第1話 風渡る草原にて
草原を渡ってきた風が、サランの頬を撫でていった。
午後の陽を浴びた大地には、淡い緑と黄褐色の波が見渡す限り重なっている。丈の短い草は風に押されて一斉に傾き、少し遅れてまた起き上がる。その揺らぎは緩やかな丘を越えて遥か彼方まで続き、青く澄んだ空の下で、大地そのものがゆっくりと呼吸しているようだった。
サランは馬上で身体を揺らしながら、前方へ続く草の倒れた細い筋を眺めていた。
十七歳という年齢に似合わず騎乗姿勢には危なげがなく、手綱を握る手にも余計な力は入っていない。馬が一歩進むたびに生まれる揺れを抑え込むのではなく、幼い頃からそうしてきたように身体全体で受け流している。
彼女を乗せているのは、青毛の牝馬サルヒだった。
遠目には墨を流したような黒い馬体も、斜めから陽を受ければ艶のある毛並みにわずかな青みが浮かび、首筋から肩、背へと流れる筋肉の線が鮮やかになる。草原馬としてはやや細身で、その代わり四肢はすらりと長く、尻から後肢へ続く筋肉は無駄なく引き締まっていた。
重い荷を載せて何日も歩かせるなら、もっと小柄で頑丈な馬の方が向いているだろう。だが、走らせるなら話は別だった。
サランは手を伸ばし、サルヒの首筋を軽く撫でた。陽に温められた青毛はさらりとして、その下で動くしなやかな筋肉が掌へ伝わってくる。
「今日は気持ちいい日だね」
声をかけると、サルヒの片耳がくるりと後ろへ向いた。返事なのか、単に声へ反応しただけなのかは分からないが、サランにはそれで十分だった。
「このまま何もなければ、夕方までには次のいい場所、見つけられそうだね」
また耳が動いたのを見て、サランは小さく笑う。
そうして前へ向き直ったところで、風に混じって低く途切れるざわめきが聞こえてきた。男たちの歓声と馬のいななき、さらに何頭もの蹄が大地を叩く音が遠雷のように草原を伝ってくる。
「ん?」
サランは腰を少し浮かせ、目を細めた。
進行方向から少し外れた場所に、白や灰色のゲルがいくつも並んでいる。周囲には家畜が放たれ、さらにその外側には大勢の人が集まっていた。その前を数頭の馬が全速力で駆け抜けていく。
「ああ、競走か」
草原では珍しいものではない。
季節の祭りや婚礼、近隣部族の集まり。あるいは若者たちが自分の馬と腕前を自慢したくなっただけでも、いつの間にか競走が始まる。
速い馬がいて、それに乗る者がいて、走れる草原があれば、それだけで十分だった。
「ちょっと見ていこうか」
サランが手綱をわずかに動かすと、サルヒは素直に歩調を速めた。向こうから響いてくるいななきや蹄音に刺激されたのかもしれない。
「見るだけだからね」
そう言ったものの、サルヒの耳は前を向いたままだった。
「……聞いてる?」
もちろん返事はなかった。
近づいてみると、どうやら近隣のいくつかの部族が集まっているらしい。衣服の刺繍や帯の巻き方、帽子の形、馬具の装飾まで少しずつ違っている。男たちは馬を囲んで品定めをし、女たちは乳製品や毛織物を並べ、子どもたちは大人たちの間を縫うように駆け回っていた。
どこかでは肉を焼いている。脂が炭へ落ちる香ばしい匂いに、家畜の毛や馬の体臭、焚き火の煙、踏み荒らされた乾いた土の匂いが混じっていた。
知らない部族、知らない顔ばかりだったが、人が集まり、家畜が鳴き、ゲルの間から煙が立ち上る光景には、サランが昔から知っている草原の暮らしがあり、胸の奥にわずかな懐かしさが湧いた。
ちょうど一組の競走が終わったところらしい。戻ってきた三頭のうち、先頭の騎手へ若者たちが駆け寄っている。
サランもその馬を眺めた。大柄ではないが脚の運びが軽く、走り終えた直後にしては呼吸の戻りも悪くない。
