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近すぎる距離

夜は、城の匂いが変わる。


 昼間は人の気配や香水で満ちていた空気が、ゆっくりと静かに沈んでいく。


 その中で、ノクスの執務室だけは変わらない。


 澄んだ、落ち着く空気。


(……やっぱり、ここが一番楽)


 リゼは小さく息を吐き、手元の書類に視線を落とした。


 夜になっても仕事は終わらない。

 けれど、不思議と苦ではなかった。


「……まだ残っているのか」


 低い声が落ちてくる。


 顔を上げると、机の向こうでノクスがこちらを見ていた。


「は、はい……もう少しで終わります」


「そうか」


 短い返事。


 それだけで会話は終わるはずだったのに――


「こっちに来い」


「え……?」


 思わず聞き返す。


「灯りが足りていない」


 言われて初めて気づく。


 部屋の隅は少し暗い。


「ここでやれ」


 示されたのは、ノクスの机のすぐ横。


 ほとんど、隣と言っていい距離だった。


「……でも」


「問題あるか」


「いえ……」


 首を振るしかない。


 言われるままに椅子を持っていき、そっと腰を下ろす。


 距離が、近い。


 ほんの少し手を伸ばせば触れてしまいそうなほど。


(……近すぎる)


 心臓が落ち着かない。


 なのに。


 息は、楽だった。


 むしろさっきよりも、ずっと。


「集中しろ」


 ぽつりと落ちる声。


「……はい」


 慌てて書類に視線を戻す。


 けれど、どうしても意識が隣に向いてしまう。


 ペンの音。紙の音。

 それだけなのに、やけに鮮明に感じる。


 静かな時間。


 でも、その静けさが心地いい。


(変なの……)


 こんなに誰かの近くにいて、安心するなんて。


 今までなかったのに。


 そのとき。


 ふ、とノクスの手が止まった。


「……リゼ」


「っ、はい!」


 突然名前を呼ばれて、びくりと肩が揺れる。


 横を見ると、すぐ近くで視線が合った。


「それは違う」


「え……?」


「その書類、分類が逆だ」


「あ……!」


 慌てて見直すと、確かに間違えている。


「す、すみません……!」


「構わない」


 そう言って、彼は自然な動きで書類を取り上げる。


 指先が触れる。


 今度は、少しだけ。


 さっきよりも驚かなかった。


(……慣れてきてる)


 自分でもわかる変化に、戸惑う。


 でも、嫌じゃない。


「こうだ」


 すぐ隣で、書類を並べ替えていく。


 距離がさらに近づく。


 肩が触れそうになる。


 ほんの少し動けば、当たってしまう。


 それでも、ノクスは気にした様子もない。


 いつも通りの無表情。


 なのに。


(近いの、私だけ気にしてる……?)


 そう思った瞬間、少しだけ悔しくなる。


「……リゼ」


 また名前を呼ばれる。


「はい」


「手が止まっている」


「あ……」


 いつの間にか作業が止まっていた。


「集中しろ」


「……はい」


 小さく返事をして、再び手を動かす。


 けれど。


 さっきよりも、胸がうるさい。


 静かな部屋の中で、自分の鼓動だけがやけに大きく感じる。


 そのとき。


 不意に、肩に何かが触れた。


「っ……!」


 びくりと体が跳ねる。


 横を見ると、ノクスの腕がすぐそこにあった。


 書類を取るために伸ばしただけ。


 ただ、それだけなのに。


「……騒がしいな」


「す、すみません……!」


 思わず謝る。


 けれど。


「……嫌か」


 ぽつりと落ちた言葉に、息が止まる。


「え……?」


「近いのが」


 相変わらず表情は変わらない。


 でも、その問いは――


(……ずるい)


 そんなふうに思ってしまうくらいには、静かで。


「い、いえ……!」


 思わず、少し強く首を振る。


「嫌じゃ、ないです……」


 言ったあとで、顔が熱くなる。


 何を言っているんだろう。


 こんなの、ほとんど――


 でも。


「……そうか」


 返ってきたのは、それだけだった。


 いつもと同じ、短い言葉。


 なのに。


 ほんのわずかに、空気がやわらいだ気がした。


 そのあと、ノクスは何も言わずに作業へ戻る。


 距離も、そのまま。


 離れようとしない。


 まるで、それが当たり前みたいに。


(……近いまま)


 胸の奥が、じんわりと熱くなる。


 この距離は、本当は危ないはずなのに。


 なのに。


(もう少しだけ……)


 そんなことを思ってしまう。


 静かな夜。


 誰もいない部屋。


 近すぎる距離。


 それでも――


 この時間が、嫌じゃないと思ってしまった時点で。


 きっともう、戻れない。

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