温かな -前編-
庭に続くリビングの大窓を開けたら、肌を刺す冷気が流れ込んできた。室内のぬくもりに慣れていた体がすくむ。けれど予想していた寒さだ。アッシュローズは淡い紫色をした厚手のショールを前で合わせ、余分な力を抜いた。外を見やる。
朝起きると、庭もその向こうに広がる森も一面の銀世界になっていた。雪そのものは午前中にやんで、今は雲ひとつない青天だが、昼を過ぎて日差しが弱くなりはじめている。積雪量も多いからしばらくは溶けずに残るのだろう。
用がなければ誰も訪れることのない、森の中の館である。深い雪のせいもあって外気は静寂で満ちている。獣の足音ひとつ響いてこない。
本当に静かなものだ。
聞こえてしかるべきものすら聞こえない。
きんと澄み切った空気を吸い込むと、アッシュローズは大きな嘆息にして吐き出した。
「遅い」
足音の聞こえない外に向かって腕を組む。
「いったい何をやっているのだ、あの馬鹿犬は。こんな寒い中を連れまわして……フェリスが風邪を引いたらどうしてくれる」
「しっかり着せて行かせたから大丈夫ですよ。それに、そのうち帰ってくるんじゃないですか? あいつが大好きなアップルパイのことを忘れて遊んでるとも思えませんしね」
背後から聞こえてきた明るい声に振り返ってみれば、メイがポットを傾けるところだ。湯気を立てて注がれる紅茶を見て、アッシュローズは静かに窓を閉めた。彼女のいるソファーに近づく。
「食べ物がらみでしか根拠を見出せんとは……情けない奴だな」
「いいじゃないですか。わかりやすくって」
腰を下ろすタイミングに合わせて、ティーカップが差し出された。
「ありがとう」
見上げて礼を言ったら、笑顔を浮かべるメイの耳がぴんと立った。
スカートの陰では細長い猫の尻尾が天井に先端を向けている。上機嫌らしい。パイがうまく焼けたのだろう。──ますます帰りの遅い『馬鹿犬』の現在地が気になる。
カップを唇に当て、アッシュローズはふぅと吐息をこぼした。
故郷ではあまり降らない雪が大量に積もっているのを見てじっとしていられなくなったのも、彼らしいといえば彼らしい。だが、時刻はもうすぐ三時である。メイがアップルパイを焼いてくれると知っているはずなのに、あの甘いもの好きの大男は、息子同然の子供を連れて出たまま帰ってこないときた。
吐く息が視界の端で白く色づき、かと思った次の瞬間には雪景色と同化して消えていく。そんな屋外の寒さを思い出しながら紅茶をひとくち。アッシュローズは手持ち無沙汰な左手で髪をいじりつつ、窓の外へと顔を向けた。
「本当に、GRは何をやっているのか……」
嘆息まじりに呟いたら、楽しげな含み笑いが返ってきた。
「なんだかんだおっしゃってても捜しにはいきませんよね、アッシュ様」
視線を振ると、向かいに腰掛けたメイが、自分用に淹れたカップを両手で包むように持って微笑んだ。
「もし出かけてるのがあたしとフェリスだったら、こんなとこで『遅い』なんて言ってないで外に飛び出してらっしゃるんじゃないですか?」
彼女の言う状況を想像するまでもなく、即断即決で頷く。
「当然だな。メイは必ず約束を守るし、何より淑女だ。帰りが遅いとなれば何かあったのではないかと心配するのが当たり前だろう」
「……レディーってとこはともかくとして……でもGRが一緒のときは、多少遅くなったって大丈夫だって思えるんでしょう? だって捜しにいかれたことありませんもの」
「うぅむ……」
楽しげなメイから視線を外し、考えてみる。
今日のようにGRとフェリスが遊びに出たときも、メイがGRを連れて買い物に出かけたときも、よくよく考えてみれば心配した記憶がない。確かに安心して留守を預かることができるようだった。それは、きっと……────。
アッシュローズは白いカップで揺れる琥珀色の液体を見ながら、即座に出てきた『理由』を静かに思う。
(……あんな馬鹿なのにな)
どんな悪態をついてみても本心はひとつだ。
