のことを気にしてたんだ。どこの娘なのかも分からないまま、俺とハルガに勝って山羊だけ連れて帰ったからな」
「それだと私、すごく怪しい人みたいじゃん」
「実際、かなり怪しかったぞ」
「失礼だなあ」
サランが笑うと、バヤルも場所を教えてくれた。ここから北東へ半日ほど、大きな円形の窪地を越えた先にある細長い湖の南側だという。
その目印なら、サランにも辿れる。
少し考えていると、隣ではテムルが期待を隠せない顔でこちらを見上げていた。
「……分かった。何もなければ、テムルも連れて行くよ」
「姉ちゃんの『何もなければ』は、だいたい行くって意味だよね」
「余計なこと言わなくていいの」
サランが弟の頭を軽く押すと、バヤルは笑いながら、動物たちも全部連れてくればいいと言った。
「じゃあ十日後に。またな、サラン」
「うん。またね、バヤル」
競走の日には名前すら知らずに別れた相手と、今では名前を呼び合い、次に会う約束までしている。そのことを少し不思議に感じながら、サランは三頭の山羊を預かり場の端へ連れていった。
*
サルヒとボル、トゴを預け、山羊たちも交渉した場所へ繋ぐと、サランとテムルは風走鹿の皮を担いで市場の中心へ入った。
そこでは草原の広さが急に消えたように、赤や青、黄色の天幕や荷車の店が隙間なく並び、売り手と客の声が四方から飛び交っていた。焼いた肉、乳製品、革、馬具の油、香辛料の匂いが歩くたびに入れ替わる。
「離れないでよ。人が多いから、勝手にどこかへ行ったら探すの大変なんだから」
サランが弟の袖を掴むと、テムルは少し不満そうに見上げた。
「僕もう十歳だよ。それに姉ちゃんだって十七歳じゃん」
「私はお姉ちゃんだからいいの。ほら、まず皮を交換するよ」
皮革や毛皮を扱う一角へ入り、獣皮を何枚も吊るした店で風走鹿の皮を広げる。店主は毛並みや縁、裏側の処理まで確かめたあと、サランの腰に下がったスリングへ視線を向けた。
「これを自分で仕留めたのか?」
「そうだよ。穴も少ないし、ちゃんと処理したから、それなりにはなるでしょ」
サランは麦と塩、それに革紐を要求した。店主が渋れば量を調整し、革紐を受け取る段階では指でしならせ、表面を押して強度まで確かめる。
「細かい娘だな」
「途中で切れたら困るからね」
結局、皮は必要な麦と塩、革紐へ交換できた。
*
昼が近づくにつれ、市場の人出はさらに増していった。
遠くから来た商隊も混じり、見慣れない衣服や細かな刺繍、異なる発音の言葉が行き交っている。品物と一緒に遠い土地の話も運ばれ、歩いているだけで水場や草場、魔獣についての噂が耳へ入った。
サランは必要そうな話だけを頭の隅へ残していたが、隣を歩くテムルが突然袖を引いた。
「姉ちゃん、さっき言ってた肉。買い物もちゃんと終わったんだから、一本くらいいいでしょ?」
指した先では串に刺した肉が炭火で焼かれ、落ちた脂が火を弾かせている。香ばしい煙を嗅いだサランは少し迷い、結局一本だけ買って弟へ渡した。
「本当に一本だけだからね。お昼はちゃんと持ってきてるんだから」
熱い肉へかぶりついたテムルの顔がすぐに緩む。その嬉しそうな表情を見ていると、サランも買ってやってよかったと思い、自然と頬が緩んだ。
「そんなに美味しいならよかった。慌てて食べて舌を火傷しないでよ」
「うん。だからもう一本――」
「それとこれとは別。一本だけって言ったでしょ」
即座に断られたテムルは残念そうな顔をしたが、また肉へかぶりついた。
*
昼を過ぎても市場のざわめきは衰えず、人と家畜の声が色鮮やかな天幕の間へ満ちていた。
草原の真ん中へ、その日だけ現れる町。数日も経てば人々は別々の方向へ散り、残るのは踏み倒された草や焚き火の跡、無数の蹄跡くらいだろう。
サランは歩きながら、ふと家畜預かり場の方を振り返った。今では天幕と人混みに遮られて何も見えない。
そこにはサルヒたちがいて、黒鹿毛のハルガもいる。そして競走の日には名前すら知らなかった青年にも、今はバヤルという名前があった。
「姉ちゃん、さっきから何をぼーっとしてるの?」
テムルに呼ばれ、サランは慌てて前へ向き直った。
「別にぼーっとしてないよ。ちょっと考え事してただけ」
「バヤルのこと?」
「なんでそうなるの!」
思わず大きな声が出て、近くを歩いていた男が振り返った。
頬が少し熱くなるのを感じたサランは、誤魔化すようにテムルの背中を押す。
「ほら、まだ買うものがあるんだから行くよ。変なこと言ってないで歩いて!」
声を上げて笑うテムルを見て最初はむっとしていたサランも、やがて我慢できなくなって一緒に笑った。
頭上では色とりどりの布が風を受けてはためき、その下では人々の声と家畜の鳴き声が幾重にも重なる。焼いた肉、煙、乳、革、土埃、遠い土地から運ばれた香辛料。数え切れない匂いを巻き込みながら、草原の風が姉弟の間を吹き抜けていった。
麦と塩を手に入れるために来ただけだった一日は、まだ半分ほどしか終わっていない。
そしてサランは、この賑やかな市で飛び交う無数の噂の中に、やがて自分たちの暮らしにも関わる話が混じっていることを、まだ知らなかった。