「へえ」
悪くない馬だ。
そう思いながら次へ視線を移そうとして――サランの目が止まった。
人だかりから少し外れた簡単な柵の中に、三頭の山羊がいる。
「…………」
普通の山羊より一回り大きく、がっしりした胴体を厚い毛が覆っている。角も太く、緩やかな弧を描きながら後方へ湾曲していた。
草原で古くから飼われている、家畜化された魔獣種だ。
野生種の荒々しさはとうに薄れ、人にもよく慣れている。それでも普通の山羊より寒暖差や粗食に強く、乳も毛も取れ、肉や皮も無駄にならない。移動生活を送る者にとってはありがたい家畜だった。
しかも状態がいい。
二頭は牝、一頭は牡。毛は草や土で多少汚れているものの、痩せてはおらず、脚にも目立った異常はない。
「……まさかね」
呟きながら、サランはいつの間にかサルヒをそちらへ進ませていた。
柵の近くにいた年配の男が顔を上げる。
「何だ、旅の娘か?」
「うん。ちょっと聞いていい?」
「なんだ?」
サランは迷わず柵を指した。
「あの三頭、何?」
「あれか? 賞品だ」
「賞品?」
「最後の競走のな。勝った奴が三頭とも持っていく」
サランは三頭を見つめた。
「……全部?」
「全部だ」
「三頭とも?」
「そう言ってるだろ」
「本当に?」
「嘘ついてどうする」
サランは返事をせず、腰の革袋へ無意識に触れた。
家畜魔獣が三頭もいれば、毛も乳も取れる。牝が二頭いて牡までいるなら、うまく増やせば数年後には小さな群れになる可能性もあった。
もちろん飼う手間は増える。水も草も必要で、病気にもなるし、狼や魔獣に襲われる危険もある。
それでも三頭をまとめて買うことを考えれば大きい。
革袋の中にある硬貨では、とても買えない。
だが、勝てば手に入る。
サランはゆっくりサルヒの首筋を撫でた。
「サルヒ。あれ、欲しくない?」
青毛の牝馬が鼻を鳴らす。
「だよね」
「……お前、馬と相談してるのか?」
「大事なことでしょ。走るのはこの子なんだから」
「そりゃそうだが……」
「私、出てもいい?」
男の表情が変わった。
「最後の競走にか?」
「うん」
「距離は長いぞ」
男が指した先には緩やかな丘が二つ重なり、そのさらに向こうに小さな赤い旗が見えていた。
「あの旗を回って戻る。行きは丘を二つ越える。帰りには窪地があるから気をつけろ。中央は朝方の水がまだ残ってる」
「なるほど」
サランは目を細め、丘の高さや傾斜、草の色、そして頬へ当たる風に意識を向けた。
丘の斜面を這い上がる流れ、草の穂先を揺らしながら低く抜ける流れ、人や馬へ当たり左右へ分かれていく小さな流れ。遠くの赤い旗のはためきまで意識すると、そこへ至る風の道筋がおぼろげに頭の中へ浮かんでくる。
幼い頃から教えられてきた。
風は見ようとするものではない。
感じるものだ。
「出る」
「即決か」
「三頭だよ? しかも牝二頭に牡一頭」
男は一瞬黙り、それから笑った。
「まあ、確かに出るだけの価値はあるかもな」
*
最後の競走が近づくにつれ、人々の熱気は高まっていった。それまでより距離が長く賞も大きいため、集まった七頭はいずれも自信のある馬なのだろう。
なかでも目を引いたのは、大きな黒鹿毛の牡馬だった。胸が厚く、後肢にはしっかり筋肉がついている。毛艶もよく、日頃から手をかけられているのが分かった。
「強そうだね」
サランが呟くと、サルヒの耳がぴくりと動く。
「別に、あんたが負けるって言ってないよ」
首筋を撫でると、陽に温められた青毛の下から体温が伝わってきた。競走の空気を感じ取っているのか、筋肉も少し張っている。
「まだだって」
そこへ声が飛んできた。
「おい」