彼は絶対に裏切らない。護ると誓ってくれたあの言葉には、アッシュローズの命だけでなく心をも護るという意志を含んでいた。別に懇切丁寧に説明されたわけではない。断じて信じようとしているわけではない。そんな安い言葉では足りない。そう、自分は確かに知っているのだ。
こんなことになるなど、出逢ったばかりの頃には考えもしなかった。すっかり変わってしまった自分自身に苦笑して、アッシュローズは紅茶をすすった。
「──たっ、ただいまっ」
物音に続いて廊下から聞こえてきたのは少年の声だ。大きな足音を立てて走ってくるのがわかる。GRに感化されてか男の子らしい元気良さが出てきた彼ではあるが、それにしてもめずらしい。
「フェリスったら、何慌ててるのかしら……」
不思議顔でメイが立ち上がり、入り口に近づく。と、彼女がドアを開ける前に廊下側から大きく開かれた。
「あっ、めいっ」
現れたフェリスはメイを見るなり、ふわふわのファーで縁取られたコートとマフラーに包まれた顔をくしゃりと歪めた。
「おふろにおゆいれてっ。はやくはやくっ!」
「え、お風呂? 暖炉にあたるだけじゃ駄目なの?」
のんびりとしたメイの対応にやきもきし、その場で足踏みしながら彼女の腕をひっぱる。
「だめだよーっ。はやくあったかくしないと、うっ……じ、じーるがしんじゃうぅっ」
ついに涙をこぼしはじめたフェリスの横から、低い声が響いたのはそのときだ。
「あのなぁ。お前じゃあるまいし、死ぬかよ、こンくらいで」
メイが声の主に顔を向けた。
ワンテンポ遅れて、彼女の尻尾がぶわっと太くなる。
「なっ、なっ、なっ……何やってんのよあんたーっ!!」
心底仰天したらしいメイの悲鳴に、男が軽い笑い声を立てた。
「いやぁ、ドジった」
「ドジったって……っ、あぁぁもうとにかく早くバスルームに入って服脱いでっ! すぐにお湯沸かすからっ!」
言うなりメイは、フェリスに負けず劣らず慌ただしく奥に駆けていってしまった。いつもは音もなく歩いているのだとはとても思えないほどの騒がしさである。
アッシュローズはティーカップをローテーブルに置くと、遅ればせながら腰を上げ、ソファーとテーブルの間から滑り出た。ローブの裾を毛の長い絨毯に擦れさせながらドアに近づく。
「いったい何事だ?」
「あっ……」
まるで重大な失敗を見つかったかのような表情で見上げてくるフェリスも気になったが、先に廊下へ顔を出した。玄関側に立っているはずの男に目を向ける。
メイが驚いた理由はすぐにわかった。
声が出ない。
「ただいま。遅くなって悪ぃ」
男はアッシュローズより頭半分高いところで、朱金の瞳を笑みの形にして、けれど眉を垂らして苦笑を作った。
いつも胸を張って闊歩する彼に似合わず、背中を丸め、両手で自分の体を抱きしめるようにしている。頭についている狼の耳も臀部から伸びる尻尾も、今は力なく垂れ下がるばかりだ。
しかし、それも当然だろう。頭の上から靴の先までずぶ濡れならば。
アッシュローズはあんまりな事態によろりとよろめき、壁に手をついた。
「GR……、いくらなんでも真冬は、水浴びには向かん季節だと思うのだが……」
毛先から水滴をぱたぱた落としながら、GRが苦笑いを引っ込めて口を尖らせる。
「だからドジったんだって。滑って転んだ先が池だったんだ。いくら俺だってこんな時期に水ン中に飛び込むかっつーんだよ」
「っ、もし大喜びで潜ったのだとしたら馬鹿ではなく病気だっ」
壁を平手で一叩きして怒鳴ると、アッシュローズは体を起こした。指先まで覆う長い袖をまくる。
「フェリス。メイに、湯はいいから代わりに何か温かい飲み物と着替えの用意を頼んできてくれるか」
「う、うんっ」
何度も頷いてから奥に走っていく少年を見送りもせず、アッシュローズはGRの手首を引っ掴む。
いつもはあんなに温かい手が冷たい。こちらの心が凍えそうだ。
アッシュローズは踵を返した。逃げられないよう強く握りしめたまま歩き出す。
「お、おいアッシュ、お前の服が濡れ────」
「やかましいっ。うだうだ言わずに足を動かせっ」
脱衣所の扉を開けて中に入り、ショールと室内履きを脱ぎ捨てて浴室のドアを開け放つとGRをバスルームに投げ込んだ。ふらついた彼を浴槽に蹴り入れる。
