背中合わせの光 -後編-
尻尾をそこに留めていたのは白い指だった。指先だけで掴む、アッシュローズの白い指だった。汚れ乱れた髪も服もそのままに、地面にへたり込み、あらわとなっている目を恐怖で歪ませ、まっすぐにGRを見上げる、彼の。
痙攣一歩寸前の激しい震えに全身を支配されたまま、アッシュローズが唇を開く。
「……ち……ちが、う……」
ふる、ふる、と目を逸らさずに首を振る。
「ち、が……っ」
不思議な色をした双眸が、揺らぎ、濡れ、大粒の涙を溢れさす。
けほ、と小さく咳き込んだ。
「いくな……」
背を丸めてうつむく。
尾を掴んでいた右手が力を失って落ちた。腕を伝って滑り降りた袖と髪が、土に爪を立てるその手を覆い隠す。
「いく、な……っ」
左手が胸元をぐしゃりを握り潰した。
呼吸音が変わる。痰の絡んだような荒い息から、短く弱い音へ、無音へ。
「……じぃる……」
崩れる体。
雨のように降る涙。
もはや声とは呼べぬ声。
「い、や──……っ」
息が止まった。
発作だ。
「ばっ──、落ち着けっ!」
GRは離れようとしていた足を真逆の方向に動かした。波打つ絹布の前に膝をつく。
どうやら今回は、空気を吸い込むことはできても吐けなくなったようだ。いちばんよくあるタイプの発作である。GRはアッシュローズを抱えて背中を叩いた。何度も叩いて強制的に息を吐き出させる。
「落ち着いてちゃんと呼吸しろっ! 息止めンなっ! くっそ……」
反動で揺れる白い後頭部を見ながら口をねじ曲げた。
「卑怯だぞ、てめぇっ。あーもー、さっさと元に戻れ馬鹿っ!」
ひときわ強く一発殴ると、ようやく自力で咳き込みだした。山は越えたようだ。ひとまず安堵し、背中を静かにさする。
「ほんっと、マジでわけわかんねえ。俺は邪魔なんだろーが。だったら普通はいなくなってせいせいするってンじゃねーのかよ。なんで発作起こしちまうほど追いつめられてンだ、てめぇは。ったく……」
「………………っく……」
喋れるようになったのか、と耳を傾けてみれば、
「……ふ、く……ひっく……う、ぅぅぅ……っ」
腕の中で始まっていたのは、発作とは完全に関係ない別の震えだった。
GRは眩暈がした。怒りの矛先が問答無用で削られ、霧散する。
「……お前な……」
空いている手で己のこめかみを揉みほぐす。
「いー年した大の大人が泣きじゃくンなよ」
「うっ、うるさいぃっ!」
アッシュローズがうつむいたまま、けれど上体をGRに向けて左手を上げた。
──ぺち。
普段の腕力など見る影もないほど弱々しい。震える手で胸を叩いてくる彼は、まだ大粒の涙をこぼし続けている。
「お前がっ! お前がっ、悪いんだっ!」
──ぺち。ぺち。
「お前がっ……っく、あんな……あんなこと言うからっ!」
──ぺち。ぺち。ぺち。
「この、馬鹿っ……馬鹿犬っ」
──ぺち……
「勝手に……勝手に私の、気持ちを、決めつけて……勝手にっ、思い込んでっ! 邪魔だと? 迷惑だとっ? ……ふざけるな……っ、ふざけるなぁぁあぁぁぁっ!」
額をGRの胸に押しつけ、泣き叫ぶ。
こんなに動揺した彼を見るのは初めてだ。いや、その前に、誰かのために泣く姿は何度も見たが自分が泣かせたのは初めてで、罪悪感が出てきた。
「な、泣くなよぉ……」
「うるさい馬鹿黙れお前のせいだっ」
「いや、でも────」
「でもじゃない! 全部お前が悪いんだーっ!」
「うぅぅ……」
もはや子供の癇癪である。
「俺にどーしろってンだ……ったく」
嘆息ひとつ、GRは泣き崩れるアッシュローズの背を撫でてやりながら、彼が吐露した言葉を思い出し、その意味を考えてみる。
(──……いや、考えるまでもねえ、か)
別れを告げたあとに見せた、ストレートな懇願。気持ちを邪推したことに対する激怒。素直ではない彼の動揺しているがゆえに漏れた本音は、感情的だからこそまっすぐに信じて受け止められる。アッシュローズがGRを遠ざけようとしていると感じたのは、おそらく──いや、確実にGRの勘違いだったのだろう。
そうとわかれば、勘違いの原因を突き止めるよりも先にやるべきことがある。嗚咽をかみ殺そうとしているアッシュローズの震える体を、GRは両腕で抱きしめた。
「悪かった」
驚いたのか肩を強張らせたアッシュローズを、暴れても離してしまわないようにしっかと抱きすくめる。
「俺が悪かった。謝るから赦してくれよ」
「…………」
「ほんと俺が悪かった。勝手に勘違いして怒鳴ったりして、悪ぃ」
嗚咽が小さくなってきたアッシュローズの髪に頬を寄せてみる。まっさらの長い髪は、汚れていてもやっぱり薔薇の香りがした。風に紛れるほどかすかな芳香に向かって、GRは静かに謝罪し続ける。
