不思議な安心感
カリ、という紙の擦れる音だけが、部屋に響いていた。
ノクスの執務室に来るようになってから、数日が経った。
最初は緊張でまともに息もできなかったのに、今では――
(……落ち着く)
手元の書類を揃えながら、そっと息を吐く。
この部屋は、他の場所と違って匂いが混ざらない。
そして何より――
すぐ近くにいる人の気配が、心地いい。
ふと視線を上げると、机に向かうノクスの横顔が見えた。
無駄のない動きでペンを走らせるその姿は、相変わらず隙がない。
近寄りがたいはずなのに。
どうしてか、目が離せなくなる。
「……何だ」
不意に、声が落ちてきた。
「えっ、あ……!」
慌てて視線を逸らす。
「な、なんでもありません……!」
「そうか」
それ以上は追及されない。
けれど、ほんの一瞬だけ視線がこちらに向けられていた気がして、胸がざわつく。
(見られてた……)
恥ずかしさと、少しの緊張。
それなのに、嫌じゃないと思ってしまう自分がいる。
そのとき。
棚の上に積まれた書類が目に入った。
少し高い位置にあって、手を伸ばしても届かない。
(あれ、取らないと……)
椅子から立ち上がり、背伸びをする。
あと少し、というところで――
「動くな」
低い声が、すぐ後ろから聞こえた。
次の瞬間。
頭の上を越えるように、腕が伸びる。
すぐ近くに、ノクスの気配。
距離が、一気に縮まる。
(ち、近い……!)
息がかかるほどではないのに、体温が伝わってくるような距離。
それでも、苦しくない。
むしろ――
さっきよりも、呼吸が楽になる。
カタン、と軽い音を立てて書類が取られる。
「無理をするな」
すぐ後ろから落ちる声。
「……すみません」
「謝る必要はない」
振り返ると、すぐ目の前に彼がいた。
思った以上に近くて、思わず息を呑む。
視線が合う。
何も言わないのに、逃げられない。
「……リゼ」
名前を呼ばれた。
それだけで、胸が強く跳ねる。
いつもより、少しだけ声が低くて――やわらかい気がした。
「は、はい……」
「届かないものは言え」
淡々とした言葉。
でも、それは――
(気にかけてくれてる……)
そう思ってしまう響きだった。
「……はい」
小さく頷く。
まだ少し近い距離のまま、視線を逸らせなくなる。
心臓の音がうるさい。
でも、不思議と逃げたいとは思わなかった。
そのとき、扉がノックされる。
「ノクス様、失礼いたします」
別の給仕の声だった。
「入れ」
短い許可。
扉が開いた瞬間、ふわりと別の匂いが流れ込んでくる。
「っ……」
思わず、息を止める。
強い香水の匂い。
頭がくらくらする。
さっきまで平気だったのに、一気に苦しくなる。
「どうぞ、本日の――」
言いかけたその声が、途中で止まった。
理由はすぐにわかった。
――ノクスが、一歩前に出たから。
私とその給仕の間に、自然に入る形で。
「用件は」
低い声。
感情の読めない表情。
でも、はっきりと距離を遮っている。
「あ……し、書類を……」
「置いていけ」
それだけで、会話は終わった。
給仕はどこか戸惑った様子のまま書類を置き、すぐに部屋を出ていく。
扉が閉まった瞬間。
さっきまでのきつい匂いが、嘘みたいに薄れた。
「……大丈夫か」
振り返りもせずに、ノクスが言う。
「は、はい……」
少し遅れて答える。
本当は、まだ少しだけ苦しい。
でも――
彼のそばにいると、少しずつ落ち着いてくる。
「……そうか」
短い返事。
それから、ほんのわずかにだけ。
距離が、近づいた気がした。
意識してなのか、無意識なのかはわからない。
でも――
(守られてる……)
そう感じてしまうくらいには、近くて。
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
この人のそばは、危ないはずなのに。
どうしてこんなに、安心してしまうんだろう。
答えなんてまだわからない。
それでも――
少しだけ。
この距離が、好きだと思ってしまった。




