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柔らかい空間

静かな雨音が、部屋の空気をやわらかく包んでいた。


 リゼはノクスの肩に寄りかかったまま、小さく息を吐く。


 落ち着く。


 驚くほど。


 さっきまで重かった頭も、もうほとんど苦しくない。


「……楽になったか」


 低い声が、すぐ近くで響く。


「……はい」


 小さく頷く。


 その瞬間、髪を撫でる指がゆっくり動いた。


「っ……」


 優しい。


 こんなふうに触れられるたび、胸の奥が熱くなる。


(……慣れない)


 “もっと慣れろ”なんて言われたけれど。


 こんなの、慣れる方が難しい。


 そのとき。


「リゼ」


「は、はい」


「さっきから緊張しすぎだ」


 淡々とした指摘。


 でも。


 少しだけ、声に笑いが混ざっている。


「だ、だって……」


 こんな近くで。


 こんなふうに触れられて。


 落ち着けるわけがない。


 言えないけれど。


 ノクスは何も言わず、ただこちらを見ていた。


 静かな目。


 逃がさないみたいな視線。


 その沈黙に耐えきれなくなって、思わず視線を逸らす。


 すると。


 ふ、と頬に触れられた。


「……逃げるな」


「っ……」


 また、その言葉。


 でも。


 今は前よりずっと甘い。


「……見ろ」


 低く、静かな声。


 促されるように顔を上げる。


 目が合う。


 距離が近い。


 近すぎる。


「……リゼ」


 名前を呼ばれる。


 それだけで心臓が跳ねる。


「はい……」


「お前は、俺の名前を呼ばないな」


「……え」


 一瞬、思考が止まる。


 ノクスの名前。


 いつも“ノクス様”と呼んでいる。


 それが当たり前で。


 でも。


「呼べ」


 静かに言われる。


 逃げ場のない声で。


「っ……」


 顔が熱くなる。


 無理だ。


 そんなの。


 今まで一度も呼んだことがない。


「……ノクス様」


「違う」


 即答だった。


 しかも今日は引かない。


「名前だけだ」


「で、でも……」


「嫌か」


 そう聞かれてしまうと、弱い。


「……嫌じゃ、ないです」


 むしろ。


(……呼びたい)


 ずっと前から。


 ただ、恥ずかしかっただけで。


 沈黙。


 ノクスは急かさない。


 でも、待っている。


 逃がしてくれない。


 胸がうるさい。


 呼吸が浅くなる。


 それでも。


 ゆっくり息を吸って。


「……ノクス」


 小さく。


 震える声で呼ぶ。


 次の瞬間。


 空気が変わった。


「っ……」


 ノクスの目が、わずかに細められる。


 静かなのに。


 はっきりわかる。


(……喜んでる)


 胸が跳ねる。


「もう一度」


 低い声。


 少しだけ掠れている。


「え……」


「呼べ」


 逃がさない声。


 顔が熱い。


 でも。


「……ノクス」


 今度は、さっきより少しだけ自然に呼べた。


 その瞬間。


 ぐ、と腕を引かれる。


「きゃっ……!」


 気づけば、膝の上に座らされていた。


「っ、ノク――」


 言い切る前に、肩へ顔を埋められる。


「……ずるい」


 ぽつりと落ちた声に、息が止まる。


「え……?」


「その呼び方は反則だ」


 低くくぐもった声。


 耳のすぐ近くで響く。


 心臓が壊れそうになる。


(……ノクスが、こんなこと言うなんて)


 驚きすぎて動けない。


 でも。


 抱き寄せる腕は、思ったより強い。


 本当に離したくないみたいに。


「……もっと呼べ」


「っ……」


「聞きたい」


 静かな声。


 でも、真っ直ぐで。


 熱を隠していない。


 そんなふうに言われたら。


 もう、逃げられない。


「……ノクス」


 呼ぶ。


 すると。


 抱きしめる力が、少しだけ強くなる。


「……もう一回」


「ノクス……」


 まるで確かめ合うみたいに。


 名前を呼ぶたび、距離が近くなる。


 胸の奥が熱くて、苦しい。


 でも。


 幸せだった。


 そのとき。


 ふ、とノクスが顔を上げる。


 目が合う。


 近い。


 吐息が触れる距離。


「……リゼ」


 低く呼ばれる。


 次の瞬間。


 軽く、唇が触れた。


「っ……」


 短いキス。


 でも。


 甘やかすみたいな、優しい触れ方。


「……よくできた」


 ぽつりと落ちた声に、顔が一気に熱くなる。


「そ、そんな言い方……!」


「事実だ」


 平然と返される。


 でも。


 その目は、少しだけやわらかく笑っていた。


 雨音はまだ続いている。


 外は冷たいのに。


 この場所だけは、どうしようもなく温かかった。

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