「どわっ、でっ、だっ!」
肩から落ちたGRがわたわたと体勢を整えようとするの無視して蛇口をひねり、全開で水を流す。
「絶え間なき流れよ。激しき大地の愛を抱き、常春の想いを謳歌せよ」
呪文が完成した瞬間、水が湯に変わった。温度がややぬるめであることを触って確認してから浴槽の底に栓をする。
と、そこでようやくGRが起き上がって縁にしがみついた。
「しっ、死ぬかと思ったっ」
「大げさな奴だな」
鼻であしらうとアッシュローズは、うなだれた彼の黒髪に手桶で湯を掛けてやる。適当にざばざばとひっくり返したおかげでローブがかなり濡れてしまったが、着替えれば済むことだ。冷水ではないから風邪を引くこともあるまいと、構わず続ける。
やがて浴室内に湯気がこもるようになった頃、ようやく手を止めてアッシュローズは、GRの頭を見下ろした。
「で? 何がどうなってこのような格好で帰ってきたりしたのだ」
されるがままだったGRが、のろのろと縁に腕をひっかけて顎を置く。
「だから、滑って転んで池に落ちたんだっつったろ」
「お前がか?」
GR以上に優れた反射神経を持つ者を、アッシュローズは知らない。戦闘時という危機的状況においてさえ、とっさの判断も的確におこない、平凡な攻撃ならかわすだけでなく利用して自分の力に変えてしまうほどの技量を持つ男である。すべった程度のハプニングで、池に落下するなどという致命的とも言えるほどのミスをするとは考えられない。
「改めて言っておくが。私は虚偽が大嫌いだぞ。GR」
噛みしめるように告げると、GRが一度だけアッシュローズを見上げ、再び視線を逸らした。低い声をさらに低くして呟く。
「別に嘘なんざ言ってねーし」
だるそうに背を浴槽の壁に預けて足を伸ばした。
「滑って転んで落ちた。それ以外のなんでもねえよ」
バスルームに、湯船から溢れて流れる水音が響く。
GRはそれきり何も言おうとしなかった。アッシュローズを見ようともしない。目を閉じ、湯に身をゆだね、時折乱雑な呼吸をするだけである。
投げやりだ。まともに取りあおうとしないところが、ひじょうに腹立たしい。
「……GR」
「あァ?」
咎めるように名を呼んだら、さらに面倒くさそうな声が返ってきた。
GRは濡れた前髪を片手で後ろに押しやると、両腕を投げ出すようにして肘を縁にひっかけた。あらわとなった額の中心で眉間にしわが寄っている。その深さが苛立ちの強さを表しているようで──こちらもイライラしてきた。相手をする気が完全に失せる。
アッシュローズは蛇口をひねって水を止めた。
「服を脱げ。そのような格好ではよけいに疲れるだけだぞ」
言うだけ言うと返事も待たずに浴室を出た。ドアを閉めて濡れたローブを脱ぐ。
シャツにズボンという軽装になった途端に寒気が来た。足元に冷気を感じて見てみれば、足首まで届く髪が濡れている。ローブがこれだけ派手に濡れていれば当然か。棚からタオルを出し、髪の先を包み乾かす。
(……心配しているというのに、なんだあの態度は)
むか。
苛立ちがわき上がったが、抱え込むにはあまりに弱い。すぐにため息にして吐き出して、アッシュローズは止まってしまっていた手を動かした。
「あら……」
声に気づいて顔を上げると、GRの服を持ったメイが入ってくるところだった。驚いたらしい彼女だったが、洗濯籠に入っているローブとアッシュの行動を見て察したらしい。すぐ笑顔に戻って中に入ってきた。
「早く何か羽織ってくださいね。風邪引いちゃいますよ?」
「うむ。……フェリスはどうしている?」
メイはGRの着替えを置きながら首をかしげた。
「それが、元気ないみたいなんですよねぇ。風邪を引いちゃったって様子ではないんですけど……。リビングにいるはずですから、お願いできますか?」
「わかった」
快く承諾するとアッシュローズは、使い終わったタオルの代わりにショールを取り、室内履きを履いて廊下に出た。柔らかな布地を羽織り、たどり着いたリビングの扉に手をかける。
「あ……っ」
開けるなり、暖炉の前で小さくなっているフェリスと目が合った。瞳を潤ませた少年がすぐさま立ち上がって駆け寄ってくる。
