温かな -後編-
目を開けて最初に見たのは見慣れた天井だった。次に慣れた寝具の感触を認識し、オレンジ色の明かりとそれに照らされ揺れる影に気づく。
「…………GR?」
横からかけられた声は耳に心地良く、心に柔らかく、花びらの手触りに似ていた。夢の中から呼ぶ声にも思えた。けれど額を覆っていた何かが外されたあとでためらいがちに触れてきた冷たさが、朦朧とした意識を優しく覚醒させてくれる。現実はここなのだと教えてくれる。
息苦しさを我慢し、緩慢ながらも数度の瞬きと深呼吸をしてからGRは、額に気持ちのいい冷気を提供してくれる手の持ち主へと視線を転じた。
鼻の頭まで掛かる前髪で顔を隠した白い人は、椅子に座っていたのだろう、腰を少し浮かせた格好でこちらに身を乗り出している。肩からこぼれた長い髪が、ランプの光に染まって、まるで金色の滝のようだ。
彼はそっと手を外すと、先ほどと同じ柔らかな声を微笑む唇から紡いだ。
「熱は下がってきているようだが……気分はどうだ?」
「気分……」
復唱して、GRは己の喉がひどく渇き、痛みと熱を持っていることに気づく。ついでに全身がだるいことも知り──ようやく回転しはじめた頭が疑問を発した。
「……なぁアッシュ」
「ん?」
柔らかな声音で応じるアッシュローズが横に置いた手桶でタオルを濡らすのを見ながら、GRは一瞬の躊躇のあとで問いかけた。
「根本的な質問していいか?」
「なんだね」
「……俺、なんで寝てンだ?」
アッシュローズの動きが止まった。
次いで不穏な気配が彼の全身からにじみ出す。
GRは即座に後悔した。が、もう遅い。ゆったりと振り向いたアッシュローズの唇が、柔らかさなどかけらもない笑みを浮かべる。
「殴っていいか」
「逝く自信あっからやめろ。わかった。悪かった。自分で考えます。あー、確か……」
「バスルームからリビングに戻ってきたところで倒れたのだよ。高熱を出して。……本当に覚えていないのか?」
GRはおそるおそる頷く。
「あんまり……。いや、悪ぃ、ぜんぜん記憶ねえ」
アッシュローズのとんでもない行動のおかげで服を着たまま湯船に浸かるハメになったことは覚えている。彼が出て行ったあとで服を脱いだことも覚えている。浸かっているうちに気持ちが悪いほど暑くなってきて、耐え切れず出ようとしたときふらついたこともなんとか。服を着て、廊下に出て、フェリスと話をしたようなしていないような。あと、誰かの悲鳴と泣き声を聞いた気もするが、それは錯覚だろうか──? そのあとは『気がついてみれば私室のベッドの上』である。記憶などあってなきがごとしだ。
とはいえ、ほかでもないアッシュローズが言うのである。今の話が事実なのだろう。
痰の絡んだ喉で咳をして、GRは熱い息を吐く。
「そっか。倒れたのか。……初めてだなぁ、熱出して倒れたの」
「呑気なものだな、お前は」
アッシュローズから怒りが消えて、代わりに呆れの感情が漂ってきた。目を向けてみれば、彼は再び手桶に向かって手を動かしている。
「一時は危なかったのだぞ? 熱が高くて、呼吸もままならなくて。本当に……こんなに早く目が覚めるとは思わなかったくらいなのに……」
言いながらタオルを絞り、適当な大きさにたたんでからGRの額に乗せてきた。
冷たさに体がすくむ。が、すぐにぬるくなってしまった。それだけ熱が高いということなのだろう。道理で気持ちが悪いほど視界が歪んでいて平衡感覚が怪しくなっているはずである。
などと納得していたら、アッシュローズが仁王立ちになって見下ろしてきた。
「言わずともわかっているだろうが、しばらくは絶対安静だ。いいな、馬鹿犬」
馬鹿扱いには腹が立つが、言い返す言葉もない。GRは口を尖らせつつも素直に返事した。
「へーい」
「よし」
アッシュローズが満足げに頷いて手桶を持ち上げた。片手で抱える。
「水を替えてくる。……欲しいものはあるか?」
少し考え、
「冷てぇもんが欲しい。喉が熱くてよ」
「わかった」
小さな頷きひとつ、アッシュローズは部屋から出ていった。
室内が沈黙で満ちる。
