第2話 灯火揺れる夜
夕暮れが草原をゆっくりと染めていくころ、サランはようやく自分たちのゲルが見える場所まで戻ってきた。
西へ傾いた太陽が草原の起伏を長い影で縁取り、乾いた草を橙色に輝かせている。風に押された草の波は薄暗くなり始めた地平へ向かって流れ、その中に小さなゲルがぽつんと立っていた。
大きな一族が使うものよりずっと小さく、外側を覆う厚い布には何度も補修した跡がある。それでも煙抜きからは細い煙が伸びており、サランはそれを見た途端、馬上で少しだけ肩の力を抜いた。
「やっと帰ってきたね。今日はずいぶん走らせちゃったけど、もう少しだから」
前へ身を傾けて青毛の首筋を撫でると、サルヒは片耳を後ろへ向けた。競走のあと十分に歩かせたとはいえ、首から肩にかけては乾いた汗で毛が少し固まり、馬特有の温かな匂いが残っている。
その後ろでは、今日新しく増えた三頭の山羊が、ときおり不満そうに鳴きながらついてきていた。
普通の山羊より一回り体格のいい家畜化された魔獣種で、牡が一頭、牝が二頭。知らない少女と馬について長い距離を歩かされたせいか、三頭とも少々機嫌が悪そうだった。
「もう着くから、そんなに文句言わないの。今日はちゃんと休ませてあげるからね」
振り返ったサランへ一頭の牝が短く鳴き、牡まで鼻を鳴らした。
「……なんか信用されてない気がする」
口を尖らせた、そのときだった。
「姉ちゃん!」
ゲルの脇からテムルが飛び出してきた。風に乱れた髪もそのままに草を蹴って駆けてくる弟へ、サランも笑顔で片手を上げる。
「ただいま。ちょっと寄り道してたら遅くなっちゃった」
ところが途中まで来たテムルは、サルヒの後ろにいる三頭へ気づいた途端に足を止めた。
姉を見て、山羊を見て、もう一度姉を見る。
「……姉ちゃん、その山羊どうしたの? 出かけたときはいなかったよね」
怪訝そうな弟とは対照的に、サランは待ってましたとばかりに胸を張った。
「今日ね、向こうで競走をやってたから参加してきたの。それでサルヒと一緒に勝って、この三頭を賞品でもらったんだよ」
褒められると思っていたサランだったが、テムルは驚くより先に小さく息を吐いた。
「やっぱりまた競走に出たんだ。姉ちゃん、競走を見つけるとすぐ参加するよね」
「だってサルヒが走りたがるんだから、しょうがないでしょ。私だけが好きみたいに言わないでよ」
サランが首筋を撫でると、都合よくサルヒが鼻を鳴らした。
「ほら、サルヒだってそう言ってる」
テムルは牝馬をじっと見てから肩をすくめる。
「それ、絶対に違う意味だと思うけど……」
「なんでよ」
十歳の弟に呆れられ、十七歳の姉が不満そうに頬を膨らませる。だがテムルが三頭へ近づいて身体つきを眺め始めると、サランはすぐに機嫌を直した。
「牝が二頭に牡が一頭。ちゃんと家畜化された魔獣種だよ。毛もいいし、脚もしっかりしてるから、かなりいい山羊だと思う」
テムルは角の正面を避けながら一頭ずつ眺め、目を輝かせた。
「三頭も増えたら、少し賑やかになりそうだね」
「でしょ? まあ、その分だけ世話も増えるんだけどね」
サランは笑いながら馬を降りた。着地すると長時間の騎乗で固まっていた腿が張り、腰へ手を当てて背筋を伸ばす。
「私は山羊の場所を作るから、テムルはサルヒに水を飲ませてくれる? 今日はかなり走ったから、一気に飲ませないようにしてね」
テムルは頷き、姉の手から手綱を受け取った。
「分かってるよ。ボルとトゴの世話だってちゃんとしてたんだから」
「それなら安心。お願いね」
サランがサルヒの鼻先を一度撫でると、テムルは牝馬を連れて水場へ向かった。
*
三頭の山羊を連れてゲルの裏へ回ったサランは、腰へ両手を当てて周囲を見回した。
これまではサルヒとボル、それに荷役用のラバであるトゴだけだったため、簡単な杭と縄があれば十分だった。しかし今日からは、立派な角を持つ山羊が三頭増える。
やがて戻ってきたテムルが、丈の短い草の残る一角を指した。
「姉ちゃん、ここなら少し窪んでるから、風も当たりにくいんじゃない?」
サランはしゃがんで土を触り、顔を上げて風の向きを確かめた。
「うん、ここがよさそう。古い杭が残ってたはずだから、それを使おうか」
二人で引っ張り出した杭は、いくつかがかなり朽ちていた。サランが先端を親指で押すと、乾いた表面がぽろりと崩れる。
「これはそろそろ駄目だなあ……でも、今夜くらいなら持つかな」
「それ、前にも言ってなかった?」
横から覗き込んだテムルに指摘され、サランは崩れた部分をさりげなく払い落とした。
