違和感の正体
ノクスが護衛の任務から帰って来たのも束の間、王子の婚約が正式に発表され、城の中は祝賀会の準備で慌ただしくなっていた。
廊下には色とりどりの花が飾られ、使用人たちは忙しく行き交う。
「リゼ、その花は大広間へお願い!」
「はい!」
両手いっぱいに花を抱えながら歩くリゼの表情は、どこか楽しそうだった。
お祝いの日。
誰もが笑顔で迎えられる日になればいい。
そう願っていた。
「君、リゼちゃんって言うんだね。」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、ノクスと一緒に行動し始めて間もない頃に声をかけて来た香水の匂いが強い貴族であろう青年が立っていた。
「たまたま通ったら見覚えのある人が名前を言われてたからつい声をかけちゃったよ。」
「そうなのですね。」
相変わらずの強い香水の匂いにどうにか耐え平静を装い答える。
自然な笑顔。
物腰も柔らかい。
「今日は祝賀会の準備かな?」
「はい。」
「大変だね。」
そう言って微笑む。
その笑顔には何の違和感もない。
……なのに。
(……あれ?)
ふと。
鼻先を、強い香りのほかにかすかな匂いがかすめた。
甘くも苦くもない。
花の香りでもない。
(この匂い……。)
どこか薬草に似ている。
でも、それだけではない。
鉄を雨に濡らしたような。
冷たい金属のような。
鼻の奥に、わずかに残る香り。
ほんの一瞬。
風が吹けば消えてしまうほど弱い匂いだった。
「どうしたの?」
青年が首を傾げる。
「え……?」
「難しい顔をしていたよ。」
「あ、いえ……。」
慌てて笑顔を作る。
「何でもありません。」
「そう?」
彼は少しだけ不思議そうに笑った。
それから軽く会釈をして、その場を去っていく。
リゼはその背中を見送りながら、小さく眉を寄せた。
(……変。)
何かがおかしい。
でも、それが何なのかわからない。
匂いを思い出そうとする。
薬草。
金属。
それから……
(どこかで嗅いだことがある。)
確かにある。
でも思い出せない。
胸の奥が、ざわついた。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
ノクスは王子の執務室から出ると、廊下で待っていたリゼに気づいた。
「終わったのか。」
「はい。」
二人は並んで歩き始める。
少し前までなら、リゼから話しかけることが多かった。
けれど今日は静かだった。
「……何かあったな。」
「え?」
「考え事をしている。」
いつものように見抜かれる。
リゼは少し迷ってから口を開いた。
「今日、以前声をかけられた貴族の方に会ったんです。」
「……ああ。」
ノクスも覚えていた。
「何かされたか。」
「いいえ。」
首を横に振る。
「少し話しただけで何もありませんでした。」
「なら何が気になる。」
リゼは立ち止まった。
「匂い、です。」
ノクスの表情が少しだけ変わる。
「変な匂いがしました。」
「どんな。」
「薬草みたいで……でも金属みたいでもあって……。」
言葉を探す。
うまく表現できない。
「嫌な匂いではないんです。でも……。」
胸の前で手を握る。
「怖いんです。」
その一言に、ノクスは何も言わなかった。
代わりに、ゆっくりとリゼの手を包む。
「お前の鼻は、今まで何度も正しかった。」
静かな声だった。
「理由がわからなくても、その違和感を軽く見るな。」
リゼは目を見開く。
「……でも、証拠がありません。」
「今はなくていい。」
ノクスはまっすぐリゼを見つめる。
「気づいたことを覚えておけ。」
「……はい。」
「もし何かあるなら、俺が動く。」
その一言で、胸のざわつきが少しだけ落ち着いた。
ノクスは決して笑わない。
「考えすぎだ」とも言わない。
自分の感覚を信じてくれる。
それが何より心強かった。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
城の人気のない回廊。
青年貴族は、一人静かに立っていた。
「……気づかれましたか。」
誰もいないはずの暗がりから、低い声が返る。
「まだ確信はしていないでしょう。」
「ですが、あの娘は厄介ですね。」
青年は微笑んだまま窓の外を見る。
「鼻が良すぎる。」
その笑みは、昼間リゼに見せたものとはまるで違っていた。
「予定を少し早める必要があるかもしれません。」
暗闇の人物が尋ねる。
「祝賀会は予定通りで?」
青年はゆっくりと頷いた。
「ああ。」
そして冷たく笑う。
「もう後戻りはできない。」
その言葉とともに。
夜の風が、かすかに薬草にも似た匂いを運んでいった。




