3話 風の跡を辿って
翌朝、サランがゲルの外へ出ると、草原にはまだ夜の冷たさが残っていた。東の地平から昇り始めた太陽は低く、長く伸びた光が草の穂先に残る露を細かく輝かせている。昨夜より風は弱く、湿った土と冷えた草の匂いに、サルヒたちの体温を含んだ獣の匂いが混ざっていた。
両腕を頭上へ伸ばし、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、昨日の競走で残っていた腿の重さは眠ったおかげでだいぶ抜けている。それでも腰をひねれば身体の奥にはわずかな疲れが残っており、今日はもう一日ここに留まって、サルヒを休ませながら新しく加わった三頭の山羊をこの場所へ慣らすつもりだった。
ただ、ゲルに残っている食料を思い浮かべると、サランは小さく唸って腕を組んだ。
「食べ物が少ないんだよなあ……できれば今日のうちに、何日か持つくらいは獲っておきたいけど」
乾燥肉は残りわずかで、麦にもそれほど余裕はない。昨日連れ帰った三頭の山羊は、これから乳や仔を期待できる大切な家畜なのだから、当然ながら食料にするつもりはなかった。
「姉ちゃん、朝から何ぶつぶつ言ってるの?」
背後から眠そうな声がして振り返ると、ゲルの入口からテムルが顔を出していた。髪はあちこち跳ね、まだ半分しか開いていない目を手の甲で擦っている。
「おはよう。ちょうど食べ物のことを考えてたの。今から少し狩りに行って、できれば何日か持つくらい獲ってくるよ」
その言葉を聞いたテムルは目を少し開き、外へ出て大きく背筋を伸ばした。
「サルヒも昨日走ったばかりだけど、一緒に連れていくの?」
「近くまではね。脚を見て大丈夫そうなら、今日はゆっくり歩かせるくらいにするつもり」
サランはゲルの脇に置いていた革袋を取り、水や少量の干し肉、布、予備の紐が入っていることを確かめた。腰には短剣といつものスリングを下げ、その反対側には普段から選んでおいた石弾の小袋を結ぶ。
支度を眺めていたテムルは、ふと思い出したように眉を寄せた。
「大きいのがいても鎧猪とか狙わないでよ。姉ちゃん、見つけたら一人でもやりそうだから心配なんだよ」
「朝から私を何だと思ってるの。さすがに一人で鎧猪へ喧嘩なんて売らないって」
サランは呆れたように弟の額を指先で押してからサルヒのところへ向かったが、背後からまだ疑うような視線を感じ、振り返らないまま片手を振った。
青毛の牝馬は朝の草を食んでいたものの、サランが近づくと顔を上げた。鼻先を撫でてから脚を一本ずつ確認してみても、腫れや熱はなく、蹄にも異常は見当たらない。
「昨日あれだけ走ったのに元気だね。今日は本当にゆっくりだから、もう少しだけ付き合ってね」
サルヒが鼻を鳴らすと、それを聞いたテムルが後ろで笑った。
「その鼻息、姉ちゃんの言う『ゆっくり』を全然信用してないんじゃない?」
「大丈夫だって。今日は本当に走らせないから」
サランは苦笑しながら鞍を載せ、もう一度サルヒの首筋を撫でてから朝の草原へ出た。
*
朝の草原は静かで、サルヒの蹄が地面を踏むたび、湿り気を含んだ土から柔らかな音が返ってくる。サランは馬を急がせず、その歩調に身体を揺らしながら、草の動きや鳥の声、風が運んでくる匂いへ意識を向けていた。
草原で獲物を探すときは目だけに頼らず、草が不自然に揺れればその下に何かがいると考え、鳥が急に飛び立てば周囲へ目を向ける。肌へ触れる空気の流れも、獲物へ近づくためには欠かせない。
サランが片手を上げて指の間を抜ける風を感じていると、突然、近くの草が大きく揺れて灰褐色の影が飛び出した。