「………………。……だりぃ」
呟き、息をつく。
風邪を引くなど何年ぶりだろう。格闘術を習い始めた頃から寝込んだ記憶がないということは、最後に風邪を引いたのは最低でも十五年以上前か。
(風邪って、こんなにしんどかったっけ)
強く咳き込み、また一呼吸。
視線をドアから時計に移してみれば、針は十二時過ぎを指していた。カーテンのひかれた窓に光の気配はない。夜なのだろう。ということは、帰ってきたのは三時頃だったから九時間近く眠っていたことになる。
(そんなに寝といて、この程度か。……かなり悪ぃんだなぁ)
思わずため息をついて、それがまた咳を誘発して、GRはたまらず寝返りを打った。壁に背を向ける。
熱い。痛い。吐き気にまでは至らないが、それでもやっぱり気持ちが悪い。苦しい。足元からじわりじわりと悪魔が迫ってきているかのようだ。静かな恐怖で胸が締めつけられる。
風邪のせいだと頭ではわかっていても、弱気な自分は消えてくれない。熱のせいだと言い聞かせてみても、目の潤みに気を取られそうになる。素で、アッシュはまだ帰ってこないのかなぁ、などと考えている自分がいたりして、むしょうにこっ恥ずかしくなる。
(フェリスじゃねーんだから。ったくよぉ)
GRは確かに感じる口内のざらつきに唇を歪ませながら、うつぶせになった。
起きているからよけいなことを考えてしまうのだ。さっさと寝てしまえばいい。そうすればつらいのも苦しいのも心細いのも忘れているうちに治るに決まっている。体温を吸って生暖かくなった枕を抱え込み、GRはしっかと目を閉じた。
──コン。
小さなノック音。
次いで、ドアの開く音がわずかに鳴り、人の気配が入ってきた。アッシュローズだ。
「GR…………? ……寝てしまった、か?」
尻すぼみの声が少しくすぐったい。
ぱたたと片耳を振ったら、彼の呼吸に笑みがともった。話しながら近づいてくる。
「起きているのだな。ならば少しでも食べて薬を飲んでから眠りたまえ。……GR? 体を起こせるか?」
本当にアッシュローズの声は綺麗だ。歌声はもちろん格別だけれど、普通に喋っているだけで充分すぎるほど心地良い。しかも今夜の彼はいつもとぜんぜん違う。すべてが優しくて柔らかくて温かい。相手が病人だからだと言ってしまえば身も蓋もないのだろうが、それでも気持ちいいことに変わりはない。このまま声を聞きながら眠ったらいい夢が見られるんだろうなぁと、GRは幸せ気分で枕に頬を擦り寄せる。
「こら。言った傍から寝ようとするな」
「……むぅ」
怒られては仕方ない。頑固に離れようとしない目蓋はそのままにして、しぶしぶ体を起こしにかかる。
すぐに横から腕が伸びて体を支えてくれた。それはいいとして、なぜか一緒に冷気まで漂ってきた。部屋のドアは当然閉まっているだろう。窓も同じだ。ではなぜいきなりこんな冷たい風が流れてきたりしたのだろうか。しかし首を傾げるまでもなく、GRの肩に触れた手が冷気の出所を教えていた。
アッシュローズだ。彼に冷たい空気が張りついているのだ。ちょっと体を寄せただけで吸い込む空気の温度が違う。熱で焼かれた喉に清涼さが心地良い。手もタオルよりよっぽど冷たくて気持ちいい。
「……GR?」
アッシュローズの声が間近で響いた。が、今は綺麗な声より冷たい手に惹かれる。
GRはふらりと右手を上げた。
「もっと」
空気を嗅ぎ、心地良さの発生源に手を伸ばす。
「ん? 何を言ってい────」
アッシュローズの言葉が最後まで続かなかったがどうでもいい。
GRは彼の胸に抱きつき、肩口に顔をうずめて息をついた。
「は〜、冷てー」
沈黙は、一瞬だ。
腕の中でアッシュローズの体が派手にびくつく。
「いいいきなり何をするのだお前はっ。離せ、気持ち悪いっ」
「俺は気持ちいい」
「ふざけるなっ。殴るぞっ、蹴るぞっ!」
「はいはい。あぁ気持ちい〜」
「この、馬鹿っ。人の話を聞けと……っ、あぁぁもう尻尾を振るなっ」
