紅蓮の血涙-9
うめき声は一度きり。翼の痙攣もまた少しだけ。アッシュローズが吐血し、ゆっくり膝を折り、刀身に覆いかぶさるように体を曲げた。
切り裂かれた肌から血がにじみ出す。剣を伝って滴り落ちていく。
血の色──死の色。
アッシュローズに合わせてひざまずいたイグニスが、血まみれの体を横たえた。突き立てた剣を抜くことなく左手に持ちかえると、強張っているアッシュローズの左手に手を伸ばした。指から何かを抜き取ろうとする。
途端、アッシュローズの肩が震えた。取られまいと必死に力を入れようとする。
「っ!」
そこに思考の余地などない。GRはファウラの手をすり抜けた。しっかと足の裏で地面を捉え、蹴り飛ばし、走る。
「GRっ!」
ファウラの声でイグニスが振り返った。
一歩進むたびに痛みが走る。眩暈がひどい。耳鳴りがする。視界もブラックアウト寸前だ。万全には程遠い体だが、退くわけにはいかなかった。
これはただの勘だ。しかし無視できない。
アッシュローズから奪おうとしている何かを、イグニスの手から取り戻さなければならない。天使に渡してはいけない!
GRは走る勢いを利用して前へ跳んだ。低い軌道でイグニスの左側に回る。
着地と同時に膝を曲げてスライディング。しかし上半身の体勢は崩さない。拳を固めて腕に狙いを定める。
イグニスが表情を変えた。
剣を抜くことも手放すこともしない。──いや、できないのか?
(それならっ)
GRは右手一本で宙返りをした。一気に反対側に回る。
そして握り直した右拳を下から振り上げた。
肘へのアッパーカット。
イグニスの腕が跳ねた。
手から飛び出た小さな物体。
反動なしの跳躍で飛びつき、受け止める。着地に失敗したせいで腹がさらに痛くなったが、この際問題なしだ。
イグニスともファウラとも距離をとり、GRは警戒しながら掌を開いた。
(……指輪?)
重さからして純粋な白金だろう。飾りのいっさいないシンプルな指輪はアッシュローズに似合いだといえば似合いだが、これがいったい何を意味するのか──。
「無茶をする奴だな」
声で我に返り、指輪をズボンのポケットに突っ込んで視線を上げる。
イグニスは再び背を向けていた。アッシュローズの乱れた前髪を撫でつけ、頬に残った涙をぬぐう。
「ファウラ、手当てをしてやれ」
「言われなくたってするよっ。あぁぁ、傷開いちゃってるしー!」
駆け寄ってきたファウラがすぐさま腹部に手をかざした。こんなことなら最初から全快させておくのだった、とぼやくうちに傷がふさがり、痛みが消え、眩暈も貧血もおさまってしまう。つまり彼は、わざと中途半端な治療しかおこなっていなかったのだ。
「……なんでだ」
「こうでもしないと、きみ、今度こそ命捨ててかばいそうだったんだもん。だからって麻酔かけっぱなしにしてたら、大丈夫だって言ってもテラーディオが納得してくれないだろうしさぁ」
ファウラが視線を上げないまま穏やかな微笑を浮かべる。
「ま、とりあえず落ち着いてよ。僕たちは死にたいなんていう我儘をかなえてやるために来たわけじゃないんだからさ」
「ぶった斬っといて、よくンなことが言えるな。あァ?」
「あはは、うん、言えるー。まぁ見てなよ」
ファウラの指差した先でイグニスが立ち上がった。アッシュローズに正対し、突き立ったままの剣の柄を両手で握る。
「我が断ち切るは望まれざるもの! 歪みし鎖よ、汝の命は尽きた。あるべき輪廻と大地に還れっ!」
一気に引き抜いた。
瞬間、アッシュローズの真下から天まで焦がす勢いで火柱が上がった。熱風と炎に煽られ浮いた体は一瞬で飲みまれ、髪の一本も残さずに燃え尽きてしまう。
「……な……っ」
アッシュローズはフェリスとメイの大切な家族なのだ。何よりも大事な存在なのだ。それを簡単に限界だとあきらめて、簡単に殺して、しかも遺体すら残さない。なんて横暴で勝手な仕打ちだ。天使なら何をしてもいいと思っているのだろうか。
全身がざわめく。それはまるで獣化するときの高揚感に似ていて、しかし真逆の高ぶりだ。
GRはファウラの手を振り払い、立ち上がった。ぎりりと両手を拳にし、冷静極まりない火天使長を睨み据えて前に踏み出す。
「てめぇ、よくも……っ」
「だから落ち着いてってば」
すぐファウラにしがみつかれた。
引き止めにかかる彼を見下ろす。
「邪魔すンなっ! てめぇもブッ殺されてぇかっ!」
「嫌に決まってるでしょ。そうじゃなくて、早合点しないでって言ってるの」
「早合点だぁっ?」
「僕たちはテラーディオを死なせるために来たんじゃないよ。本当に」
穏やかな翠玉の瞳を見ているうちに、GRの心にも冷静さが戻ってきた。ひとまず構えだけ解く。