草原兎だった。
反射的に腰へ手を伸ばしたサランは、石弾を一つスリングへ収めると素早くサルヒから降りた。逃げていく兎を視線で追いながら腕を二度回して紐を放すと、低く空気を切った石弾が、横へ跳んだ兎の頭の脇へ鋭く当たった。
小さな身体が草の上を転がる。
サランはすぐに駆け寄って膝をつき、まだ動いていることを確かめると短剣を抜き、苦しませないよう手早く止めを刺した。掌へ伝わっていた震えが消えるにつれ、湿った草と土の匂いへ薄い血の匂いが混ざっていく。
「あなたの恵みに感謝します。ちゃんといただくからね」
温かさの残る身体へ手を添えてから簡単に血を抜き、革紐でサルヒの鞍へ括りつける。これだけでも今夜の食事にはなるが、数日分を確保するには足りないため、手についた血を草で拭ったサランは再び馬へ上がった。
「ひとまず一羽は獲れたし、焦らずもう少し探そうか」
サルヒの首を軽く叩き、朝の草原をさらに進んでいった。
*
太陽が少し高くなったころ、小さな丘の向こうに、草原そのものが沈み込んだような巨大な円形の窪地が見えてきた。そのさらに向こうでは、黒ずんだ古い石がいくつも草の間から突き出している。
誰が造ったのかも、いつからあるのかも知らない古い遺跡だったが、サランにとっては物心ついたころからそこにある見慣れた風景の一つにすぎない。
丘の手前でサルヒを止めたのは、何かが見えたからではなかった。
草と土、朝の湿気が混じった風の中に、馬でも山羊でもない野性味の強い獣の匂いを感じたため、サランは馬を降りて腰を落とし、丘をゆっくり上っていった。最後は腹ばいになり、朝露に頬を濡らしながら草の隙間から向こう側を覗く。
そこには薄茶色の身体と細くしなやかな脚、長い耳を持つ三頭の風走鹿が草を食んでいた。
草原に棲む小型の鹿系魔獣で、肉は美味く、皮も使える。一頭仕留めれば姉弟二人ならしばらく肉には困らないが、音や匂いだけでなく身体の周囲を流れる空気の変化にも敏感なため、姿を見られるより先に逃げられることも珍しくない。
三頭のうち一頭はまだ小さい。
サランは迷わずその個体を外し、体格のいい成獣へ目を留めると、ゆっくり後退して丘を下り、サルヒを崩れた遺跡の陰へ連れていった。
「ここで待ってて。今度の相手は耳も鼻もいいから、できるだけ静かにしててね」
額を撫でられたサルヒが鼻を鳴らしかけたため、サランは慌てて鼻先へ手を添えた。
「だから静かにって言ったばっかりでしょ。帰ったらちゃんと褒めるから、今だけお願い」
不満そうに顔を背けた牝馬へ苦笑し、そこからは徒歩で大きく風下へ回り込んだ。
足を上げすぎず、草を踏む音さえ抑えながら進み、風が揺らげば止まって安定するのを待つ。
――風と喧嘩するな。
幼いころ、何度も聞かされた言葉が頭をよぎった。誰に教えられたのかを一瞬だけ思い出そうとしたが、すぐに意識を獲物へ戻す。
百歩ほどまで距離を詰め、さらに八十歩、七十歩と近づいたところで、一頭が顔を上げた。
長い耳が左右へ動き、風を探っている。
サランは草の中で身体を止め、息を浅くした。
そのとき、頬へ当たっていた空気が弱まり、自分から風走鹿へ向かうように風が変わり始めた。
このままでは匂いを拾われる。
サランは左手をゆっくり開き、そこにある空気の流れへ意識を向けた。風そのものを作るのではなく、流れへ触れてほんの少し横へ押すと、周囲の草がゆらりと傾き、自分から鹿へ向かいかけていた弱い風がわずかに逸れていく。
鹿はまだ逃げない。