肩や背中を叩いたり押したりひっぱったりしていたアッシュローズだったが、構わずに額や頬をくっつけて冷気をおすそ分けしてもらっているうちに落ち着いたらしい。掴むのをGRの肩から服に変えて、わずかに力を抜いた。そうしてゆっくりとベッドの端に腰を下ろす。
「わけのわからないことばかりしおって……。暑くはないのか?」
GRはくっつけているうちに温かくなった場所から、冷たい部分に頬を移す。
「んーん。こっちのほうが冷たくって気持ちいい。……てーかさ、なんでお前、こんなに冷たくなってンだよ」
氷の糸かと錯覚しそうなほど冷たい白髪を指先にすくいながら訊いたら、
「それは、まぁ…………よく外に出ていたから」
歯切れ悪く答えてきた。
「外?」
なぜ屋外に出る必要があるのだろう。言外に臭わせてみたら、アッシュローズの動く気配がした。肩から左手が外れる。
無言の促しを感じて目を開けてみれば、眼前にある左手がサイドテーブルを指差していた。示す先にあったのは先ほどアッシュローズが持って出ていた手桶だ。手桶自体は何の変哲もない木製の手桶なのだが、その中に少々驚くものがある。GRの頭ほどはある氷の塊が入っているのだ。
「でけー。あんなでけぇ氷あったんだぁ」
アッシュローズの胸が大きく上下した。ため息をついたらしい。
「そんなわけなかろう。普通の大きさのものでは間に合わんから、外気と雪を使って魔法で形成したのだ」
「…………」
いくら馬鹿だ馬鹿だと罵られ、呆れられ、ついでに自覚もある上に、熱のせいでいつも以上に動きの鈍い頭でも、ここまで言われればわかる。アッシュローズは高熱を吸い込んでぬるくなるタオルを冷やすために、氷が溶けるたびに外に出て作ってくれたのだ。
GRが倒れてから九時間。いったい何回往復しただろう。何回魔法を唱えてくれただろう。回数はわからない。彼に訊いても答えてくれないにきまっている。それでもショールを一枚羽織っただけの軽装が──そこからこぼれ落ちる冷気が、労力のすべてを物語っている。
GRは体を抱く手に力を込めた。たぶん、いつもの半分も入っていないだろうが、それでもしっかりと抱きしめる。
「こんな薄ィ格好で外なんかに出ンなよ。お前まで風邪引くぞ」
返ってきたのは恒例の、嘆息まじりの呆れ声。
「そう思うならさっさと治したまえ」
しかしいつもとぜんぜん違って労わりに満ちているから、拗ねる気も起きない。
「おー」
GRはアッシュローズから離れて枕に背を預けた。
メイが作っておいてくれたというミルクババロアを全部食べて、苦い粉薬もちゃんと飲んで、口うるさく説教される前に横になる。鼻の上まで上掛けをかぶったら、動いて少々騒いだからか、簡単に眠気が来た。
すると再び冷やしたタオルを乗せてくれたアッシュローズが、上掛けの上から胸元をぽんぽんと叩いてきた。フェリスを寝かしつけるときによくやっている仕草だが、彼にその自覚はあるのかどうか。
間近にある光源に照らされて透ける、ミルキーホワイトの長い髪。常に顔を隠している前髪が、今はレースのカーテンのようだ。うっすらと見えるアッシュローズの端麗な素顔はもちろん、そこに浮かぶ微笑が慈愛に満ちて、美しくて────
GRは上掛けの下から手を出した。白い手を握る。
「……ここにいる?」
驚きのあと、途端に意地悪くなったアッシュローズの表情。
「なんだ、淋しいのか?」
挑発めいた声に、GRはにっこりと笑ってやった。
「うん。すっげ淋しい」
「………………」
一度の放心。それから、アッシュローズが嘆息と一緒に苦笑する。
「まったく、お前という奴は……」
「駄目か?」
「…………」
彼はGRの手を、もう片方の手で包んだ。
「何も心配せずに、ゆっくり眠れ。……傍にいるから」
アッシュローズは、ほんの少し困ったように、けれど幸せそうに微笑っている。
護ってやろうと決めた人。支えてやろうと決めた人。けれど、たまには頼るのもいいかもしれない。そんなことを思いながらGRは、相棒の手を握り返す。
体は熱いし痛いし、気持ちが悪くて苦しいけれど。アッシュローズの手は本当に冷たいけれど。今夜はとっても温かな夢が見られそうだ。