「じゃあなんでこんなひでぇことしやがった」
答えたのは、足早に近寄ってきた困り顔のイグニスだ。
「器はもうファウラの力をもってしても修復不可能な状態だった。……いや、器が抱え込んだひずみが、と言うべきか。もはや死は必定。しかしあのまま放置していたら、テラーディオの魂は人間として死に、天使に戻れなくなる。だから俺がひずみを器とともに魂から切り離したのだ」
ファウラが話を継ぐ。
「世界を蝕む『魔』。つまりひずみと闘う守護者って尊称は伊達じゃないよ。イグニスの能力は、目に見えないものを斬ること。魔法だって封印だって、スパッと一刀両断っ。もちろん肉体と魂を繋いでる鎖だってねっ」
「……へ?」
こぼれる声を無視して、ファウラがあさっての方向を向いた。
「これで『アッシュローズ』がため込んじゃってたものは消せたけど……、テラーディオ、怒るだろうねー」
「……は?」
これまた無視してイグニスが肩をすくめた。
「なに、神のお言葉を伝えれば落ち着くだろう。……聞く耳があればいいが」
「え? えっ?」
ファウラとイグニスを交互に見るばかりのGRの肩を、二人が両側から叩いてきた。そして小さくなった火柱に向き直る。
尊敬と愛情と自信と誇りに満ちた表情で見つめる彼らの視線を受けて、火柱が一気に膨らんだ。膨れ上がった炎は翼の形を取り、さらに熱く燃えて青白い輝きに変わりながら人に似た形に収束していく。
最高温の炎色に輝く翼。流れる乳白色の髪。白磁の肌。緩やかな純白の衣装。そして、不思議な薔薇色の瞳。この上なく美しい姿へと。
優雅に六枚の翼をたたんだ白い天使は、周囲を見渡し、表情を陰らせた。
「……すまない」
眉を震わせて目を閉じ、両手を胸の前で組む。
「その哀しみ、その怒り……すべて私が引き受けよう」
そして何かを迎え入れるように両腕を開き、大きく息を吸った。
――歌だ。
神語と思われる歌詞の意味はさっぱりわからない。しかし優しく、慈しみの心に満ちた雰囲気は伝わる。心に直接語りかけてくるものがある。魂が引き寄せられる。
朗々と響く歌声に導かれるように、炎が消え、焼け落ちた家屋や倒れた樹木や炭になった遺体、そのひとつひとつから小さな光が出てきた。真っ白な光は綿毛のように空へと昇っていくが、黒いものは瓦礫や遺体の上から離れようとしない。
未練だろうか。──きっとそうだ。
アッシュローズが歌いながら、静かな眼差しでそれらを見つめる。すると光は、まるで呼ばれたかのように彼の手に向かって飛んでいった。
白い指先に止まるなり、黒が静かに消えていく。指に吸い込まれる。
アッシュローズの瞳が潤み、涙が一粒。
転がり落ちた雫を受けた白の光は、再び遺体に戻ることなく浮かび上がった。まっすぐに空を目指して。
何回も何回も繰り返し、やがて最後の光を天へ導くと、アッシュローズは膝をついた。歌を結び、終えて、空へ消えていく光たちを見送りながらそっと微笑む。
「無垢なる魂に、永久の安らぎがあらんことを……」
十字を切って祈りを捧げ、そうして視線を地上に戻した。
息をつき、改めてこちらを向く。イグニスとファウラを見るなり表情を変えたアッシュローズが、肩を怒らせて近づいてきた。
「イグニスッ!!」
反射的に尾を丸めたGRとは対照的に、イグニスが飄々と片手を上げる。
「無事に復活したようだな」
「誰がさせろと頼んだっ! 私はもう二度と戻らんと言ったはずだぞっ!」
アッシュローズが頭半分以上大きい男の胸倉を掴み上げる。しかし相変わらずイグニスの余裕は崩れない。
「確かにお前には頼まれていないし、おこなったら怒るだろうことは予想していた」
「ならばするなっ!」
蒼い瞳でひたと見下ろし、イグニスが口を開く。
「しかし神に頼まれた。お前を復活させるようにと」
アッシュローズの目がこれ以上ないほど見開かれた。と同時に手が離れ、後ずさる。
「……なぜ……」
「その話はちょっと待って」
ファウラがアッシュローズに寄り添う。
「ここの空気はきみには毒だ。場所を移動しよう。……あ、GRもおいでよ」
屋敷から出ていけと言ったのはほかでもない彼だ。ここで誘う理由が理解できない。それはファウラもわかっているのだろう。ゆっくりと頷き、微笑む。
「大丈夫だよ。それに、ここまで巻き込んじゃったしね」
イグニスも了解の印に頷いた。アッシュローズは視線を外したが。
本当に大丈夫なのだろうか。
迷いはある。しかし知りたいと思う気持ちは無視できなかった。GRは遠巻きに見守っている騎士たちにあとのことを頼み、天使たちに向き直った。
「連れてってくれ」
「うん、喜んで」
微笑んだファウラが、呪文も唱えずに空間をねじった。




