第4話 草を求めて
朝日はまだ地平の向こうに隠れていたが、東の空はすでに白み始め、夜の青を少しずつ押し退けていた。
サランはゲルから少し離れたところでしゃがみ込み、足元の草を指先でかき分けていた。細い葉には丸い露が残り、触れるたび冷たい水滴が肌へ移る。根元を見れば柔らかな若草ほど短く食いちぎられ、ところどころ土まで覗いていた。
少し離れた場所では、サルヒとボルが残った柔らかな草を選ぶように食み、その向こうではトゴが大きな耳を動かしている。新しく加わったミラとナラ、ガルの三頭はさらに遠慮がなく、場所を変えながら盛んに草を食べていた。
二日前まで馬二頭とラバ一頭だったところへ、三頭もの草食獣が増えたのだから、草の減り方が変わるのも当然だった。
サランは残った一本を摘み、指の間で茎の硬さを確かめてから腰を上げた。
「やっぱり、そろそろ移った方がよさそうだなあ。水も少し減ってるし、六頭で食べ続けるには、この辺の柔らかい草も足りなくなってきたね」
野営地の近くを流れる細い水へ目を向ける。まだ枯れるほどではないものの、ここへ来た頃より水面はわずかに低かった。
「姉ちゃん、朝から何を見てるの?」
眠気を含んだ声に振り返ると、テムルがゲルから出てきた。髪は寝癖で跳ねたままで、朝の冷気を避けるように肩をすくめている。
「草と水。今日はここを出ようと思ってるんだけど、テムルも見てみて」
サランが示した場所へしゃがんだテムルは、残っている草を一本摘んだ。指先で折ると、硬い茎が小さな音を立てる。
「草はあるけど、硬いのばっかりだね。じゃあ今日はどっちへ行くの?」
「南東。市とは逆だけど、先に山羊たちを落ち着かせられる草場を探したいんだ。私がテムルくらいの頃に一度通った場所に、水の流れる谷があったから」
サランが低い丘の連なりへ顔を向けると、テムルは少し不安そうに姉を見上げた。
「そんな前のこと覚えてるの? 今も水があるか分からないでしょ」
「そこは行ってみないと分からないけど、草や鳥を見れば途中でも判断できるよ。風も地形も見るから、もう少しお姉ちゃんを信用してほしいなあ」
笑いながら弟の額を指で軽く弾くと、テムルはそこを押さえながら考えるような顔をした。
「風を読むのは信用してるよ」
「……そこは私を信用してるって言うところでしょ?」
サランが目を細めると、テムルは答えずに笑いながらゲルへ逃げていく。
「もう、逃げるのだけは早いんだから。遊んでないで片付けるよ!」
追いかけようとして、サランはこれから畳まなければならないゲルを見て足を止めた。
*
ゲルは家であり、同時に持ち運ぶための道具でもある。暮らしている間は風や夜の冷気から二人を守ってくれるが、移動すると決めれば、すべてを畳んで荷物へ戻さなければならない。
二人は鍋や水袋、食料を外へ運び、床に敷いていた毛織物も引っ張り出した。サランが勢いよく振ると、細かな土と草屑が朝日に照らされながら舞い上がり、染みついた煙の匂いが広がる。
「中にいると気にならないのに、外で嗅ぐとすごく煙くさいね」
テムルが鼻を押さえる横で、サランも毛織物へ顔を近づけて苦笑した。
「毎日ここで火を使ってるんだから仕方ないよ。次の場所で少し干せば、今よりはましになるでしょ」
荷物を出し終えると、外側の紐を解き、夜露を吸った覆いを二人で外した。湿った布は普段より重く、腕へずしりと負荷が掛かる。
「そっちをもう少し右へ引いて。そのままゆっくり下ろして」
サランの声に合わせてテムルが踏ん張り、二人で覆いを地面へ下ろす。そのまま壁の骨組みを縮め、屋根の部材も外して束へまとめていった。
最後の骨組みを畳み終えると、さっきまで家だった場所には丸く寝た草と小さな炉の跡だけが残った。
「何回やっても変な感じだね。さっきまでここが家だったのに」
テムルが足元を見つめると、サランも手を止めた。壁を失った場所を朝の風が何の抵抗もなく通り抜けていく。
「夕方にはまた別の場所で建つよ。なくなったんじゃなくて、今は畳まれてるだけ」
そう言って弟の肩を軽く叩き、今度は積み上がった荷物へ向き直った。
*