「おやすみ、アッシュ」
「ああ。おやすみ」
GRはひとつ微笑み、目を閉じた。
*
翌日。
リビングのドアを開けるなり、少年の歓声が響き渡った。
「じーる、もうだいじょうぶなのっ? なおったのっ?」
その顔には、驚きと喜びと不安をないまぜにした、複雑な色があった。フェリスのことだ、きっとGRが倒れたのを見て自分のせいだとか馬鹿なことを考えて落ち込んでいたに違いない。
GRは駆け寄ってくるフェリスに向かって胸を張る。
「ったりめーだろ。全快だぜ」
すると、
「ほぉう、それはそれは」
絶対零度の低い声が、背後から後頭部に突き刺さった。
GRはとっさに尻尾を丸めた。そして、振り返りたくないが振り返って、やはりそこに立っていた白い男を視界に入れる。
そうだろうなと思ったけれど、アッシュローズは怒っていた。なんだかよくわからないけれど壮絶に怒っていた。──いや、本当のところ、理由はわかっているのだが。
GRはびくびくと体を震わせながら、なんとか笑顔で右手を上げる。
「よ、よう。なんだ、もう起きたのか? もうちょっと寝てりゃあ良かったのに」
「あぁそうだな。自室に戻って一眠りさせてもらうとしよう。だがな」
アッシュローズがぴしと背筋を伸ばして、ショールを羽織り直した。
おもむろに右手を左手の中に包み込む。
──ぱきり。
響いた音が空恐ろしい。
脂汗を流すGRをまっすぐに見据えて、アッシュローズが小首を傾げた。前髪がさらさらと流れ、美しい素顔がわずかにあらわとなる。
音を立てて動揺したGRの胸を煽るかのようにふりまかれるのは極上の笑顔。そして、ついうっかり見とれたその瞬間、あっさりと足をひっかけられて転んで腰を打って目を回しているうちに襟首を捕まえられた。
頭上からぷりぷりと文句が降ってくる。
「寝るのはお前もだ馬鹿っ。安静にしていろと言ったはずだぞ馬鹿っ。もう忘れたのか馬鹿っ」
あげくに頭を殴られた。
泣きたくなる。
「ンだよも〜。大丈夫だって。熱下がったし、腹だって普通に減っ────」
「駄目だっ! 問答無用で却下だっ! あれほど高い熱を出しておいて、たった一晩で完治するわけがなかろうっ! さっさと来い、馬鹿犬っ!」
話すら聞いてもらえない。
手を振るフェリスに見送られる中、ずるずる引きずられながらGRは、心の底、腹の底からため息をついた。
「なぁアッシュぅ」
「なんだっ」
「その心配性すぎるとこ、ちっとは治せよ」
「うるさいっ」
案の定、返ってきたのはアッシュローズの蹴り。
再び引きずられながら、GRは痛みが倍加した腰をさする。
昨夜のあの柔らかな優しさが夢か幻かのような乱暴さだ。GRの熱がすっかり下がったことで安心したらしい。まったくもってむちゃくちゃな愛情表現である。
とはいえ、受け流すことはできない。見た目を裏切ってかなり腕力のある彼の攻撃──もとい、言葉にしない本音を受け止めてやるのはかなり大変だが、無視したが最後、強化した殻に閉じこもってしまうのは明白だ。
難儀な性格をした相棒に引きずられながら、俺って健気だなぁと遠い目をするGRである。
「はぁ……なんでこう照れ屋で素直じゃねえかなぁ。………………ぁ」
悲しいことに、心の声が音声となって外に出たと気づいたのは事後だった。
アッシュローズが止まった。一切合切の動きが。すべて。ぴたりと。むしろぎしりと。
GRは己の頬が引きつるのを自覚する。生唾を飲み込み仰いで見れば、そこで待っていたのは満面の笑み。
純白に程近い長髪が、まっさらの雪原にも似ていて美しい。
けれど、びしびし伝わってくる殺気に満ちた苛立ちが泣きたくなるほど恐ろしい。
「なぁGR? 私は今、と・て・も・不愉快なことを言われたような気がするのだが。お前、何か言ったか?」
「きっ、気のせいでス」
GRの喉から出たのはかすれ声。
鷹揚に頷いてみせるのはアッシュローズ。
「そうかそうか、気のせいか。はははははは」
「あは、はははは──はぅっ」
鉄拳制裁万歳な『ご主人様』におもいっきり踏まれたことは、もはや言うまでもない。