先ほどの黒鹿毛に乗った青年が近づいてきていた。二十歳を少し過ぎたくらいで、日に焼けた顔に太い眉があり、馬上での姿勢にも慣れが見える。
「お前も出るのか?」
「うん」
サランは青年より先に馬を見た。近くで見てもやはりいい。脚に古傷らしい痕はあるが、歩様には影響していない。
「何見てる?」
「馬」
「俺じゃなくてか」
「なんであなたを見るの?」
青年が言葉に詰まり、近くの男たちが笑った。
「そりゃそうだ!」
「競うのは馬だからな!」
「うるせえ」
青年は仲間を睨んでから、サランへ向き直った。
「その牝馬で走るのか?」
「そうだけど」
「細いな」
「速いよ」
「言うじゃねえか」
「本当だもん」
青年の隣にいた男が、サルヒを上から下まで眺めた。
「どこの馬だ?」
「私の馬」
「そうじゃねえよ。血筋とか、部族とかだ」
「ああ」
そこでサランは少しだけ間を置いた。
胸の奥を、細い棘で引っかかれたような感覚が走る。
かつてなら何の迷いもなく答えられた。
父と母、祖父母がいて、同じ言葉を話し、同じ歌を知る人々がいた。夜になればゲルの外で馬が鳴き、焚き火の煙と煮込みの匂いが流れ、誰かが笑えば別の誰かが笑い返す。
風の読み方も、馬との付き合い方も、武器の扱いも狩猟も、全部そこで覚えた。
だが、魔獣の大群が草原を呑み込んだスタンピードによって、すべてが散った。
サランは無意識にサルヒの鬣へ指を滑らせた。
黒鹿毛の青年は何かを察したのか、それ以上は聞かなかった。しかし隣の男は、サランとサルヒを見比べながら口元を歪める。
「まあ、どこの誰でも構わねえけどよ。本当に走るのか? やめといた方がいいんじゃねえか?」
「なんで?」
「お前みたいなメスガキと、そんな細っこい牝馬で俺たちに勝てると思ってるのか?」
周囲から笑いが漏れた。
サランは怒るより先に呆れ、サルヒの首筋をゆっくり撫でる。
「気にしなくていいよ」
「馬に言ってんのか?」
「うん。私は別に気にしてないから」
「お前なあ……」
男が何か言い返す前に、サランは顔を上げてにこりと笑った。
「でもさ、そういうのは勝ってから言わないと、負けたとき恥ずかしいよ?」
一瞬の静寂のあと、大きな笑い声が弾けた。
「ははははっ!」
「言われたぞ!」
「牝馬に抜かれたら一生言われるぞ!」
「うるせえ!」
男の顔が赤くなる横で、黒鹿毛の青年まで肩を震わせている。
「お前、口が減らねえな」
「先に言ってきたのそっちでしょ」
「俺じゃねえ」
「じゃあ関係ないじゃん」
「……それもそうだな」
青年は笑いながら黒鹿毛の首を叩いた。
「だが俺も負けるつもりはねえぞ」
「私も」
サランは即答した。
*
七頭の馬がスタート地点に横一列に並んだ。
サランの意識は前方の草原とサルヒへ向いていた。乾いて少しざらついた手綱は掌によく馴染み、指先にわずかな汗が滲んでも滑らない。
風は斜め前から吹いている。
頬や首筋、衣服の裾、サルヒの鬣へ触れる風を拾いながら、前方の流れを読む。丘では上へ、向こう側では横へ、帰りの下りでは背後から吹く。
脚の間では、サルヒの身体が少しずつ硬くなっていた。走ることを理解し、前へ出たくて仕方がないのだろう。
「まだだよ。最初は我慢」
片耳がこちらへ向いた。
合図役の男が腕を上げ、七頭の馬が身構える。騎手たちの身体が前へ傾き、サランも腰を少し浮かせた。
胸の奥で心臓が速くなる。
怖くはなかった。
誰かに追われるためでも、獲物を追うためでも、危険から逃げるためでもなく、ただ純粋に速さを競うために走る。そのことが楽しかった。
男の腕が振り下ろされた。
「行け!」
七頭が一斉に飛び出した。
