優しい命令
違和感に気づいたのは、本当に一瞬だった。
夜の静けさの中。
ノクスの執務室で書類を整理していたとき。
ふと――
(……違う)
空気の中に、かすかな“異物”が混ざった。
ほんのわずか。
気のせいと言われれば、それまでのレベル。
でも。
(これ……さっきの、毒と似てる……)
心臓が強く跳ねる。
ゆっくりと顔を上げると、ノクスも手を止めていた。
「……どうした」
低い声。
いつも通りのはずなのに、その奥にわずかな警戒が混じっている。
「……匂いが、します」
小さく答える。
「さっきと似た……でも、もっと薄いです」
言いながら、周囲に意識を向ける。
場所を探る。
どこから来ているのか。
すると――
窓の方から、かすかに流れ込んでいることに気づいた。
「外、です……!」
その瞬間だった。
カタン、と小さな音。
次の瞬間には、ノクスが立ち上がっていた。
「下がれ、リゼ」
鋭い声。
いつもより低く、強い。
反射的に体が動く。
その直後――
窓が勢いよく開いた。
冷たい夜風と一緒に、何かが投げ込まれる。
「っ……!」
反応するより早く、腕を引かれた。
ぐい、と強く。
体が引き寄せられる。
次の瞬間。
――床に、何かが弾けた。
ぱん、と乾いた音。
白い煙のようなものが一気に広がる。
「触れるな」
耳元で、低い声。
気づけば、背中に腕が回されていた。
完全に、囲われている。
(近い……!)
さっきまでとは違う。
もっと強く、逃がさないように。
それでも――
怖くない。
むしろ。
(……落ち着く)
混乱する頭の中で、そんなことを思ってしまう。
「ここで待ってろ」
「は、はい……!」
言われるままに動かずいる。
ノクスが警戒しながら投げ込まれて粉々になった小瓶を手際よく片付ける。
やがて、ノクスの声が低く響いた。
「……もういい」
煙はすでに薄れ、ノクスが小瓶の破片を片付けたから部屋は元の状態にもどったが、そこからあの嫌な匂いが立ちのぼっている。
「外から……」
「ああ」
ノクスは短く答える。
その表情は、いつもよりもわずかに鋭い。
「狙われているな」
静かな断定。
その言葉に、背筋が冷たくなる。
「……私、ですか……?」
思わず聞いてしまう。
自分が原因なのではないかと、不安がよぎる。
けれど。
「違う」
即答だった。
「お前は“鍵”だ」
「え……?」
「だから狙われる」
淡々とした説明。
でも、その意味は重い。
必要とされている。
同時に、危険でもある。
怖い。
そう思うはずなのに。
そのとき、ふと気づく。
――まだ、腕が離れていない。
「あ、あの……」
小さく声をかける。
すると、ノクスは一瞬だけ動きを止めた。
それから、ゆっくりと腕を離す。
「……悪い」
短い一言。
でも。
(……離れた)
ほんの少しだけ、物足りなさを感じてしまう自分に驚く。
「怪我は」
「な、ないです……」
「そうか」
それだけ確認すると、彼はすぐに窓へ向かう。
外を確認し、すぐに閉める。
そして――
「リゼ」
振り返る。
名前を呼ばれる。
さっきよりも、少しだけ強い声。
「今夜はここにいろ」
「……え?」
「一人で動くな」
それは命令だった。
でも。
「俺のそばを離れるな」
続いたその一言は――
どこか、違って聞こえた。
(……守られてる)
さっきよりも、はっきりと。
そう感じる。
「……はい」
小さく頷く。
怖さは消えない。
でも、それ以上に。
この人のそばにいれば大丈夫だと、思ってしまう。
それが、どうしようもなく――
嬉しかった。