これ以上近づくのは危険だと判断し、サランは石弾をスリングへ収めた。片膝をついた姿勢から立ち上がると同時に腕を回したが、風走鹿もその動きを感じ取ったのか、予想より早く顔を上げる。
サランが紐を放った瞬間、四肢が地面を蹴った。
飛んだ石は首の後ろをかすめ、三頭が一斉に草原を駆けていく。
数歩だけ追ったサランはすぐに足を止め、丘の向こうへ消えていく三頭を見送りながら悔しそうに息を吐いた。
「かなりいいところまで近づけたのになあ……やっぱり速い」
まだ午前中なので別の獲物を探す時間は十分にある。それでもサランは三頭が消えた方角をしばらく見つめたあと、口元をわずかに上げた。
「もう一回だけ追ってみよう。駄目だったら、今度こそ諦めるから」
*
サルヒへ戻って逃げた方向へ進むと、ほどなく倒れた草と三頭分の蹄跡が見つかった。
柔らかい地面へ残った跡を追っていたサランは、途中で馬を降り、草の葉についた赤いものへ気づいた。指先で触れるとまだ乾いておらず、完全に外したと思っていた石が首か肩をかすめていたことが分かった。
「当たってたんだ……ごめんね。傷つけたままにはしたくないから、今度はちゃんと仕留めるよ」
傷つけた以上、このまま苦しませて逃がす方が嫌だった。
折れた草や蹴られた土を辿りながら半刻ほど進むと、浅い窪地の中で休む三頭を再び見つけた。傷ついた個体も立っているものの、ときおり首を動かしている。
サルヒを遠くへ残し、今度はさらに慎重に風下から近づいた。
八十歩から七十歩、そして六十歩まで距離を縮めたところで止まり、先ほどより少し重い石を選んでスリングへ収める。
右から左へ流れる風を頬と指先で確かめ、その流れへほんのわずかに触れた。石を押し飛ばすのではなく、横から邪魔する風を弱め、飛ぶ道を整えるだけでいい。
傷ついた風走鹿が顔を上げた瞬間、サランも立ち上がった。
スリングを二度回して放つと、鹿が跳ぼうと頭を上げたところへ石弾が側頭部から鋭く入り、その身体が草の中へ崩れ落ちた。残る二頭が跳ねるように逃げていく中、サランはすぐに駆け寄り、まだ動いている獣の首元へ短剣を入れた。
身体が一度大きく震え、やがて力を失う。
温かな血の匂いが朝の草原へ広がる中、サランは荒くなった呼吸を整え、その首へ手を置いた。
「……ありがとう。無駄にはしないから」
ついさっきまで草原を走っていた身体には、まだ温もりが残っている。食べるために殺した以上、使えるものはできる限り使い、無駄にはしない。それが草原で生きる者として、幼いころから教えられてきたことだった。
やがて立ち上がったサランは、改めて倒れた風走鹿を眺めた。
狙っていたときより、ずいぶん大きく見える。
前脚の付け根を掴み、力いっぱい引いてみたものの、重い身体がわずかに動いただけで、昨日競走したばかりのサルヒへ無理に積む気にもなれなかった。
「これは一人じゃ無理だなあ……サルヒに無理させるくらいなら、トゴにお願いした方がいいか」
サランは遠くで待っている青毛の牝馬を見て、ひとまず獲物をその場へ残すことにした。
*
ゲルへ戻ると、山羊の囲いを見ていたテムルがサランの姿に気づき、こちらへ駆けてきた。
「姉ちゃん、おかえり。兎はちゃんと獲れたんだね」
テムルが鞍へ括られた兎を眺めると、サランは得意そうに馬を降り、草原の方角を親指で示した。
「兎だけじゃないよ。もう一頭獲ったんだけど、重すぎて持って帰れなかったから置いてきたの」
「持って帰れないって、何を獲ったの?」
テムルが怪訝そうに姉を見ると、サランは両手を少し広げた。
「風走鹿。思ってたより大きかったから、トゴに手伝ってもらおうと思って」
「それ全然ちょっとじゃないよ……」
