廻る歯車-5
己の動物的勘と嗅覚を頼りにハルメシオンの王城内を駆け抜けてきたガルシアは、衛兵二人を噛み殺すとすぐさま、彼らが護っていた扉に体当たりをした。両開きのドアを破って室内に転がり込んだガルシアの耳を打ったのは、か細く震える妹の声。
「にいさま……お兄様ぁっ」
立ち止まった途端に来た全力疾走の疲れが、一気に吹っ飛んだ。
「ミューイ!」
急いで体を起こし、前を見る。薄暗い部屋の中央に置かれた巨大なベッドの上で、ドレスをはだけられたミューイが男に押さえつけられていた。妹にのしかかっている男には見覚えがある。この国の唯一の王子だ。年は自分より五歳年上。けれど精神年齢は幼児並みの阿呆である。
廊下からの照明を背に、ガルシアはゆっくりと立ち上がる。
「てめぇ……」
口から息と一緒に人間の血が滴り落ちた。
「その手を離せ」
遠目にもわかるほど顔を引きつらせた王子は、跳ねるように起き上がると一回り以上小さなミューイの体を盾にした。
女の、それも小さな少女の後ろに逃げるその根性が気に食わない。
「そこをどけっ」
再度の警告。しかし王子はさらに体を小さくして逃げるだけだ。
「聞こえねえのかっ?」
ガルシアは四本の足に力を込めた。
「ミューイから離れろっつってんだ、ゲス野郎っ!」
叫び、飛びかかろうとしたその瞬間、
「──待て」
不意に響いたのは、男の声。
「もうこれ以上傷つけるな」
けっして空気を壊さない。ただただ静かに、だが抵抗すら許さずに奥深くまで染み渡る。そんな、どこまでも澄んだ力のある声だった。
抗いがたい何かに阻まれて、ガルシアは動きを止めた。
「誰だっ!」
自分と妹、そしてこの国の王子しかいないはずの寝室を見渡す。
「こそこそ隠れてンじゃねーよっ。姿見せやがれっ!」
沈黙と静止は、一呼吸の時間。
「わかった」
再び流れた声とともに空気が動いた。
ガルシアの目の前、立ち塞がる位置に、空間からにじむように現れたのは柔らかな白色。無防備に立った男がまとう裾長の服も。地につくほど長く伸びたまっさらのストレートヘアーも。前髪で半分隠れてしまっている顔も。何もかもが温かみのある白だった。薄闇に包まれた室内や外に広がる夜の風景とは無縁の色彩。だがなぜか不思議なほどしっくりと溶け込む様は、どうしても人間に見えなかった。人間とは思えない。人形か、でなければ何かの──月の精霊のよう。
不意打ちに似た衝撃で言葉を失い、立ち尽くすガルシアに向けて、不可思議な男が彫像のような唇をうっすらと開いた。
「怒りを鎮めたまえ」
美しく、静かな声だった。しかし冷静といえば聞こえはいいが、むしろ無感情に近い。事務的と言ってもいい。口で何を言おうとも、心の奥底では何の感慨も持っていない。所詮は他人事。そんな声だ。
「まずは落ち着きたまえ。怒りに任せて動いても、得られるものは何もない」
なおも説得を試みてくるのが腹立たしい。
こんな、相手の事情も気持ちも無視する男に従う道理がどこにある?
「邪魔すンなっ。てめぇもぶっ殺されてぇかっ!」
明らかな殺気を放ち、威嚇する。
すると白い男は静かに息を吐き、右腕を振るった。指先まで隠す長い袖が薄闇に踊る。
見えない、けれど確かに向けられた視線。
何か仕掛ける気だ。
ガルシアは即座に膝を沈めた。
「大地よ。悠久なる時を紡ぐ、いにしえの識者よ」
しかし男の呪文が速い。
「か細くもたくましく、抗いがたきその力でもて、狂いし者を呪縛せよ」
刹那、分厚い絨毯から糸が溢れ出た。いや、糸ではない。それは糸状の光。魔力の光だ。無数の糸が一斉に降り注ぎ、ガルシアの全身に絡みつく。
「ぐ、ぁっ」
ガルシアはたまらず膝を折った。
重い。ひたすらに重い。空気がのしかかってくる。いや、のしかかるなどという甘いものではない。巨人に上から押さえつけられ、細く絞った針金で力任せに締めつけられているかのようだ。前足一本、つま先さえ持ち上がらない。
もう動けないと自信を持って断言できるのだろう。男が視線を外した。体ごと背後のベッドに向く。
「怪我はないか」
「あ、あぁ」
男の背中が邪魔をしていて、王子の様子は見えない。しかし声から想像するに、助けられた安堵に息をついたようだった。
「な、何者かは知らんが、よくやった。本来ならば侵入者として捕らえるところだが、私を救ったその働きに免じて────」
「怪我がないならば、なにより。助けてやった礼を遠慮なく請求できるというものだ」
尊大な王子の言葉尻を奪って放たれた男の台詞は、痛みや怒りを一瞬とはいえ忘れさせるほど強烈だった。
(な、なんだ、こいつ……?)