「あしゅ、じーるはっ? じーる、だいじょうぶっ? へーきっ? し、しんじゃわないよねっ? だいじょうぶだよねっ?」
しがみついてきたフェリスは、ひどく必死だ。
生まれて初めて心を開いた存在であろう母と死別して以来、死や別れというものを恐怖と言ってしまってもいいほど恐れている子供の心を思えば、当然の反応かもしれない。しかし今日の彼からは、もっと別の感情──後悔と罪悪感が強く伝わってくる。
寒さのせいではなく震える小さな体を、アッシュローズは優しく抱き上げた。
「大丈夫に決まっている。あの馬鹿犬がこの程度でくたばるわけがなかろう」
「………………。うん。そうだよね……へーきだよね。じーる、つよいもんね。だいじょうぶだよね」
笑顔を浮かべようとしたが、愛らしい笑みは形を取ることなくしぼんでしまった。双眸を揺らし、肩口に顔をうずめてくる。
アッシュローズは後ろ手にドアを閉めると、フェリスをショールに包み入れてやりながら暖炉の前に進んだ。体を揺らしてあやしつつ、少年の耳元で囁く。
「どうした。何を気に病んでいるのだ? ……ん?」
フェリスの肩が震えた。震えは左側だけの片翼に伝わり、ふるふるとか細く揺らす。
帰ってきたときから様子がおかしかったが、やはり何かあったのだ。
すぐにでも問いただしたい思いに駆られるが、アッシュローズはフェリスの髪をゆっくりと撫でながら自分の口で告白してくれるのを気長に待つ。
「……ぼくが、わるいのっ。じーるがおちちゃったの、ぼくのせいなのっ」
フェリスがきゅうと服を握りしめ、頬を押しつけてきた。
「ゆきなげしててね? でもじーる、つよいから……ぼく、くやしくなっちゃって。おどかしてやれっておもって……それで、それで……っ」
次第に涙を混ぜて大きくなっていく声で、それでも少年は逃げずに言った。
「じーる、きらいってしってるのにっ、へびがいるって、うそ、ついたのっ」
欠けていたピースのはまる音がした。
フェリスの様子。GRが池に落ちた本当の原因と、それをかたくなに詳しく話そうとしなかった理由。今の言葉ですべてが納得できた。
身長百九十センチ近い大男で態度もでかく、獣人族の国でいちばんの格闘術の使い手と讃えられる彼には到底似合わないのだが──あの男、蛇が大の苦手なのだ。以前、蛇の子供を前にして泣くほど大混乱する様を見たこともある。あのときの動揺っぷりを思えば、嘘を信じて慌てふためき、そのせいで落ちたというのも容易に想像できる。
アッシュローズは苛立ちが完全に昇華された安堵に、肩から力を抜いた。フェリスを抱いたまま絨毯に腰を下ろす。
「なるほどな。それで驚いて落ちてしまったのか」
声はなく、ただ強く一回だけ、フェリスははっきりと頷いた。
アッシュローズは嗚咽が混じりはじめた少年の背を、繰り返し優しく撫でる。
「GRに、きちんと謝ったか?」
フェリスは何度も頷いた。何度も何度も。手を頭に添えることでやめさせると、アッシュローズは彼のこめかみにひとつ、キスを落とす。
「ならば大丈夫だ。GRは怒ってなどいない」
確かめてはいないが、確信できる。
「あいつは素直に謝った相手にいつまでも怒っているような、心の狭い男ではないよ。わかるだろう?」
「…………うん」
「なら、いつまでも落ち込んで泣いていてはいけない。赦してくれたことに感謝して、笑顔を返しなさい」
フェリスの返事はない。この子は自分よりも大好きな人たちを大切にする子だ。だからきっと、今言ったことをおこなうだけでは納得できないのだろう。
アッシュローズは少々強引にフェリスの体を胸から離すと、涙でぐしゃぐしゃになった顔を覗き込んだ。
「フェリス」
名を呼び、長い前髪の隙間から微笑みかける。
「もしどうしても自分が赦せないのならば、悔やむのではなく、GRが喜ぶことをしてあげればいいのだよ」
フェリスはしゃっくりをあげながら目を上げた。
「よろこぶ、こっ、……ことっ?」
「そう。なんでもいい。ちょっとしたことでいいのだ。GRが笑顔になれることをすればいい。……できるか?」
