嬉しい事実
――関係が変わった、はずなのに。
朝の空気は、いつもと同じだった。
(……同じ、なのに)
リゼは自分の手元を見つめる。
指先が、ほんの少し落ち着かない。
理由は、わかっている。
昨夜のこと。
あの言葉。
あの距離。
(……そばにいろ、って)
思い出した瞬間、顔が熱くなる。
一度落ち着こうと深呼吸をしていたとき——
「……何をしている」
「っ!」
低い声に、びくっと肩が跳ねる。
顔を上げると、すぐそこにノクスがいた。
「ノ、ノクス様……!」
「呼び方」
「え……?」
「そのままなんだな」
淡々と、でも少し何か言いたげな言葉。
でも、その意味に気づいた瞬間――
(……あ)
胸が跳ねる。
確かに。
昨日までと同じ呼び方のまま。
でも、関係は変わった。
はず、なのに。
「えっと……」
言葉に詰まる。
どう呼べばいいのか、わからない。
名前で呼ぶなんて、急にできる気がしない。
でも。
(そのままも、変……)
混乱する。
その様子を見て、ノクスはほんのわずかに息を吐いた。
「まぁ、無理に変えなくていい」
「……え?」
「お前の呼びやすいようにしろ」
短い言葉。
でも、その中にある優しさに気づいてしまう。
「……はい」
小さく頷く。
まだ慣れない。
でも、それでいいと言われたことが、少しだけ嬉しい。
そのとき。
ふ、とノクスの手が伸びた。
「っ……!」
思わず目を見開く。
指先が、そっと触れる。
頬。
軽く、なぞるように。
「……寝不足だな」
ぽつりと落ちる言葉。
「え……」
「顔に出ている」
淡々とした声。
でも。
(近い……!)
距離が、一気に縮まる。
昨日よりも自然に。
ためらいなく。
「だ、大丈夫です……!」
慌てて一歩下がる。
でも、その動きに対して。
「……逃げるな」
低く言われる。
ぴたりと足が止まる。
(……逃げたつもりじゃ)
でも、確かに距離を取った。
それがどういう意味に見えるかなんて――
考えてなかった。
「……すみません」
小さく謝る。
すると。
「謝る必要はない」
すぐに返ってくる。
でも。
「ただ――」
一歩、近づかれる。
距離が戻る。
いや、それ以上に近い。
「慣れろ」
短い一言。
それが妙に真っ直ぐで。
「……はい」
反射的に頷いてしまう。
そのとき。
「おい、ノクス」
横から声が割り込んだ。
びくっと肩が揺れる。
振り向くと、見覚えのある青年――昨日の中庭の人物が立っていた。
「……また会ったな」
にやりとした笑み。
その視線が、リゼへ向けられる。
「君、名前は――」
「必要ない」
ノクスが即座に遮る。
間に入るように、一歩前へ。
完全に視線を遮る位置。
「冷たいなあ」
軽い調子で笑う青年。
「昨日より距離近くない?何かあった?」
その言葉に、リゼの心臓が跳ねる。
(ば、ばれてる……?)
顔が熱くなる。
何も言えない。
そのとき。
「関係ない」
ノクスが短く言う。
それだけで終わると思ったのに。
「こいつは俺のものだ」
さらりと、続けられた。
一瞬、時間が止まる。
(……え)
理解が追いつかない。
でも。
意味は、はっきりしている。
「……へえ?」
青年が目を細める。
面白そうに。
「そこまで言うんだ」
くすりと笑う。
「じゃあ、やめとくよ」
あっさりと引き下がる。
そのまま軽く手を振って去っていった。
静寂が戻る。
でも。
リゼの中は、全然静かじゃない。
(……今の)
心臓が、うるさい。
さっきの言葉。
何度も頭の中で繰り返される。
「……ノクス様」
思わず声が出る。
振り返る。
「今の……」
「事実だ」
即答だった。
迷いもなく。
淡々と。
でも。
(……事実って)
それってつまり。
改めて実感する。
昨夜のことが、現実なんだと。
そのとき。
ふ、と手を取られた。
「っ……!」
驚いて視線を落とす。
指先が絡む。
軽く、でも確かに。
「人の多い場所だ」
ノクスが言う。
「離れるな」
そのまま歩き出す。
手は、繋がれたまま。
(……離さない)
その意思が、はっきりと伝わってくる。
顔が熱い。
でも。
(……嫌じゃない)
むしろ
嬉しくてたまらなかった。




