少しずつ変わる
部屋の中は、静かだった。
さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、何もかもが落ち着いている。
割れた小瓶の処理も終わり、窓も閉められた。
それでも――
(まだ、少しだけ匂いが残ってる……)
かすかな刺激に、リゼはそっと息を整える。
けれど、さっきほど苦しくはない。
理由は、わかっていた。
すぐ近くにいる存在。
その気配が、他のすべてを薄めてくれる。
「……座れ」
低い声が落ちてくる。
ノクスはいつも通りの調子に戻っていた。
けれど、さっきの出来事の余韻が、まだどこかに残っている。
「は、はい」
言われた通り椅子に腰を下ろす。
場所は変わらない。
すぐ隣。
手を伸ばせば届く距離。
(……近いまま)
さっき抱き寄せられた感覚が、まだ少しだけ残っている気がする。
触れていたはずの場所が、じんわりと熱い。
「……怖かったか」
不意に、ノクスが言った。
視線は書類に向けられたまま。
それでも、その言葉は確かにリゼに向けられている。
「……少しだけ」
正直に答える。
怖くなかったわけじゃない。
でも。
「でも……」
言葉を探す。
うまく説明できない。
けれど、どうしても伝えたくて。
「ノクス様が、いたので……」
そこまで言って、口をつぐむ。
顔が熱い。
こんなの、ほとんど――
でも。
「……そうか」
返ってきたのは、いつもと同じ短い言葉だった。
けれど。
ほんのわずかに、声がやわらいだ気がした。
沈黙が落ちる。
気まずいわけじゃない。
むしろ、その逆で。
(落ち着く……)
静かな空間。
近くにある気配。
それだけで、心がゆっくりと整っていく。
そのとき。
コト、と小さな音がした。
視線を向けると、目の前にカップが置かれていた。
「飲め」
「え……?」
ノクスが、こちらを見ずに言う。
「少しは落ち着く」
差し出されたのは、温かいお茶だった。
さっきのことがあったばかりで、一瞬だけためらう。
でも。
(……この人が出したものなら)
なぜか、疑う気にはならなかった。
「……いただきます」
そっと口をつける。
やわらかい香りが広がる。
刺激はない。
むしろ、落ち着く。
「……おいしいです」
ぽつりとこぼれる。
すると。
「そうか」
ほんの少しだけ間を置いて、返事が返ってきた。
それだけなのに。
なぜか、胸があたたかくなる。
カップを持つ手に、じんわりと熱が移る。
そのとき。
「……リゼ」
名前を呼ばれた。
静かな声。
さっきよりも、ずっと近い。
「は、はい」
「しばらくはここで休め」
「……え?」
思わず顔を上げる。
「他の場所は安全が確認できていない」
淡々とした説明。
でも、その言葉の意味は明確だった。
(ここで……?)
つまり。
この部屋で。
ノクスと――
同じ空間で、夜を過ごす。
「……あの」
言葉に詰まる。
緊張と戸惑いが一気に押し寄せる。
けれど。
「問題あるか」
静かな問い。
逃げ道を与えるようでいて、逃がさない声。
「い、いえ……」
小さく首を振る。
本当は、少しだけ怖い。
でも。
(……離れたくない)
そう思ってしまった時点で、答えは決まっていた。
「……ここに、います」
「そうか」
短い返事。
それで会話は終わる。
けれど。
そのあと、ノクスは何も言わずに、ほんの少しだけ椅子を引いた。
距離が、わずかに近づく。
気のせいかもしれない。
でも。
(……近くなった)
そう感じてしまうくらいには、意識している。
静かな夜。
灯りはやわらかく揺れている。
すぐ隣にいる存在。
その気配が、やけに鮮明に感じる。
何も起こらない。
ただ、同じ時間を過ごしているだけ。
それなのに。
胸の奥が、ずっと落ち着かない。
(……どうして)
答えは、もうわかっている気がする。
でも、まだ言葉にはできない。
ただひとつ、確かなのは――
この距離が。
この時間が。
少しずつ、特別なものに変わっているということだった。