「反省してる。俺が悪かった。だから、なぁ、赦してくれ。泣かないでくれよ」
「…………ほんと、に?」
アッシュローズが身じろぎした。
「本当に、反省……してるか?」
GRは頬をつけたまま大きく一回頷く。
「反省してます。もうお前泣かすのはこりごりだ」
言って、さらにぎゅうと抱きしめて、GRは口を尖らせた。
「でもよ、勘違いしちまうようなこと言ったりやったりしたお前も悪ィんだぜ? 俺のこと馬鹿だ馬鹿だって言うんならよ、その辺も考えてもの言えよ。なぁ」
すると。
「……うるさい。勝手に勘違いしたお前が悪いんだ」
アッシュローズがおどおどと背中に腕を回してきた。袖から出した指先で、まるで熱くないか確かめるようにおそるおそる触れて、それからようやく掌を背中に滑らせる。やや体温の低い手と、絹の服と、髪──滑らかなそれらに包まれて、少しくすぐったい。
「…………。……別に……いいではないか」
「アッシュ?」
まさかうやむやにするつもりではあるまいな、と顔を覗こうとしたら、猫が擦り寄るように肩口に深くうずめてしまった。
「いいではないか」
肌に当たるアッシュローズの声が、わずかに拗ねる。
「お前が本調子でないときくらい、私がお前を護っても……」
「…………え……?」
ぐりぐりぐりぐりと考えて。
GRは不意に結論にたどり着いた。それはつまり、
(俺の体を心配してた、ってことっ?)
驚きの新事実である。
「な、なんだってまたいきなりンなことやろうなんて思ったりしたんだっ?」
わずかな沈黙のあとで、アッシュローズが指先を立てた。いや、拳を握った。体を強張らせ、何かを我慢する。これは心を内に封じようとするときの癖だ。
「アッシュぅ?」
ぽんぽんと背中を叩いてやる。
「言いたいことはちゃんと言え。じゃねーとまた誤解すンぞ?」
「…………。……だって……」
観念したか、アッシュローズが口を開いた。
「悔しい」
手を拳にしたまま腕に力を込める。
「お前は私の欲しいものを山のようにくれるのに、私は何もできん。そんなの悔しいではないか。……私だって……たまにはお前に、感謝させてみたい」
(うっわぁ)
GRはまたも眩暈がした。
心に思うことはただひとつである。
(こいつアホだ)
そして、そんな彼がとんでもなく可愛いと感じてしまう自分の感性は、はたして正しいのか間違っているのか。
とりあえずGRはくらくらする頭をどうにかこうにか正常な位置に戻すと、少々もったいない気がしたもののアッシュローズの体をひっぺがした。真正面から向きあう。
すると眉を寄せて端麗なしわを刻んだアッシュローズが、荒れひとつない唇をうっすらと開いた。だが声を出さないまま閉じてしまい、眉もすぐに無表情へと戻ってしまう。しかしそんな顔の中、たった一箇所だけ感情を残しているものがあった。朝霧に包まれた薔薇を思い出させる、不思議な色の瞳だ。その不安に捕らわれた相棒の双眸をまっすぐに見つめて、GRは右手を持ち上げた。額を弾く。
「ンな馬鹿くせぇこと考えてっから、ドジ踏むんだよ」
呆気に取られたアッシュローズを笑い飛ばす。
「っつーか、俺はお前に何かしてもらいたいなんて、これっぽっちも思ってねえよ。あえて言うなら……そうだな、笑っててほしい、ってとこ?」
「え?」
「だーからぁ。お前の傍にいて手伝ってやってンのを、嬉しいとか助かるとか思ってくれてりゃ俺はそれで満足なんだよ」
わかる? と首を傾げて問いかけてみたら、アッシュローズはわずかに考える素振りを見せたあとでうつむいた。
「だが……」
「だがじゃねーの。俺はお前を護りたくてここにいンだ。それなのにお前が傷ついたら、俺、立場ねーじゃん。お前は俺をかばう必要ねえんだよ。むしろ迷惑っ」
子供相手にするように、髪をかき混ぜるように撫でてやる。
「さっきも言ったけど、これっくらいの熱や怪我、どーってことねえよ。もっとひどい状態で戦ったことだって何回もあるんだからな。つか、そのうちの一回はどー考えたってお前だぞ。わかってっか?」
アッシュローズは口を閉じ、地面に視線をやったまま動かない。
「……それに、だ」
GRは構わず、頭に置いた手を彼ごと引き寄せた。
「どんなに体調が悪くたって、俺とお前があの程度の小物相手に負けるかよ」
額を重ねる。
「疑うか?」
アッシュローズがはっと目を上げた。宝石のような瞳と視線が交わる。
硬直はほとんど一瞬だ。アッシュローズがゆるゆると自嘲の笑みを唇に浮かべ、何かを悟ったかのような表情で静かに目を閉じた。
「まったく……」
吐息まじりの声が、涙を忘れていつもの美しさを取り戻していく。
「お前という奴は、本当に……」
──ボグッ!