「次に人が集まるところへ行ったら買うから。今日はこれでいいの」
石で杭を打つ乾いた音が夕暮れの草原へ響く。何度も振り下ろしているうちに、競走で手綱を握り続けていた掌へ鈍い痛みが走り、サランは顔をしかめて手を振った。
「うぅ……さすがに手が痛くなってきた」
縄を整理していたテムルが顔を上げる。
「僕が代わろうか? 今日は競走したあとなんだから、無理しなくてもいいよ」
サランは赤くなった掌を握ったり開いたりしてから、再び石を持ち直した。
「大丈夫。競走で勝ったのに、最後に朽ちかけの杭へ負けるなんて嫌だから」
真剣な顔で石を振り下ろす姉を見て、テムルは堪えきれずに笑った。
「姉ちゃん、何と戦ってるの? 杭は別に姉ちゃんと勝負してないよ」
「今はしてるの」
もう一度石を振り下ろすと、杭が深く沈んだ。
「ほら、私の勝ち」
「はいはい。じゃあ勝った人は休んでて。僕が縄を結ぶから」
テムルが笑いながらしゃがみ込み、杭へ縄を回していく。
二人で作業すれば、それほど時間はかからなかった。最後の結び目を確かめて三頭を繋いだところで、サランは出来上がった簡素な囲いを眺める。
「とりあえず今夜は大丈夫そう。今度、ちゃんとした杭と縄を買わないとね」
テムルは結び目を引っ張って確かめながら、ふと手を止めた。
「お金は大丈夫? 山羊が増えたなら、冬の餌もいるよ」
サランの動きが止まった。
「……お金は少しあるよ。冬の餌は、その……冬までにはちゃんと考える」
テムルは黙って姉を見る。
その視線に耐えきれなくなり、サランは顔を逸らした。
「何、その顔」
「やっぱりそこまで考えずに連れて帰ってきたんだなって」
「勝ったときは嬉しかったんだからしょうがないでしょ。これから考えればいいの」
腕を組んで言い訳する姉を見て、テムルは呆れながらも笑った。
そのころには、一頭の牝が足元の草を食み始め、もう一頭もそれに続いていた。最後まで周囲を警戒していた牡も、やがて草へ口をつける。
風の音ばかりだったゲルの周囲へ、新しい鼻息や低い鳴き声、草を食む音が重なっていく。
家畜が三頭増えただけなのに、姉弟の暮らしが昨日よりほんの少し大きくなったように感じられた。
*
ゲルへ入ると、サランは炉のそばへ腰を下ろし、腹を押さえた。
「さすがにお腹空いたなあ。今日は何か残ってる?」
テムルは壁際の袋を引き寄せ、中身を確かめる。
「乾燥肉と麦が少しあるよ。昼に野草も採っておいたから、一緒に煮れば足りると思う」
「野草まで採ってくれたんだ。それなら今日はテムルに任せて正解だったね」
中央の炉へ火を入れ、乾燥肉と麦を鍋へ入れる。乾いた糞燃料がぱちぱちと燃え、肉の脂と塩気を含んだ温かな香りが狭いゲルへ広がり始めた。
羊毛や布へ染みついた煙、革袋や乾燥肉の匂い。その中へ煮炊きの香りが混ざると、サランはようやく一日が終わる気がした。
炉の横で膝を抱えると、競走の最中には気づかなかった疲れが腰や腿へ重く残っている。火の熱がじんわりと脚へ染み込み、身体から少しずつ力が抜けていった。
野草を千切っていたテムルが顔を上げる。
「今日の競走、強い人もいたの?」
「いたよ。大きな黒鹿毛の牡馬に乗ってる人がいて、その人とは最後まで競ってた」
サランは膝の上へ顎を乗せ、二つの丘を越えて旗を回る競走だったことや、帰り道で湿った窪地を避けて黒鹿毛を追い抜いたことを話した。
「窪地は風で分かったの?」
テムルが手を止める。
「風もあったけど、草の色が少し違ってたからね。近づいたら湿った土の匂いもしたし、あそこへ入らない方が速いと思ったの」
幼いころから身体へ染み込ませるように覚えてきた感覚を、サランは特別なものだとは考えていない。テムルも納得したように頷くと、再び野草を千切り始めた。
「じゃあ今日は疲れてるみたいだから、苦いやつもいっぱい入れてあげる」
わざと大きな束を掴んだ弟を見て、サランは慌てて身を起こす。
「待って。それは話が違うでしょ。食べるけど、そんなに入れなくていいから!」
テムルは笑いながら袋を胸へ抱え、サランも身を乗り出して奪い返そうとする。狭いゲルの中に逃げる場所などなく、二人の笑い声が布壁いっぱいに広がった。
*
煮上がった肉と麦の汁を器へよそい、二人は炉を挟んで食べ始めた。
匙が器へ触れる音と火の弾ける音が重なり、外からは、ときおり山羊の低い鳴き声が聞こえてくる。
しばらく食べていたテムルが、その声へ顔を上げた。
「姉ちゃん、あの牝たちって乳が出るかな。もし出るなら、少し食べるものも増えるよね」
サランも布壁の向こうへ視線を向ける。