畳んだゲルに敷物や鍋、水袋、食料、それに昨日仕留めた風走鹿の肉と皮まで加わり、トゴが運ぶ荷物はいつもより多かった。
サランが呼ぶと、草を食べていたトゴは長い耳をこちらへ向け、荷物を見てからサランを見つめる。そのまま静かに顔を逸らしたため、テムルが吹き出した。
「絶対『また増えてる』って思ってるよ。昨日も風走鹿を運んだばっかりなのに」
「今日はちょっと多いけど、ちゃんと左右に分けるから大丈夫。トゴも分かってくれるよね?」
サランが首筋を撫でると、トゴは答える代わりに耳を横へ開いた。
二人は重い荷を左右へ振り分け、何度か離れて傾きを確かめた。片側へ寄れば位置を直し、最後にトゴを歩かせて大きく揺れないことを確認する。
「よし。これなら大丈夫。今日もよろしくね、トゴ」
やけに優しい声を出したサランを見て、テムルが笑う。
「姉ちゃん、荷物を運んでもらうときだけすごく優しいね」
「いつも優しいでしょ……って、ガル! 勝手に行かない!」
横から綱を引かれて振り向けば、ガルが出発前だというのに草を食べようとしていた。サランが引き戻そうとすると四本の脚を踏ん張り、意地でも動こうとしない。
「向こうにはもっと美味しい草があるかもしれないんだから、今は我慢してよ!」
牡山羊と力比べを始めた姉を見て、テムルは腹を抱えて笑った。
*
太陽が地平から完全に姿を現したころ、一行はようやく動き始めた。
サランがサルヒへ跨がり、その少し後ろをテムルの乗るボルが進む。荷を背負ったトゴがゆっくり歩き、三頭の山羊も周囲の草へ気を取られながらついてきた。
一度だけ振り返ると、野営していた場所には寝かされた草と焚き火跡が残るだけだった。風が吹けば草は起き、雨が降れば灰も土へ混じり、やがて人が暮らしていた痕跡は草原へ消えていく。
目の前に街道も道標もない。それでもサランにとって、草原は何の目印もない土地ではなかった。
丘の傾きや草の色、雨が溜まりやすい低地、鳥の飛ぶ方向、遠くに見える獣の群れ。そして肌を撫でる風。それらを拾っていけば、土地は自分の状態をいくらでも教えてくれる。
しばらく進むと、緩やかに下った先へ巨大な円形の窪地が現れた。長い年月で縁は崩れ、底まで草に覆われている。サランには由来など分からず、昔からそこにある見慣れた景色のひとつだった。
その縁を通る途中、土から覗いた丸い石が目に入り、サランはサルヒを止めた。
「ちょっと待って。スリングに使いやすそうな石があるから、拾っていくね」
鞍から身体を傾けて拾い、掌で転がしてみる。表面は滑らかで重さもちょうどいい。
「この前一個なくしたから、こういうのを見つけたときに補充しておかないとね」
石を腰の小袋へ入れると、テムルまで地面を眺めながら使えそうな石を探し始める。その様子にサランは小さく笑い、再びサルヒを歩かせた。
*
太陽が高くなるころには朝の冷たさも消え、乾いた空気へ草の匂いが強く混じり始めた。
午前中ずっと荷を背負ってきたトゴの首筋には薄く汗が浮かんでいる。サランは古い建物の残骸が作る影を見つけると一行を止め、締め具を少し緩めて休ませた。
自分も水を一口飲み、テムルへ水袋を渡す。
「水場まで、まだ遠い?」
喉を潤したテムルが丘の向こうを見ると、サランは風に揺れる草と、遠くを飛ぶ小鳥の群れを眺めた。
「今日中には着くと思うよ。さっきより草の色が濃くなってるし、鳥も同じ方角へ飛んでる。水のあるところへ向かってるなら、記憶にある谷もそれほど遠くないはず」
十歳前後の頃に一度通っただけの場所である以上、水が昔と同じように流れている保証はない。それでも、草の状態や鳥の動きは悪くなかった。
トゴを十分休ませてから、サランは立ち上がった。
「もう少し行ってみよう。今のところ、こっちで間違ってなさそうだから」
*
午後になってしばらく進んだころ、青毛のサルヒが不意に耳を前へ揃え、鼻先を持ち上げた。
その動きを感じたサランも顔を上げる。頬へ触れる風には、午前中までになかった微かな冷たさと湿りがあり、呼吸をすれば濡れた土と水辺の匂いが混じっていた。
「サルヒも気づいたみたい。水があるよ。たぶん、もう近い」
振り返るとテムルの顔が明るくなり、一行はそのまま低い丘を越えた。
