廻る歯車-6
体が重い。いや、空気が重い。腕一本動かそうとするだけで全身の重圧が増す。関節が軋み、痛みを発する。激痛というほどではないが、じわりじわりとかかる苦痛に音を上げそうだ。
「……お兄様」
首筋にすがりついているミューイの心配にひとこと大丈夫だと返して、ガルシアは内心歯噛みする。
(くっそ、やっぱ動けねえっ。俺たちをどうする気だ、こいつ……っ)
見上げる。
傍らに立つ白い男──名乗りをそのまま信じるならば、アッシュローズ──は魔法で光源を作り、ガルシアたちの周囲を照らしたところだった。
魔法によって移動させられた場所は見知らぬ家の庭だ。風の匂いはハルメシオン内のそれだが、それにしてはずいぶんと静かで穏やかな気配に包まれている。おそらくは周囲を囲んでいる森の影響だろう。リンディアと同じく自然が豊かな場所だからこそ、心安らぐ空気を有しているのだ。きっと。
とはいえ、雰囲気に流されて油断するわけにはいかない。アッシュローズが何を企んで自分たちを引き取ったのか読めない以上、ミューイを護るためにも警戒していなければ。
ガルシアはいまだ全身を縛りつけている魔法による苦しみをこらえ、男の動きひとつひとつを目で追う。
と、
「アッシュ様?」
いきなり家のほうから声が飛んできた。
「あぁやっぱり。そんなところで何をなさってるんですか?」
目だけを回すと、女が一人、窓辺に立っていた。膝丈のスカートの下から細長い猫の尻尾が覗いている。肩まで届かないグレーの髪からは、優れた視力などなくともすぐにわかる獣の耳が。まんまるに見開いた銀色に近いブルーの瞳が向いているのはアッシュローズだ。
アッシュと呼ばれた彼が、体ごと女に向き直る。
「獣が興奮状態にあるのでな、夜風に当たれば多少なりとも頭が冷えるかと思ったのだ。それよりも、すまないが客室を用意してはくれないか。あと、こちらの娘の世話も頼む」
突然指し示されたミューイが緊張で震えた。
ガルシアは動かない体の代わりに、視線に全力を込めてアッシュローズを睨み上げる。
「てめぇ、俺の妹をどうする気だっ」
しゃらり、と音を立てながら、白の男が静かに顔をこちらに向けた。
ここまで近づいているのに、まだ彼の顔は判然としない。相変わらず前髪に邪魔されて表情が読めない。そんな彼の唯一明らかな口元が、笑みのひとつも浮かべないまま動いた。
「まずは入浴だろう。湯につかって、心を休めるといい」
そして顔の角度をわずかに変え、ミューイに目を向ける。
「怯えることはない。この屋敷にきみたちを害する者は存在しない」
「では、あの……お兄様を離してくださいっ」
ミューイの震えている声を聞いて、初めてアッシュローズが柔らかく微笑んだ。そっとひざまずく。
「この魔法は、怒りや攻撃の意志を持つ者を縛る魔法だ。彼が冷静になれば痛みも苦しみも消えるし動けるようになる。傷つけはしないし、命を奪う類のものではないから安心したまえ」
「ほ、本当ですか?」
「誓って」
ゆったりと頷くと男は、袖に包まれたままの右手を伸ばしてきた。ミューイに。
「彼が落ち着くまで、まだしばらくかかるだろう。だから先に湯を使ってくるといい」
肩に触れる。
その瞬間ガルシアは、腹の底が熱く爆発するのを感じた。同時に全身の付加が強まる。だが煮えたぎってしまった怒りと恐れは消せない。ガルシアは芝生に爪を突き立てた。
「触ンな……っ」
背骨が悲鳴を上げる。足も震える。膝は今にも折れそうだ。しかし怒りの力が魔法の呪縛を上回る。ガルシアは潰れそうになりながら、それでもしっかと立ち上がった。弾かれたように妹から手を離したアッシュローズを見据え、重圧を振り切って地面を蹴る。
「ミューイに触ンじゃねえっ!!」
白い腕が動くが遅い。ガルシアは牙を剥いた。
──ビッ!
布の裂ける音。硬い骨と筋肉の感触と血の味が口内に流れる。
「────ッ!」
アッシュローズの喉から声にならない悲鳴が漏れた。
左肩に喰らいついたまま押し倒すと、顎に力を込め──ようとしたそのとき、右の脇腹に激痛が。
痛みの拍子に緩んだ牙の力を見逃さず、今度は下からアッシュローズの蹴りが入る。呪縛の魔法の効力もあり、ガルシアは一撃で蹴り飛ばされた。再び芝生に転がる。
「っ痛ぅ……」
腹をかばいながら、ガルシアはゆっくりと頭を上げる。そしてすぐさま敵の姿を目に入れた。
アッシュローズはすでに体を起こしていた。しかしその左腕は力なく垂れ下がっており、骨が砕けたことが一目瞭然だ。膝をついている地面と純白の衣服が、流れる血であっという間に赤く染まっていく。対して、こちらの傷はただの打撲だ。おそらくは彼の右手が持っている杖で殴られたのだろう。
(…………。あれ?)
ふ、と意識が逸れる。
(あいつ、杖なんて持ってたか?)