「明るくなってからちゃんと見てみよう。乳が取れるなら助かるし、毛も使えるからね」
テムルは汁を一口飲み、器の中を見つめながら少し考えた。
「でも三頭増えたら仕事も増えるよね。僕も世話することになるだろうし」
サランは器を膝へ置き、火越しに弟を見る。
「やっぱり嫌だった?」
テムルは少し驚いたように顔を上げ、それから首を横へ振った。
「嫌じゃないよ。仕事が少しくらい増えても、僕は今より賑やかな方がいいな」
その言葉に、サランの手が止まった。
テムルは深い意味など込めていないらしく、また匙を動かしている。
けれどサランの耳には、外から聞こえる家畜たちの音が急にはっきりしたように感じられた。
昔は、もっと賑やかだった。
いくつものゲルがあり、大人たちの声と走り回る子どもたちの笑い声が絶えなかった。馬や家畜の群れがいて、夕暮れになればあちこちから料理の匂いが漂い、夜には誰かの歌声が風に乗ることもあった。
魔獣の大群が草原を呑み込んだあの日から、何もかもが変わった。
忘れたわけではない。それでも毎日を生きていくためには、いつまでも過去だけを見ていることもできない。
サランは火の向こうにいる弟を見る。
テムルがいる。サルヒも、ボルも、トゴもいる。そして今日、山羊が三頭増えた。
サランは器を持ち直し、わずかに口元を緩めた。
「そうだね。仕事は増えるけど、私も静かすぎるより賑やかな方が好きかな。明日から二人でちゃんと世話していこう」
テムルは嬉しそうに頷いた。
*
食事を終えるころには、外はすっかり暗くなっていた。
二人がゲルを出ると、冷えた夜気が火照った頬へ触れた。雲のない空には無数の星が浮かび、地平近くまで淡い光が散っている。
サルヒは静かに休み、ボルは近くで草を食べていた。トゴも身体を休めながら、姉弟が出てきたことに気づくと長い耳だけをこちらへ向ける。
三頭の山羊も落ち着いており、それを見たテムルが囲いの前へしゃがんだ。
「姉ちゃん、このまま山羊って呼ぶのも変だし、名前をつけようよ」
「いいよ。じゃあテムルが一頭決めて。私はもう一頭を考えるから」
サランも隣へしゃがむ。
テムルは伏せている牝をしばらく眺め、やがて小さく頷いた。
「この子はミラ。なんとなくだけど、似合う気がする」
「じゃあ私は……こっちをナラにしようかな」
テムルが横目で姉を見る。
「姉ちゃんもなんとなく?」
「名前なんて最初はそんなものでしょ」
二人は顔を見合わせて笑い、それから最後の牡へ目を向けた。
大きく湾曲した角を持つ牡は、相変わらずこちらを睨むような顔で立っている。
「この子はガルかな。火って意味だし、強そうだから似合うでしょ」
テムルも牡山羊を見て頷いた。
「じゃあ、ミラとナラとガルだね」
三頭の名前を口にすると、それまで競走の賞品だった山羊たちが、急に自分たちの暮らしの中へ入ってきたように感じられた。
*
ゲルへ戻ると、テムルは大きく欠伸をしながら毛布へ潜り込んだ。
「姉ちゃん、明日はここを出る?」
サランは寝床を整えていた手を止める。
「明日はまだここにいるよ。サルヒを休ませたいし、山羊たちの様子も見たいからね」
「それなら僕も朝から手伝うよ。おやすみ、姉ちゃん」
「うん、頼りにしてる。おやすみ、テムル」
サランが毛布を掛け直してやると、ほどなくして規則正しい寝息が聞こえ始めた。
けれどサランはすぐには横にならず、炉に残る小さな炎を眺めていた。
外では夜の風が草原を低く渡っている。その中には、いつものサルヒやボル、トゴの気配とともに、今夜から三頭分の新しい匂いと物音が加わっていた。
明日から仕事は増える。杭も縄も買わなければならないし、冬になれば餌のことも考えなければならない。
けれど乳が取れるかもしれない。毛も取れる。仔を産めば、いつかもっと増えるかもしれない。
今日まではなかったものが、明日からの暮らしにはある。それだけで、ほんの少し先のことを考えられる気がした。
サランは眠っている弟をしばらく眺め、自分も毛布へ身体を沈めた。
「おやすみ、テムル……」
聞こえないほど小さな声でもう一度だけ呟く。
外からサルヒが鼻を鳴らす音が聞こえ、その向こうでは山羊が一頭、短く鳴いた。
サランは暗闇の中で小さく笑った。
風はその夜も何事もなかったように草原を渡り、小さなゲルと、その周囲で眠る家畜たちの間を静かに抜けていく。
昨日と同じ草原の夜だった。
それでも姉弟の暮らしには、新しい三つの命が加わっている。
その気配を感じながらサランは目を閉じ、やがて穏やかな眠りへ落ちていった。




