追いつめた影
廊下を駆ける足音が、静かな王宮に響いていた。
「待て!」
ノクスの声が飛ぶ。
しかし、黒い影は振り返らない。
角を曲がり、階段を駆け下りていく。
「ノクス、あっちです!」
リゼが指差した。
階段の先には、使用人たちが使う細い通路がある。
ノクスは迷わずそちらへ向かった。
リゼも必死に後を追う。
「無理をするな!」
「大丈夫です!」
息を切らしながら答える。
そして。
曲がり角の先で、黒い影が突然立ち止まった。
「……!」
行き止まりだった。
青年は逃げ場を失い、壁際に追い詰められる。
ノクスがゆっくりと近づいた。
「動くな。」
低く、冷たい声。
青年の肩がびくりと震えた。
「……ち、違う!」
「何が違う。」
「俺は何もしてない!」
青年は両手を上げる。
まだ若い。
騎士でも貴族でもない。
服装から見て、城で働く下働きのようだった。
リゼは彼を見つめる。
そして。
「……この匂い。」
青年の服から、あの匂いがした。
薬草。
濡れた鉄。
そして、かすかな甘さ。
「あなたも、この匂いを……。」
「違う!」
青年が叫ぶ。
その反応に、ノクスの目が鋭くなる。
「何を知っている。」
「何も……!」
「なら、なぜ逃げた?」
「……。」
青年は答えられない。
ノクスが一歩近づく。
「逃げる理由がないなら、話せ。」
「……。」
青年は唇を噛んだ。
その手が小さく震えている。
リゼは気づいた。
この人は怖がっている。
自分たちをではない。
別の誰かを。
「ノクス。」
小さく声をかける。
「この人……怯えています。」
「わかっている。」
ノクスは視線を逸らさない。
「だからこそ、話してもらう必要がある。」
青年はしばらく黙っていた。
やがて。
「……俺は、命令されたんです。」
消え入りそうな声だった。
「誰に?」
青年は顔を上げる。
そして、周囲を確認するように何度も視線を動かした。
「……名前は、知らない。」
「嘘だな。」
「本当だ!」
青年は必死に首を振った。
「顔も見てない。いつも人目につかない場所で、手紙を渡されて……。」
「何を頼まれた?」
「物を運ぶだけだった。」
ノクスの表情が険しくなる。
「何を?」
「……箱です。」
「どこへ?」
「大広間の裏にある物置へ。」
リゼが息をのむ。
さっき見つけた扉。
そこにつながっている。
「その箱の中には何が?」
「わからない。」
青年は首を横に振る。
「でも、一度だけ……。」
言葉を止める。
「何だ。」
「箱を置いた時に、少しだけ中身が見えた。」
青年の顔が青ざめる。
「黒い瓶でした。」
リゼの胸がざわつく。
「瓶には何か書いてあった?」
「……紋章が。」
「紋章?」
「ああ。」
青年は震える手で、自分の胸元を指した。
「蛇が、剣に巻きついている紋章だった。」
ノクスの表情が変わる。
「それを見たことがある。」
「本当ですか?」
リゼが尋ねる。
「ああ。」
ノクスは短く答えた。
「王都の貴族の中に、その紋章を使う家が一つある。」
リゼの脳裏に、あの青年貴族の姿が浮かぶ。
金色の髪。
穏やかな笑顔。
そして――。
あの匂い。
「……あの人。」
思わず呟いた。
「リゼ?」
「以前、私に話しかけてきた貴族の方……。」
ノクスが静かに振り返る。
「何か思い出したのか。」
「はい。」
リゼはゆっくり頷いた。
「あの人の匂いと、この人の服についている匂いが同じです。」
ノクスの目が細くなる。
「……決まりだな。」
青年が怯えた声を上げる。
「待ってください!」
二人が振り返る。
「俺を捕まえないでください!」
「なぜだ。」
「家族が……。」
青年の声が震える。
「俺が話したら、家族が殺される。」
リゼの胸が痛んだ。
この青年もまた、誰かに利用されている。
ノクスはしばらく黙っていた。
そして。
「お前を罪人として扱うつもりはない。」
「……え?」
「ただし、知っていることは全て話してもらう。」
青年は戸惑いながらノクスを見る。
「その代わり、家族は俺たちが守る。」
「……本当に?」
「ああ。」
迷いのない声。
青年の目に、涙が浮かんだ。
「……ありがとうございます。」
その時。
リゼの鼻先を、ふわりと風が撫でた。
「……!」
あの匂い。
今度はもっと強い。
リゼは反射的に振り返った。
誰もいない廊下。
けれど。
窓が少しだけ開いている。
「ノクス……。」
「どうした?」
「この匂い……。」
リゼは窓へ駆け寄った。
外を見る。
遠くの庭園。
その向こうに、誰かが立っている。
金色の髪が、風に揺れた。
「……あの人です。」
リゼが呟く。
次の瞬間。
その人物は、こちらを見た。
目が合った。
そして。
にっこりと笑った。
まるで――。
すべてを知っているかのように。
「ノクス……!」
リゼが振り返る。
しかし。
もう、その姿は消えていた。
残されたのは、窓から入り込む冷たい風と。
微かに漂う、あの甘い香りだけだった。