蹄が大地を叩き、乾いた土と草の切れ端が宙を舞う。サルヒも前へ出ようとするが、サランは追わせなかった。
他の馬が次々と先へ飛び出し、黒鹿毛も先頭集団へ入る。サルヒは五番手だった。
「まだ。長いんだから、じっくり行こうね」
サルヒが不満そうに鼻を鳴らす。
最初の丘が近づくにつれ、サランは前を走る馬の首の動きや脚の運び、騎手の姿勢を見ていた。先頭の一頭はすでに騎手が何度も脚を入れている。もう一頭も呼吸が早い。
飛ばしすぎだ。
隣を走っていた男が少し前へ出て、振り返った。先ほどサランを笑った男だった。
「どうした! もう終わりか!」
サランは答えず、その馬を見る。肩の上下が大きく、口元にはすでに泡が浮き始めていた。
「そっちこそ」
聞こえない程度に呟く。
丘へ入ると傾斜が強まり、前の馬の速度が落ち始めた。
サルヒにはまだ余裕がある。
「少し行こう」
脚を添えると、待っていたとばかりにサルヒが前へ伸びた。
五番手から四番手へ上がり、さらに前の馬との距離を縮める。騎手が気づいて振り返ったときにはすでに横へ並び、そのまま抜いて三番手へ出た。
丘の頂上を越えると、短い下りの先に二つ目の丘が見える。その向こうを走る先頭は、あの黒鹿毛だった。
青年の騎乗はやはり上手い。最初から飛ばしすぎず、丘へ入ってから速度を上げている。
「やるなあ」
サランは笑った。
二つ目の丘は上りが長い。前にいた一頭の脚が明らかに鈍り始めたため、サランは外側へ出す。
「行くよ」
サルヒが横へ並び、そのまま抜いた。
二番手。
前には黒鹿毛だけになった。
青年が後続を確認してサランと目を合わせ、一瞬驚いた顔をする。
サランは片手を少し上げた。
「よっ」
「お前……!」
青年は前へ向き直り、黒鹿毛の速度を上げた。
「だから、まだ早いって」
二つ目の丘を越え、赤い旗が近づいてくる。
黒鹿毛が先に旗を回った。青年は速度を落としすぎず、きれいな弧を描いている。
「サルヒ、回るよ」
サランは腰をずらし、手綱を引きすぎないよう進入する。サルヒは身体を内側へ傾けながら地面を蹴り、旗の周囲を滑らかに回り込んだ。
ここから帰りだ。
長い下りの先で風の向きが変わっている。
予想どおり、帰りは背後から吹く。
もちろん黒鹿毛にも同じ風が吹く。それでもサランの口元には笑みが浮かんだ。
「そろそろ行こうか」
手綱を少し緩める。
サルヒの身体が沈み、次の瞬間には一気に加速していた。
速度を増した身体を空気が撫で、青毛の鬣とサランの髪が後ろへ流れる。身体を低く保ったまま、サランはサルヒの動きに合わせた。
前を行く黒鹿毛との差が急速に縮まっていく。
青年が振り返り、その顔から余裕が消えた。
「おい!」
何に対する声なのか分からない。
サランは答えず、サルヒの動きだけを見ていた。下りだからと無理に追わず、馬自身に走らせる。地面の硬さも足を置く場所も、最終的に感じ取るのはサルヒなのだから、サランがするのはその動きを邪魔せず進む方向を伝えることだけだった。
やがて黒鹿毛へ追いつき、二頭が並んだ。
「本当に速えな!」
「言ったでしょ!」
蹄音が重なり、大地が震える。
サランの脚にはサルヒの体温が熱いほど伝わっていた。首筋には汗が浮かび、風の中でも馬の濃い匂いが鼻へ届く。
前方には窪地がある。
中央だけ草の色が違い、湿った土の匂いも強い。風は窪地の縁を舐めるように流れていた。
左側の草は乾いている。
黒鹿毛は直進する。
サランは一瞬で判断した。
「サルヒ、左」
腰と手綱でわずかに進路を変える。距離だけなら遠回りだが、窪地の縁は乾いていた。
黒鹿毛が中央へ入った途端、蹄が柔らかな土へ沈んで泥が跳ね、わずかに速度が落ちる。
