心臓に悪い朝
目が覚めたとき、最初に感じたのは――静けさだった。
ゆっくりと意識が浮かび上がる。
柔らかな光が、まぶたの向こうに差し込んでいる。
(……朝?)
ぼんやりとしたまま、リゼは小さく身じろぎした。
その瞬間。
ふわりと、あの匂いが届く。
澄んだ空気みたいな、落ち着く香り。
(……あれ)
違和感に気づく。
この匂いは、いつもより近い。
かなり――近い。
ゆっくりと目を開ける。
視界に入ったのは、見慣れない天井。
そして。
「…………」
すぐ隣に、ノクスがいた。
(え)
一瞬、思考が止まる。
距離が近い。
近すぎる。
腕一本分も離れていない。
同じソファの上。
いつの間にか、横になっていたらしい。
(な、なんで……!?)
記憶を辿る。
昨夜、ここで休むように言われて。
少しだけ座って――
(そのまま、寝ちゃった……?)
つまり。
この状況は――
ノクスと同じ場所で、一晩。
しかも、こんな距離で。
(む、無理……!)
顔が一気に熱くなる。
逃げたい。
でも、動いたら起きてしまいそうで動けない。
どうしようもなくて、息をひそめる。
そのとき。
「……起きたか」
低い声が、すぐ近くで響いた。
「っ……!」
びくりと体が跳ねる。
目が合った。
至近距離。
逃げ場がない。
「お、おはようございます……!」
反射的に言ってしまう。
声が少し裏返った。
「……ああ」
ノクスはいつも通りの無表情で答える。
けれど、その視線がわずかにこちらを捉えたまま動かない。
(近い……)
改めて意識すると、心臓がうるさくなる。
視線を逸らそうとするのに、うまくできない。
「……離れるか」
ぽつりと落ちる声。
「え……?」
「この距離が嫌なら」
相変わらず、淡々としている。
でも、その言葉は――
(また、選ばせる……)
昨夜と同じ。
逃げ道を与えているようで、試されているような。
「い、嫌じゃ……」
思わず言いかけて、慌てて止まる。
でも、もう遅い。
ノクスの視線が、ほんのわずかに深くなる。
「……嫌じゃ、ないです」
小さく言い直す。
顔が熱い。
こんなの、完全に――
でも。
嘘はつけなかった。
「……そうか」
返ってきたのは、それだけ。
けれど。
ほんのわずかに、距離がそのまま保たれる。
離れない。
そのまま。
(近いまま……)
心臓が、また速くなる。
そのとき。
ノクスが、ゆっくりと体を起こした。
距離が少しだけ離れる。
ほっとしたような、寂しいような、不思議な感覚。
「顔色は悪くないな」
「え……?」
「体調の確認だ」
簡潔な説明。
けれど、その言葉に少し驚く。
(……見てた?)
そんなふうに思ってしまうくらいには、自然だった。
「だ、大丈夫です」
「そうか」
短いやり取り。
でも、そのあと。
ほんの一瞬だけ。
ノクスの視線が、こちらに残った気がした。
何かを確かめるように。
それから、何も言わずに立ち上がる。
いつも通りの動き。
いつも通りの距離。
なのに。
(……さっきまで、あんなに近かったのに)
その差が、やけに大きく感じる。
胸の奥が、少しだけざわつく。
そのとき。
「リゼ」
「っ、はい!」
名前を呼ばれて、反射的に顔を上げる。
「支度をしろ」
いつも通りの命令。
けれど、そのあとに続いた言葉が――
「今日は、俺と行動する」
少しだけ違って聞こえた。
「え……?」
「一人で動くな」
簡潔な説明。
でも、それはつまり。
(……ずっと一緒?)
理解した瞬間、胸が大きく跳ねる。
「……はい」
小さく頷く。
怖さも、少しだけある。
でも、それ以上に。
嬉しいと思ってしまう自分がいる。
ノクスはそれ以上何も言わず、いつも通り部屋を出ていく。
その背中を見送りながら。
(……どうしよう)
胸に手を当てる。
鼓動が、まだ落ち着かない。
理由は、もうわかっている。
でも。
(これって……)
まだ、言葉にはできない。
それでも――
確実に。
何かが変わり始めていた。