突如腹を襲った謎の衝撃に、GRは固まった。
いや、正確にはけっして謎ではない。むしろ見なくともわかる。お馴染みというやつである。鳩尾にめりこんだモノは間違いなく、アッシュローズの右拳だ。
脂汗をだらだら流しつつ見やれば、GRの知る限り世界で最も美しい人が、いつもの冷静な表情で凛と背を伸ばす。
「救いようのない自信家だな。呆れてものも言えん」
ふん、と鼻で馬鹿にして、
「少しは謙遜や慎重という言葉を覚えたらどうなのだ、馬鹿犬」
つーん、とそっぽを向く。
わざとらしくため息をついて首を振る姿は、すっかりいつものアッシュローズである。
ちょっと泣けてきた。
(うぅぅ。なぁ〜んでこいつってば、こんなに照れ屋で素直じゃなくて頑固で馬鹿で面倒くせぇんだろ……)
思うものの口に出せないのは、GRの知る限り世界で最も照れ屋な男の図星を突いたが最後、どんな仕置きをされるかわかったものではないからである。さすがのGRもこの一年でしっかり学んだ。というか骨身に染みた。
ともあれ、いつもより威力が弱かったおかげで早々に復帰するとGRは、冷静沈着なひねくれ者に戻った相棒にまっとうな問いかけをする。
「はいはいすんませんねー。で、これからどうすンだ」
アッシュローズは文句言いたげに片眉を上げたが口にすることはなく、己の白髪に指を入れた。
「少し休んでから帰る。さすがに今の状態で魔法を唱えるのはきついからな」
言った矢先に、アッシュローズが立ち上がった。何も言わずに歩き出す。
「お、おいアッシュ、どこ行くんだよっ」
慌てて追いかけたら、白い背中は振り向きもせずに髪を揺らした。
「向こうに木苺がなっているのは本当なんだ。精霊が教えてくれたからな。せっかくだから一緒に食べよう。……あぁ、摘んで帰ればメイが喜ぶやもしれんな。うむ、そうしよう。GR、手伝え」
「──って、さっきまでバテてた奴がちょろちょろすンじゃねーよっ。休んでろっ」
「それならば治った」
「はぁっ?」
前を行くアッシュローズが足を止め、絹のローブをふうわりと翻して振り返る。顔を覆っている前髪がほどけて、奥にある瞳があらわになった。涙のせいか色づいた目元を珍しく隠そうともせずにアッシュローズは、何気ないふうにGRを見やる。
「治ったんだ」
歌うように呟いて、
「……お前が、消してくれたから」
足元に視線を逸らしたアッシュローズの顔には、大輪の薔薇も恥らうだろうほどに美しく幸せそうな、満面の笑みが咲いていた。
*
「──……で、GR。お前は何をやっているのだ? まさか私一人で摘んでこいと言うのではあるまいな」
アッシュローズの言いたいことはわかっている。わかっているが、体がいうことをきいてくれないのだからしょうがない。
GRは両手両膝を地面につけた格好で、顔を伏せたまま口を開く。
「いや、別に、そーゆーつもりじゃねえけどよぉ」
「ではどうしたというのだ。問題がないならばさっさと立ちたまえ」
「立てるなら苦労しねえっての。つーか、いったい誰のせいだと……あぁもう」
「何をぶつぶつ言っている。本当にどうしたのだ? ……足、痛むのか?」
アッシュローズの声が真剣みを帯びてきた。
このまま原因をうやむやにしたら、それこそ本格的に心配させてしまうかもしれない。そうなれば面白くない事態に発展しそうだ。まずい。
GRは腹をくくった。深呼吸のような嘆息と一緒に肩も落とす。
「だから、その……い、いきなり笑うから、腰抜けた」
「は?」