競走では、そのわずかで十分だった。
サルヒが外側から前へ出た。
「なっ!」
青年の声が後ろへ流れる。
前が開き、草原だけが広がった。
サルヒの呼吸はさすがに荒くなり、首も大きく動いている。それでも脚はまだ伸びていた。
遠くに人々の姿が見え、歓声も聞こえてくる。こちらが近づくにつれ、先頭が誰なのか分かったのだろう。ざわめきは一気に大きくなった。
「サルヒ、あと少し」
サランは首筋へ身体を近づけた。
汗の匂いが濃く、青毛はしっとり濡れて深い黒へ変わっている。後ろからは青年の黒鹿毛の蹄音が迫っていたが、サランは振り返らなかった。
二本の槍が見える。
あそこが終点だ。
「行け!」
初めて強く声を上げる。
サルヒは残っていた力を吐き出すように身体を前へ伸ばし、風が耳元で唸った。
二本の槍の間を、青毛の牝馬が先頭で駆け抜けた。
ほんの少し遅れて黒鹿毛が続き、その後ろから他の馬たちも入ってくる。
サランは急には止めず、声をかけながら少しずつ速度を落とした。
「よし、よし……もういいよ」
全力疾走から駆け足、速歩へと落とし、最後は呼吸を整えさせるようにゆっくり歩かせる。
サルヒの首筋から肩には汗が浮かび、濡れた青毛は黒曜石のような艶を帯びていた。サラン自身も頬が熱く、心臓が強く打っている。
それでも笑いが込み上げてくる。
「勝ったよ、サルヒ」
首へ腕を回すようにして撫でると、牝馬が大きく鼻を鳴らした。
「偉い。ほんとに偉い」
人だかりへ戻ると、さっきまでとは明らかに空気が違っていた。
細身の牝馬と、旅の少女。
笑っていた男たちの馬を、その一頭がすべて抜いた。
黒鹿毛の青年も戻ってきて、十分に馬を歩かせながらサランの近くまで来た。
「……負けた」
「うん」
「少しくらい遠慮しろよ」
「……じゃあ、惜しかったね?」
「……それも腹立つな」
サランは吹き出し、青年も苦笑した。
そしてサランは、最初に「メスガキと牝馬」と笑った男へ視線を送る。
目が合った。
何も言わず、ただにこりと笑う。
「…………」
男は目を逸らした。
それで十分だった。
何より今のサランには、もっと大事なものがある。
「山羊」
全部、自分のものだ。
先ほどの年配の男が近づいてきた。
「見事だったな」
「ありがとう」
「約束どおり、三頭ともお前のものだ」
競走に勝ったとき以上にサランの顔が明るくなる。
馬から降りると、長く走った直後のためか、地面に立っているのにまだ馬上で揺れているような妙な感覚が脚に残っていた。
サランはサルヒの手綱を持ち、柵へ向かう。
三頭の山羊がこちらを見ていた。
「これからよろしくね」
一頭の牝が警戒して少し後ろへ下がったため、サランは無理に触ろうとはしなかった。家畜化されているとはいえ魔獣種であり、あの太い角で突かれれば痛いでは済まない。
後ろでサルヒが鼻を鳴らした。
「何?」
牝馬は山羊の方を見ている。
「あなたが勝ったんだから、あなたの山羊でもあるよ。だから喧嘩しちゃ駄目だからね」
周囲から笑い声が上がり、サランも笑った。
草原の上を、また風が渡っていく。
競走で汗をかいた頬には、その風が心地よかった。ゲルの間を抜け、人々の衣服や馬の鬣、三頭の山羊の厚い毛を揺らしながら、遥かな草原へ流れていく。
サランはその行方を目で追わなかった。
目で見なくても、風がどこから来て、どこへ向かっているのかは分かる。
サルヒの額へ手を置き、その熱を確かめながらゆっくり撫でた。
「テムルも喜んでくれるかな」
サルヒの耳が前を向き、風が彼女たちの背中を追うように草原を渡っていく中、サランは頬にその流れを感じながら、機嫌よく歩いていった。




