無条件の理由
ミューイが生まれる前。姉姫がいた頃。まだ幼い双子のお話です。
ディレイス視点。
開け放った窓の傍で読書を楽しんでいたディレイスは、耳にくすぐったさを感じて顔を上げた。そして気づく。何やら騒がしい。しかし発生源はこの図書室ではない。静かだし、音の大きさからして近くではない。ということは窓の外からだ。
耳を済ませると、走る音と一緒に声がする。声はふたつ。大人の声と子供の声。となれば、何が起きているかは見るまでもない。きっと勉強嫌いの兄が部屋を抜け出して、見つけた教師に追いかけられているのだ。
(先生たちも懲りないなぁ)
今日も今日とて、兄はまんまと逃げおおせるに違いない。今のところ、足の速い彼を捕まえられるのは格闘術の師匠だけだ。机にかじりついているのが常である万年運動不足の中年男性では荷が重いだろう。
ディレイスは読書をあきらめた。本を棚に戻して図書室を出る。途中で厨房に寄り道をし、もらったクッキーの皿を手に自室へと戻った。扉を開ける前に静かな廊下を見渡して走り回る人影がないことを確認してから中に入り、しっかりとドアを閉める。
「……で、今度はどの先生から逃げてきたの? 兄さん」
「な、なんでバレたっ?」
振り向くと、双子の兄、ガルシアがソファーの陰から頭を出した。
彼は十二歳になっても幼い頃からちっとも変わらず、感情がすぐ表情に出る。今も、行動を読まれたことへの悔しさと同時に純粋な驚きと好奇心を漂わせており、隠す気もない。そんな兄の素直さに苦笑して、ディレイスは彼に近づいた。
「毎回僕の部屋を逃げ場所にされれば、嫌でも気づくと思うけどね。……クッキー、食べる?」
「おう」
皿をテーブルに置くなり、ソファーの背を飛び越えて座ったガルシアが返事と同時に手を伸ばした。甘いものが好きな兄はいつもこれだけで機嫌を直してくれる。が、今回はどこか閉塞的な不機嫌さが消えない。よく怒る人だが、いつまでも苛立ちを引きずる様なまねはしないし、その怒りと無関係な人の前では感情を引っ込められる器用さがあるのに、今はそれができていない。悩みを抱え込んだときの癖だ。
彼の隣に腰掛けるとディレイスは、クッキーを一枚口に運ぶ。
「……何かあった?」
「う?」
口いっぱいにほおばったまま振り返ったガルシアに顔を向けず、ディレイスはクッキーを飲み込む。
「眉間に皺が寄ってる」
咀嚼音が止まった。
わずかな間のあとで、ガルシアがクッキーを嚥下した。
「あんまりうるせーから、ムカついてるだけだ」
「何が?」
「だから……、言葉づかい。王子らしくねえから直せってよ。いい加減しつけェったら、ありゃしねえ。ほっとけってンだ。ったく」
ガルシアはうっとうしそうに髪をかき回した。
口では突き放すことを言っているが、内心では納得していない。そんな顔だ。単純馬鹿で、危機に直面したときほど豪胆なくせに、一度迷い出したら長い。変に不器用な真面目さに思わず笑い、ディレイスは二枚目のクッキーをつまんだ。ガルシアの口に押し込む。
「そういう話し方をしたいんだろ? だったら兄さんこそ、先生たちの言うことなんてほっとけばいいじゃないか」
何か言おうとしたようだったが、口に物が入っている状態では絶対に喋らない。意外と礼儀正しいのだ。だからこそ、わざとクッキーを食べさせたのだが。
ガルシアに反論する隙を与えず、話を続ける。
「どうせ先生たちは、口調を変えた理由を知らないのにやめろって言ってるんだろ。それなら黙って従う必要ないよ。兄さんが正しいって思ったことをすればいい」
「け、けどよぉ────」
「でも手遅れになる前に、姉さんだけには説明してきたほうがいいとは思う」
ガルシアが、固まったあとで唾を飲み込んだ。
「あ、姉貴、怒ってンのか?」
「ちょっとだけね。でも今はだから、兄さんがいつまでも逃げ回ってるうちに角が生えても知らないよ」
「うげっ」
唯一と言っても過言ではない『頭の上がらない相手』が怒る様を想像したのか、盛大に慌てだした。
「どっ、どうしようっ。うまそうなケーキとか持ってったほうがいいかっ?」
「逆に怒らせるだけだから、やめときなよ」
「なんだ、ダイエット中か」
「……殺されるよ、兄さん」
「ぐっ」
固まり、うろたえ、迷い、そうしてガルシアはどことなく悲壮な表情で拳を握った。勢い良く立ち上がる。
「今から姉貴ンとこ行ってくるっ。どーせ説教されるンなら、ちゃっちゃとされちまったほうが楽だっ」
「頑張れー」
「……うぅぅ、やーだーな〜。怖ェなぁぁ〜」
ガルシアはすっかり尻尾を丸めてしまった。しかし逃げることは考えていないようだ。もちろん逃げ続けた場合のほうが恐ろしいとわかっているからだろうが、それよりも姉が怒っているのは教師たちと同じ理由でなく、確固たる決心もないくせに行動して、あげく周囲に迷惑をかけているからだと自覚しているためだろう。
ガルシアが気合いを入れ直した。潔い様子で歩き、ふと、扉に手を掛けようとしたところで動きを止めた。振り返る。
「そういやぁお前は、何にも訊いてこねえよな」
ディレイスとまったく同じ顔。しかしまったく違う性格の兄が乱暴な物言いをするようになったのは、つい最近のことだ。理由は知らない。訊いてもいない。それでも彼なりの想いがあっての行動だろうことはわかる。少なくとも周囲の人たちを困らせるためではないはずだ。優しい兄は、本当に呆れるほど優しい人だから。
──これだけ知っていれば、充分だ。
ガルシアを見やり、ディレイスは笑う。
「わざわざ聞き出さなきゃいけない?」
すると、すべてを分け合って生まれた片割れは、耳を立て、背筋を伸ばし、尻尾を一振りした。その表情は、先ほどまで見せていたちょっとした恐怖などかけらもなく、まっすぐで、明るくて、向けられたこちらも自然と頬が緩んでしまうような笑顔。
「ディル。サンキューな」
この世で最初にディレイスを愛称で呼んだのは、一緒に生まれた彼だった。
周囲の大人たちにとっては手がつけられない王子でも、ディレイスにとってはいつだって誇りの兄だ。
大好きだ。
ディレイスは満面の笑みで言葉を返す。
「姉さんの説教が終わったら手合わせしようよ。それとも三時のおやつのほうがいい?」
ガルシアが、ぐっ、と拳にした右手の親指を立てる。
「両方!」
「じゃあ、庭で待ってるね」
「おうっ!」
大きく頷くなり出て行った兄を見送り、ディレイスは立ち上がった。
まずはガルシアを捜して走り回っているだろう教師を見つけて、姉の説教を受けにいったことを知らせよう。そうすればきっとあきらめてくれるはずだ。そのあとで厨房に行こう。ガルシアのことだ、きっと姉を誘ってくるだろうから、彼女の護衛騎士のぶんを合わせて四人分のお茶を用意してもらおう。
姉とお茶をするのは本当にひさしぶりだ。格闘術の手合わせを見せるのは考えるまでもないほどである。きっと二人の上達をたくさん褒めて、頑張ったご褒美に頭を撫でてくれる。すごく楽しみだ。
「今日のおやつは何かなぁ。アップルパイだったらいいな」
ディレイスは残ったクッキーを口に入れると、軽い足取りで部屋を出た。