王子の台詞から王宮に仕える人間でないことはわかったが、相手は仮にも王子だ。国の権力者である。主君となる人間である。それを目の前にして負けず劣らず偉そうに礼を請求できるなどと言う民がどこにいるだろう。
どうやら王子も同意見だったようで、ひじょうに間抜けな声が漏れた。しかし男は変わらぬ声で──いや、少々の笑みを含んでいるか──さらりと言った。
「安心したまえ。無理難題を吹っかけるつもりはない」
そして最初にガルシア、次にミューイに顔を向けることで指し示し、
「獣とそちらの少女を受け渡してもらいたい。そしてお前には、今後いっさい獣人族に干渉しないと誓ってもらおう」
反論しかけたらしい王子の口を、右手をかざして制止する。
「文句を言われる筋合いはないぞ。むしろ感謝してもらいたいものだ。お前の身の安全を保障し、証拠隠滅の手伝いまでしてやろうというのだからな」
「な、何をふざけたことを……っ」
「ほう?」
男が嘲笑の色を濃くする。
「却下するならば、それはそれで構わん。獣の縛を解いて立ち去らせてもらうから、存分にいたぶり殺されるといい」
「っ!」
「獣人一人に城内を突破された挙句、王子が殺されたとなれば、王族の権威も少なからず失墜するであろう。獣人族がこれを機に立ち上がり、反旗を翻すやもしれぬな。そう考えると……フ、獣人たちをおとしめ、さんざん利用してきた人間にとってはいい醜聞だ」
思考に与えた時間は、およそ三秒。
男が静かに首をかしげる。
「悪い取引ではあるまい。……さぁ、どうする?」
答えは、すぐに出た。
王子の手を離れたミューイが、白い男を警戒しながらこちらに走ってくる。
「お兄様っ」
首に抱きついてきた妹に、ガルシアは痛む体をなんとか動かして頬を寄せる。
「遅くなってごめんな。怖い思い、させちまった……」
涙が毛を伝って染み込んでくる。
かけられた魔法より、ずっとずっと痛い。
「護ってやるつもりだったのに……ごめんな、ミューイ」
ミューイは体をさらに寄せてきた。毛並みに顔をうずめるように何度も首を振る。
「お兄様のこと、信じていました。きっと、きっと来てくださるって、信じていました」
「そっか」
ガルシアは、ほっ、と息をついた。何やら押さえてつけてくる空気すら軽くなったように感じる。自然と微笑みを浮かべて、妹の頬を小さく舐めた。
「……さて」
だが、静かな、ある意味冷徹な白い男の声で我に返る。急いで警戒心を高めたらまた苦痛がぶり返したが、根性でこらえて男の背中を睨みつけた。
白い体が王子を見たまま衣擦れの音を立てて後退してくる。
「それではここで失礼するが、先の約束、ゆめゆめ忘れるな。違えたなら必ず断罪するからそのつもりで」
大仰な脅し文句をささやいた男は、長い髪がガルシアの足先に触れたところで立ち止まった。
「ま、待てっ」
王子が声を張る。男が正面からどいたことで見えるようになった彼は、気づいているのかいないのか、いっそ哀れなほど引きつった顔で懸命に白い男を睨んでいた。
「貴様、何者だっ。王子である私を……いずれ王となる私を脅迫するなど……っ」
「ん?」
白い男がかすかに驚きの感情をこぼす。
「もしやと思ったが……本当に私のことを知らぬのか」
「下賎な民の顔など知るものかっ」
「……なるほど。王はいずれあとを継ぐであろうお前にすら何も話していないということか。ずいぶんと馬鹿にされたものだな。いや、侮られているということか」
声を嘲りの色に染め、そして、
「まぁいい。……覚えておきたまえ。私の名はアッシュローズ。この世界を護り、変えることを使命とする者だ」
凛と、宣した。
どこまでも美しく、それゆえに冷淡な宣言だった。
男は静かに、刃のように鋭く、呟く。
「確かに警告したぞ。……忘れるな。私はいつでも見張っている」
新たな魔法により周囲の景色が変わるまで、数秒もなかった。