向こう側では草原が緩やかに落ち込み、左右の丘に抱かれた細長い谷が広がっていた。谷底には陽光を細く返す水が流れ、その両側には、ここまで通ってきた場所より明らかに濃い草が生えている。
サランはすぐには喜ばず、馬から下りて谷を見渡した。煙もゲルもなく、大きな家畜群が草を食べた跡も見当たらない。水辺まで歩き、土の状態を確かめてから両手で水をすくう。
冷たい水の匂いを確かめ、少量を口へ含んでも妙な味はしなかった。
「大丈夫そう。草も柔らかいし、他の人が使ってる様子もないから、しばらくここにしよう」
テムルが嬉しそうにボルから降りた直後、三頭の山羊も豊かな草へ気づいた。
ミラとナラが一斉に動き、ガルは迷うことなく草へ向かう。綱を持っていたサランの身体が前へ引っ張られた。
「ちょっと待って! まだ家を建てる場所も決めてないんだから、勝手に始めないでよ!」
踏ん張る姉を見て、テムルが笑いながらガルを指した。
「ガルはもうここでいいみたいだよ」
「野営地を決めるのはガルじゃなくて私なの!」
二人で山羊を引き戻してから周辺を探すと、水場から一段高くなった緩い斜面に、平らで乾いた場所が見つかった。水にも近く、丘が風をいくらか遮ってくれる。
「ここなら大丈夫。トゴの荷物を下ろして、家を建てようか」
朝から荷を背負ってきたトゴから荷物を順番に外し、最後の大きな束を下ろす。背中が自由になった途端、トゴは身体を大きく震わせた。
「今日はもう終わり。お疲れさま、好きなだけ草食べてきていいよ」
テムルが首を撫でると、トゴは鼻を鳴らし、豊かな草の方へ歩いていった。
*
夕方になるころには、朝に畳んだ小さなゲルが、新しい草場の上へ再び立っていた。
最後の紐を結んだサランは数歩下がり、少し傾いて見える家を眺めた。一日中使った腕は重く、掌には革紐を引いた赤い跡が残っている。
「まあ、ちゃんと立ってるから今日はこれでいいよね」
腰へ手を当てる姉を見て、テムルがゲルを眺めながら笑った。
「姉ちゃん、疲れるとやっぱりちょっと雑になるよね」
「朝から家を畳んで、一日移動して、また建てたんだから仕方ないでしょ。気になるなら明日直すよ」
二人で笑いながらゲルの前へ腰を下ろした。
近くではサルヒとボルが新しい草を食み、荷から解放されたトゴもゆっくり草を噛んでいる。ミラとナラ、ガルに至っては、到着してからほとんど口を休ませていなかった。
谷底からは水の流れる音が絶えず聞こえ、風が通るたびに青い草と湿った土の匂いが運ばれてくる。昨日までとは違う土地なのに、ゲルがあり、テムルがいて、サルヒたちが草を食べているのを眺めていると、不思議と知らない場所へ来た気はしなかった。
「ここにしばらくいるなら、市へ行くのはそのあと?」
隣に座ったテムルへ、サランは疲れた脚を伸ばしながら頷いた。
「何日か家畜を休ませてから行こう。麦と塩も欲しいし、杭や革紐も買わないといけないから、風走鹿の皮も持っていけば何かと交換できると思うよ」
そう言いながら手を伸ばし、弟の髪を乱暴に撫で回す。テムルが笑いながら逃げると、その声にサルヒとボルが顔を上げ、トゴの長い耳も二人へ向いた。三頭の山羊だけは何も気にせず草を食べ続けている。
草原で暮らすというのは、毎日どこかへ旅を続けることではない。良い水と草があればそこで暮らし、土地の変化を見ながら次へ移る時を決める。移動するときには鍋も毛布もゲルも、自分たちの暮らしそのものを荷物へ戻して連れていき、別の土地へ着けば、そこでもう一度家を建てる。
サランたちにとって、それは旅というより、暮らすことそのものだった。
やがて夕陽が丘の向こうへ沈み、赤かった空が少しずつ紫へ変わっていくころ、新しい野営地の小さなゲルに火が灯った。
入口から漏れる橙色の光が足元の草を照らし、その向こうでは六頭の家畜が思い思いに過ごしている。水は絶えず流れ、草は風に揺れ、夜の冷たさがゆっくりと谷へ降りてくる。
明日もここで目を覚まし、その次の日も、おそらくここで暮らすだろう。いつ離れるのかを決めるのは暦ではなく、草と水、そして季節だった。
それまでは、この谷がサランとテムルの暮らす草原になる。




