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笑顔の裏


 青年貴族の姿が消えたあとも、リゼはしばらく窓の外を見つめていた。


「……消えました。」


 呟くと、隣に立ったノクスが静かに頷く。


「ああ。」


「見間違いじゃありません。」


「わかっている。」


 迷いのない返事だった。


 ノクスはリゼの肩にそっと手を置く。


「お前が見たものを疑うつもりはない。」


 その言葉に、リゼは少しだけ安心する。


 けれど。


「問題は、あいつをどうやって追い詰めるかだ。」


 ノクスの表情は険しかった。


 青年貴族が怪しい。


 それだけでは、捕らえることはできない。


 毒を入れた瞬間を見たわけでもない。


 物置にあった箱を運んだ証拠もない。


 そして何より――。


「貴族という身分がある。」


 ノクスが低く呟く。


「簡単には手を出せない。」


 リゼは唇を噛んだ。


「でも……あの人が犯人なんですよね?」


「可能性は高い。」


「なら……。」


「だからこそ慎重に動く。」


 ノクスはリゼを見る。


「証拠がないまま問い詰めれば、証拠を消される。」


 その言葉に、リゼははっとした。


「……逃げられる。」


「ああ。」


 ノクスは頷く。


「それだけじゃない。」


 声が少し低くなる。


「こちらが動いていることを知られれば、次は別の手を使ってくる。」


 リゼの背筋に冷たいものが走った。


 その時。


「その通りです。」


 後ろから声がした。


 振り返ると、王子が立っていた。


「殿下。」


 ノクスが頭を下げる。


 王子は青年の方へ視線を向けた。


「話は聞いた。」


 青年は慌てて跪く。


「申し訳ありません……!」


「顔を上げて。」


 王子の声は穏やかだった。


「君が誰かに脅されていたことは理解している。」


「……。」


「だが、これ以上何かを隠せば、君自身を守ることができなくなる。」


 青年はしばらく黙っていた。


 やがて、小さく頷く。


「……はい。」


◇ ◇ ◇


 その日の夕方。


 城では、何事もなかったかのように通常の業務が再開されていた。


 貴族たちも帰り、祝賀会の騒ぎも落ち着いている。


 けれど。


 リゼの心は落ち着かなかった。


(あの人……。)


 頭から離れない。


 優しい笑顔。


 丁寧な言葉遣い。


 けれど、その奥にあるもの。


 あの冷たい目。


 リゼは給仕室で食器を片づけながら、考え込んでいた。


「リゼ。」


 同僚の声で我に返る。


「はい?」


「さっきから同じ皿をずっと磨いてるよ。」


「えっ?」


 見ると、手にしている皿はすでにぴかぴかだった。


「あ……。」


 思わず頬が熱くなる。


「何か心配事?」


「少し……。」


 同僚はそれ以上聞かなかった。


 ただ、優しく笑ってくれた。


「いつでも相談にのるからね。」


「ありがとうございます。」


 その言葉に微笑み返した時だった。


 ふわり。


 風が入り込む。


「……!」


 リゼの手が止まった。


 まただ。


 あの匂い。


 薬草。


 金属。


 甘い香り。


 でも。


 今度は少し違う。


(……前より強い。)


 匂いのする方向へ顔を向ける。


 給仕室の扉。


 その向こうからだ。


 リゼはゆっくり扉を開けた。


 廊下には誰もいない。


 けれど、床に小さな紙片が落ちていた。


「……?」


 拾い上げる。


 何も書かれていない。


 ただ、紙から微かな匂いがする。


 リゼは眉を寄せた。


(この匂い……。)


 紙そのものから漂っている。


 そして。


 紙の端には、小さな紋章が刻まれていた。


 蛇が剣に巻きついている。


「……っ。」


 心臓が大きく跳ねた。


 偶然ではない。


 これは――。


 誰かが、自分に向けて残したもの。


 その瞬間。


「リゼ!」


 遠くからノクスの声が響いた。


「ノクス……!」


 リゼは紙を握りしめる。


 ノクスが駆け寄ってくる。


「どうした?」


「これ……。」


 紙を見せる。


 ノクスの顔から表情が消えた。


「……触ったのか。」


「はい。」


「他には?」


「ありません。」


 ノクスは紙を慎重に受け取った。


「これは誰にも見せるな。」


「……はい。」


 その声には、今までにない緊張があった。


「リゼ。」


「はい?」


 ノクスが真剣な目で見つめる。


「しばらく、一人になるな。」


「……え?」


「犯人は、お前が毒に気づいたことを知っている。」


 リゼの顔が強張る。


「つまり……。」


「ああ。」


 ノクスは紙を握りしめる。


「次に狙われるのは、殿下とは限らない。」


 リゼの胸が大きく鳴った。


 怖い。


 でも。


 ノクスがすぐそばにいる。


 そう思った瞬間。


「大丈夫だ。」


 ノクスがそっと手を握る。


「俺がお前を守る。」


 その言葉に、リゼは小さく頷いた。


「……はい。」


 けれど二人はまだ知らなかった。


 この紙が。


 犯人からの警告なのか。


 それとも――。


 二人を罠へ誘い込むための、最初の一手なのか。


 そして城のどこかでは。


 あの青年貴族が、静かに笑っていた。


「気づいてくれてよかった。」


 手の中には、同じ紋章が刻まれた紙が一枚。


「次は、君の番だよ。」


 月明かりの下。


 その笑顔だけが、不気味なほど穏やかだった。

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