今は確かにしっかと握られている、木と銀でできた杖。それは長く、かつ、持っていれば確実に目立つほど美しい装飾が施されたものだ。
思い返してみても、少なくとも噛みつく寸前まではアッシュローズが何かを持っている様子はなかった。誰かに渡されたのだろうか。──いや、彼の味方であろう女の獣人はまだ家の中だ。しかも腰を抜かしている。ミューイにはそんなことをする理由がないし、それ以前にあんな杖は持っていなかった。隠し持っていた、というのも無理そうだ。長すぎる。あれならば服の上からでもすぐにわかるはずだ。
(いったいどこから出してきたんだ、あんなもん……)
疑問に捕らわれているうちに、アッシュローズが杖を落とし、代わりに傷ついた肩に右手を当てた。口元が痛みに歪む。白い髪が、血で染まる。
「……やって、くれたな。獣よ」
しかしそれきり言葉が消えて、風の音と水音だけが庭に鳴る。
「めい……あしゅ、かえってきたの?」
張りつめた空気を破ったのは、家の中から聞こえてきた子供の声。
ガルシアが再び目だけを動かして開いたままの窓を見るのと、床にへたり込んだままの女が髪を振って室内を振り返るのが同時だった。
「フェリスっ。来ちゃ駄目っ、見ちゃ駄目!」
制止の声を上げるが、足が動かない状態ではかなわない。窓辺に姿を見せた小さな姿をすぐさま腕に抱え込む。
「あしゅだっ。おかえいなさぁい!」
が、少年はあっさりと庭にいるアッシュローズたちを捉えていた。同時にガルシアもまた、フェリスという名らしい少年の姿に驚き、白い男から顔を外してしまう。
「え……?」
女の腕の中で少々眠そうな笑顔をさらしている少年は、間違いなく獣人だった。けれど、信じられないほど鮮やかな青い髪と瞳に驚かずにはいられない。
独特の色彩を持って生まれてくる獣人族の中にあってさえ──いや、自然界の中でさえ、真の青色は稀有な色だ。いっそ異端と言ってもいいくらいに。しかも、驚愕の理由はそれだけではない。少年の背にある小さな翼。青から白へ、羽先に向けてグラデーションを描く綺麗な色の翼が、なぜか左側しかない。もう一枚あるはずの羽が見えない。片翼なのだ。
ガルシアの視線を釘付けにしていると気づいてもいないフェリスの瞳が、不意に笑みを忘れた。
最初に表れた感情は、疑問。
次に驚き。
そして最後に支配したのは、強すぎる、恐怖。
「……あ、あ……」
大きな瞳がさらに大きくなり、頬が引きつり、遠目にもわかるほど青ざめていく。
「や、あ……、い、や、やだぁあぁぁぁぁっ!!」
「フェリスっ!」
少年が突如暴れだし、女の腕を振り払った。そこまで引きずってきていた毛布を手放し、裸足のまま庭に飛び出る。
「あしゅーっ!」
転がるように駆け寄る、小さな体。
アッシュローズがガルシアに向けていた体をひねり、飛びついてくるフェリスを受け止めた。
「あしゅ、あしゅっ……ち、い、いっぱい……っ。う、うわあぁぁぁぁんっ! やだ、やだよー……やだぁ! あしゅ、しんじゃやだーぁぁぁっ!」
「大丈夫。大丈夫だ。だから泣かないでくれ、フェリス」
「ふえぇぇぇ……あしゅ、あしゅ……っ、ぱぱぁっ!!」
首筋にかじりついて泣き叫ぶ少年と、その体を精一杯抱きしめてあやす男。そこに黒い感情などなく。ただただ必死な愛情の姿しかなく。
己の舌に残る血の味に、吐き気がした。
これは、罪悪感だ。
奪われることを何よりも嫌がる自分が、よりにもよって同胞である少年から大切な存在を奪いかけたことに対する罪悪感。──力を振るって自分を責めたくなったのは、初めてだ。
声も出せないまま抱きしめあう彼らを見ていたら、アッシュローズが小さく動いた。魔法を唱える。
「神の光よ。欠けたる形を癒したまえ」
その呪文は確か回復魔法だったはず。
ガルシアの予想を肯定するように、砕けたはずの肩が動いた。そして二、三度指先を動かしてから、アッシュローズが両腕でフェリスの背中を抱きしめる。
「アッシュ様っ」
そんな彼らのもとへ、窓辺でへたり込んでいた女が駆け寄ってきた。青ざめているものの気丈な表情で声をかける。
「ほんとにもう大丈夫なんですか?」
ガルシアを気にしながら立ち止まった彼女に、アッシュローズはしっかりと頷いた。フェリスを抱いたまま立ち上がる。
「驚かせてしまったな。すまない」
「いいえ、いいんです……アッシュ様がご無事ならそれで」
そう言って笑った女に、もう心配の陰はない。さっと体を開き、家へと誘導する。
「じゃあ、アッシュ様はフェリスと一緒にお休みになってください。あとのことはあたしがやっておきます」
「……一人で大丈夫か?」
「もちろんっ」
きっぱりと笑顔で言い切った彼女の言に安心したのか、こちらに横顔を見せているアッシュローズの唇に笑みが浮かんだ。
「では、頼む」
「はい!」
気持ちのいい即答にもうひとつ微笑むと、アッシュローズがこちらを向いた。
「わからないことがあったら、彼女に……メイに訊くといい。明日、国まで送ろう。起きたらリビングに来たまえ」
そして返事も待たずに、室内へと戻っていった。
二人の姿が完全に消えたところで、メイがアッシュローズに向けていたものとは違う笑みを見せた。
「それじゃついてきて。まずはお風呂に案内するわ」
言って、歩き出す。
歯向かうことは簡単だろう。このメイというらしい女相手ならばミューイを連れて逃げることもたやすい気がする。けれど、今はそんな気になれなかった。いまだ体を縛る魔法もあるが、それよりも精神的な疲労感が強く、気力がわかない。
「……お兄様」
再び寄り添ってきたミューイは、まだどこか不安げだ。
励ますように彼女に頬ずりしてから、ガルシアは重い重い腰を上げた。