テムルが呆れたように息を吐き、二人の視線が少し離れたところにいるトゴへ向かった。
サランが近づくと、ラバは顔を上げたものの、長い耳を横へ開いて警戒するように彼女を見つめている。
「トゴ、そんな顔しないでよ。お願いがあるだけだから」
首筋へ手を伸ばしたサランを見て、テムルが横で吹き出した。
「昨日、荷物が増えるかもしれないって言ってたのに、本当に次の日に増えたね。トゴも分かってるんじゃない?」
サランは撫でていた手を止め、トゴとしばらく見つめ合った。
「……食べ物なんだからしょうがないでしょ。ちょっと重いけど、帰りはゆっくり歩くからお願いね」
トゴが低く鼻を鳴らす。
それを聞いたテムルはさらに笑った。
「絶対に『嫌だ』って言ってるよ」
「違うよ。『仕方ないから任せろ』って言ってるの。テムルもボルで一緒に来てくれる?」
サランが振り返ると、テムルはすぐに頷き、そのままボルのところへ駆けていった。
*
風走鹿を仕留めた場所まで戻ると、テムルは思っていた以上に大きな獲物を前にして目を見張った。それでもボルから降りるとすぐに姉の隣へしゃがみ、サランが短剣を取り出す様子を真剣に見つめる。
「ここからも狩りだから、ちゃんと見ててね。仕留めたあとにきちんと処理しないと、せっかくの肉を悪くしちゃうから」
サランはそう言いながら手を動かし、腹を開くときには刃を深く入れすぎず、内臓を傷つけないよう慎重に進めた。温かな血と獣の濃い匂いに最初は少し表情を強張らせていたテムルも、やがて姉の指示に従って手伝い始める。
処理を終えた肉は二人でトゴの荷鞍の左右へ分け、片側だけが重くならないよう何度も位置を直した。皮も畳んで上へ載せ、最後にサランが両手で荷を押して確かめる。
「これなら大丈夫そうだね。トゴ、帰りは急がないから、もうひと頑張りだけお願い」
首筋を撫でられたトゴが大きく鼻を鳴らすと、隣にいたテムルが笑いながらその顔を覗き込んだ。
「今度こそ絶対、『重い』って言ってるよ」
「……今日はそういうことにしておこうかな」
サランも苦笑しながら、最後に獲物が横たわっていた場所を振り返った。残されたものも、やがて鳥や小動物、虫に食べられ、最後には土へ戻っていくのだから、草原では何一つ完全な無駄にはならない。
*
帰り道は肉と皮を背負ったトゴの歩調に合わせ、サランたちはゆっくり草原を進んだ。
青毛のサルヒ、小柄なボル、荷を背負ったトゴ。そのそばを、サランとテムルが並んで進んでいく。
後ろから吹く風が二人の髪を揺らし、そのまま草の波を地平へ運んでいった。獲物を追っていたときとは違い、もう風へ隠れる必要も、匂いを逸らす必要もないため、サランはただ頬へ触れる流れを感じていた。
明日か、遅くても明後日にはここを離れる。
ゲルを畳み、布も骨組みも鍋もまとめ、サルヒとボルに乗って次の草地へ向かう。どこへ行くかはまだ完全には決めていないが、草と水があり、家畜を休ませられる場所を探して、また進めばいい。
けれど今は、次の数日を心配する理由が一つ減った。
テムルが何気なく話しかけ、それを聞いたサランが笑う。二人の声は風に乗って草原へ流れ、遠くには巨大な円形の窪地が薄い影となって残り、その手前では黒ずんだ古い石が半ば草へ埋もれていた。
誰が造ったものなのか、いつからそこにあるのかをサランは知らないが、それは昔からそこにあり、今日も変わらず風と草の中に立っている。
その見慣れた風景の中を、姉弟と三頭は次の数日分の恵みを携えながら、自分たちの小さなゲルへ向かってゆっくりと帰っていった。