フェリスは口を引き結んで、嗚咽を飲み込んで、そして大きく頷いた。
「がんばるっ」
胸の奥がほんわかと温かくなる。その心地良さに自然と笑顔をこぼして、アッシュローズはいとし子の頭を撫でた。
「いい子だ」
──ガチャ。
思っていた以上にフェリスとの会話に集中していたらしい。不意に響いた音に軽く驚いて振り向いたら、扉がゆっくりと開くところだった。
「あっ、じーるっ」
フェリスが真っ先に現れた彼の名を呼ぶ。ドアの向こうからひどくゆっくりと歩を進める男の足元に駆け寄っていった。
「もうさむくない? だいじょうぶ?」
GRは立ち止まると、乱雑な手つきでフェリスの頭を一撫でした。荒っぽい仕草だけれど、それがフェリスには嬉しいらしい。歓声のような声を上げて、撫でてくれた右手を掴む。
「じーるっ。なにかほしいの、ある? ぼく、もってきてあげるっ」
沈黙。それから、GRはドア側の足に体重を移した。
「………………水……」
「…………ぁ……あ、おみずっ? う、うんわかったっ。まっててねっ。すぐもってくるねっ」
何に気を取られたのか、フェリスは少しの間のあとで頷き、そのまま廊下に飛び出していった。軽い足音はあっという間に遠ざかり、また落ち着いた静寂がリビングに満ちる。
GRは深くうつむいて、前髪で顔を隠したままだ。アッシュローズはそんな彼を見、少しのためらいのあとで口を開いた。
「もういいのか?」
「…………ああ」
(──……)
そのとき感じた違和感は何か。実態を言葉にするよりも先に──否、違和感を感じたと自覚するよりも前に、アッシュローズは立ち上がっていた。ショールをかき合わせ、GRに向き直る。
「……GR?」
名を、呼ぶ。
GRが右手を上げた。指を前髪に通し、掌で額を包むように押さえる。込めすぎた力のせいで、手の甲に不自然な筋が浮いた。その陰であらわとなった眉間には、バスルームで見たあの深いしわが刻まれている。──赤い肌に、くっきりと。
常とは違う肌色。常とは違う表情。常とは違う態度。それらに対して内心で首をひねったそのとき、GRの足が動いた。いや、動かそうとしたはずが動かず────
「────っ」
考える間などない。
アッシュローズは床を蹴った。
傾いだ一回り大きな体に両手を伸ばす。
重い衝撃。
手だけでは受け止めきれない。落ちるように膝をついて、しかし落とすまいと腕に力を入れる。
「っ!?」
腕を回した背中が、GRの全身が、彼に触れるすべての部分が、異様なほど熱い。およそ人の身にあっていいとは思えない体温に眩暈がした。血の気が下がる。むしろ上がる。
「お前……っなんだこの熱はっ! なぜこのような状態になるまで言わなかったっ!」
「……ィ……、……く、から……くな……、……っ……」
押し寄せる何かを耐えるように、GRの大きな背中が強張った。だがそれは一度きりだ。急速に彼の体から力が抜けていく。弛緩した体が腕に──胸に、ひどく重い。
「……GR? おい……おいGRっ」
肩からショールが滑り落ちた。
寒気が押し寄せてくる。
「GRっ? GRっ。しっかりしろっ、おいっ」
名を呼び、肩を揺らす。
けれどGRは動かない。
「GRっ、GRっ……やめろ……やめてくれこんな、冗談……っ!」
ぶる、と体を震わせてアッシュローズは、濡れた黒髪をかき抱いた。
暖炉のぬくもりがあるのに。
高熱を発するGRを抱いているのに。
寒い。
寒くて寒くてたまらない。
体が震える。
ひどく震えて止まらない。
(こんなに早く嘘つきになるつもりか、お前はっ?)
黒髪に頬をうずめる。
「GR……」
大きな耳のすぐ横で名前を呼んでも、GRは動かない。身動きひとつしない。荒い呼吸と眉間のしわをそのままにして目を開けない。開けてくれない。
「GRっ」
アッシュローズはきつくきつく目を閉じた。
「……この……馬鹿っ」
遠くのほうで足音がする。メイとフェリスだろうか。アッシュローズの声を聞いてGRが倒れたことを知ったのかもしれない。きっとすぐにやってくるだろう。
そんなことを頭の片隅で冷静に考えながら、けれど心は腕の中から離れなかった。




