ノクスの過去
気づけば夜は更けていた。
中庭の静けさはそのままに、空気だけが少し冷えている。
リゼとノクスは、まだその場を離れられずにいた。
指先で、そっと自分の唇に触れる。
熱は、まだ消えていない。
胸の奥も、同じように。
「……リゼ」
「っ……」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
ノクスは、少しリゼを自分から遠ざけた。
さっきまでの距離ではない。
ほんのわずかに、間を取っている。
(……あれ)
その違いに気づく。
さっきまでは、もっと近かったのに。
今は、自分から近づかないと届かない距離。
理由は、わからない。
でも――
(……少しだけ、遠い)
そう感じてしまう。
「……戻るぞ」
ノクスが言う。
いつも通りの声音。
けれど、その奥に何かがある気がした。
「……はい」
小さく頷く。
並んで歩き出す。
でも、さっきまでのように自然に触れることはない。
そのまま、静かな廊下を進む。
しばらくして。
「……ノクス様」
「なんだ」
呼びかけに、すぐ返事が返る。
少しだけ安心する。
「……さっき」
言葉を選ぶ。
でも、止めない。
「どうして、離れてしまったのですか」
正直に聞いた。
自分でも驚くくらい、まっすぐに。
ノクスの足が、ほんの一瞬だけ止まる。
でも、すぐに歩き出す。
「……本当は必要な距離だからだ」
短い返答。
でも、それだけじゃわからない。
「……どういうことですか?」
重ねて聞く。
逃げたくない。
今は。
沈黙。
長い、静かな間。
やがて。
「……昔の話だ」
ぽつりと落ちた言葉。
初めて聞くトーン。
少しだけ低くて、少しだけ遠い。
足が止まる。
ノクスも、止まる。
振り返らないまま、続ける。
「俺は昔、王子の護衛に就く前に……別の任務についていた」
静かな語り。
感情は乗っていないはずなのに、どこか重い。
「要人の護衛だった」
短い説明。
でも、それだけで十分に伝わる。
責任の重さ。
「……守れなかった」
その一言で、空気が変わる。
リゼの息が止まる。
「……え」
「目の前で、死なせた」
淡々とした言葉。
でも。
その奥にあるものは、はっきりしていた。
後悔。
自責。
消えていない傷。
「……それ以来だ」
ゆっくりと振り返る。
視線が合う。
「誰かを近くに置くことを、避けていた」
静かに言う。
事実を述べるように。
「距離を取れば、巻き込まない」
「感情を出さなければ、判断を誤らない」
一つずつ、積み重ねるように。
それが、今までのノクスだった。
「……だから」
ほんのわずかに、声が低くなる。
「お前から離れた」
その理由。
ようやく、繋がる。
(……守るために)
近づきすぎたら、失うかもしれない。
それが怖くて。
だから――
「……でも」
ノクスの言葉が続く。
今度は、少しだけ違う響きで。
「無理だった」
短い一言。
でも、それがすべてだった。
「お前は、気づけば隣にいる」
「離そうとしても、戻ってくる」
淡々とした言葉。
でも。
どこか、諦めたような。
それでいて、受け入れているような。
「……リゼ」
名前を呼ばれる。
今度は、まっすぐに。
「お前の匂いは、静かだ」
「……え?」
思わず聞き返す。
予想していなかった言葉。
「余計なものがない」
「騒がしくない」
「……落ち着く」
一つずつ、確かめるように。
言葉にされる。
それは。
(……初めて、言われた)
ずっと悩んできたこと。
人の匂いが強すぎて、苦しかった自分にとって。
その逆の評価。
「だから」
ほんのわずかに、間があって。
「……離せない」
静かに言われた。
それはさっきの言葉とは違う。
もっと深い理由。
もっと根本的なもの。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……ノクス様」
小さく名前を呼ぶ。
足が、自然と一歩前に出る。
今度は、自分から。
距離を詰める。
「私、逃げません」
はっきりと言う。
さっきよりも、ずっと強く。
「離れません」
そのまま、手を伸ばす。
そっと、触れる。
今度は迷わない。
「……だから」
顔を上げる。
まっすぐに見る。
「一緒にいてください」
静かな願い。
でも、揺らがない。
ノクスの目が、わずかに揺れる。
ほんの一瞬だけ。
それから。
ふ、と息を吐いた。
「……ああ」
短い返事。
でも。
その一言には、今までよりもずっと重みがあった。
次の瞬間。
手が、強く握られる。
今度は、ノクスから。
「……もう離さない」
低く、はっきりと。
言い切られる。
その言葉は――
誓いみたいに、胸に残った。




