紅蓮の血涙-8
最初に感じたのは温かさだった。が、明確な感覚はそれだけだった。
何も感じないわけではない。ただ、不明瞭なのである。まるで睡眠時間の足りていない朝みたいだ。何がなんだかわからない。
「……GR?」
呼びかけと同時に目の前に現れたのは絵画──いや、彫像──でもなく、実物の男だ。あんまりにも綺麗な顔をしているのと、彼の背後にある赤色の水をかぶった翼のせいで勘違いしたらしい。
「え、と……」
彼が背負っているのは鳥の獣人族の翼ではない。天使の羽だ。ということは、ここは天国なのだろうか。
体が動かないため目だけ周囲に向けてみた。
焼け焦げた地面はいたるところで炎が上がっており、いくつもの家屋が燃え尽きようとしている。やけに背中が気持ち悪いと思ったら、自分は横になっていたようだ。ともあれ、寝そべっていてもこの状況を見れば結論はすぐに出る。GRはほうと息をついた。
「地獄かぁ」
途端、額をぺちと叩かれた。
「安心しろ。お前を迎えてやれるほど、地獄は暇ではない」
また真上を見ると、男が不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。
長い白髪が滝のようだ。
「GR。さっさと正気になれ、馬鹿者」
「……馬鹿……?」
GRは唐突に記憶と意識が明確になるのがわかった。きっかけの単純さが泣けるが、この際目を瞑ることにしよう。
「……あぁ、俺、生きてンだな」
「この傷で即死しなかったほうが驚きだよ」
割って入ってきた声は、わずか下方から聞こえた。わかる。ファウラだ。
「まったくだな」
今度の声はアッシュローズの横、GRの頭の上のほうからだ。これは先ほど剣を振るった天使──成り行きからしてイグニスだろうか。その彼が嘆息する。
「テラーディオをかばって自分が死んでは意味がないだろう。いったい何を考えている」
質問が馬鹿馬鹿しすぎである。ため息をつきたいのはこちらのほうだ。
「何もどうも、こいつが死んだら、フェリスとメイが泣くだろ」
GRは鼻から息を噴く。
「俺なら、アッシュが治してくれるまで、根性で生きてりゃいいだけだ。ンなこともわかんねえのかよ。馬鹿じゃねーの? てか、アッシュ。お前も呆けてねえでさっさと治せよ。本気で死んだかと思ったじゃねえか」
たいして喋ってもいないはずなのに疲れてしまった。それだけ傷が深いということなのだろう。
絶句した相手は放っておいて息を整えると、GRは視線をアッシュローズに戻した。なにやら汗をかいているのに気づいて眉を寄せる。
「顔色悪ぃぞ。大丈夫か?」
白い眉が跳ね上がった。頬が二度痙攣する。
「お前にだけは言われたくないっ」
重傷患者に心配されたくない、と言いたいのだろうか。しかし自分の体は──なぜかほぼ全身の感覚がないためよくわからないのだが、ともかく他人の状態よりはまだ把握できる。心配して何が悪いのだ。
むくれる。
「怒ることねーのに……。そういやぁお前、こんな近くにいンのに、あんま熱くねえな」
アッシュローズは目を閉じて怒りを押し殺そうとしたようだが、無駄な抵抗だったらしい。しっかりと頬をひくつかせた。
「意地で抑えているんだっ」
何を怒っているのだろう。さっぱりである。
彼の考えていることはまったくわからないが、とりあえずこれだけは言っておかねばなるまい。
「ンだよ。できンなら最初っからやれよなー」
瞬間、アッシュローズの額が引きつった。わずかばかり熱が復活する。
「うるさい黙れおとなしくしていろっ、こんなことも言わねばわからんのか馬鹿犬っ」
「ば、馬鹿犬言うなっ」
「本当に黙れ、殴るぞっ。だいたい、簡単にできるのならばお前に言われるまでもなくやっているっ!」
横から腕が一本伸びてきて、アッシュローズの背中を撫でて落ち着かせる。それが効いたか、彼は息と熱を抑え、なお深いしわを眉間に刻んだ。
「だが、……く、っお前にここまでされたら、私も意地を見せんと、腹が立つだろうっ」
荒い息を落とし、背中を撫でる手の持ち主を睨む。
「どうせならアクエリールも連れてこいっ」
「あいつは別件で手一杯だ」
「チッ」
美術品めいた美貌と繊細な印象を持つ外見で、この鋭い舌打ちである。素顔を知る前よりさらに恐ろしく感じるのは、いわゆる『美しすぎるがゆえ』だろうか。
「……テラーディオぉ」
苦笑まじりの声はファウラだ。
「GRが怖がっちゃってるから、ちょっと落ち着いてくれない?」
文句を言ったのはファウラなのに、なぜかこちらが睨まれてしまった。
かなり怖い。
などと内心震え上がっていたら、ファウラが安堵を含んだ声を上げた。
「これでよしっと。GR、今から神経麻痺の魔法を止めるよ。痛みが出るから心の準備してくれる? あ、ショック死しないでね。さすがにそこまでは痛まないと思うけど」
了解の返事を伝える間もなかった。
突然重い衝撃が腹部を襲う。声を上げる余裕もない。
とっさに腹を抱えて横に転がって初めて、体が動くことに気づく。
「っ、っ、~~~ッ!」
「深呼吸をしろ。慌てるな」
頭上からの落ち着いた声。
反発したい気持ちを抑えてゆっくりと深い呼吸を繰り返す。すると甲斐あってか、痛みはするが我慢できる程度まで慣れることができた。うめく。
「ファーウーラ~っ。ちったぁ、タイミングってやつ……考えろっ」
「小さい子供や老人や女性じゃないんだから、甘えたこと言わないっ。こっちは急いでるんだからねっ」
「……そうだな」
答えたのはアッシュローズだった。
「ファウラ。GRは、もう大丈夫なのだな?」
「うん。本人が無茶しなければね。太鼓判押してあげる」
地面に転がったまま見上げると、アッシュローズが怒りの薄くなった表情で見下ろしてきた。
「…………。……GR」
何か嫌な予感がする。
だが無視することもできず片眉を上げて返事すると、静かすぎる声で訊ねてきた。
「動けそうか?」
少しだけ考える。
「いや。まだ無理」
アッシュローズが微笑んだ。
「そうか。……なら、いい」
己の心臓が、強く脈打った。
汗が出てくる。
「ちょ……アッシュ、お前……」
アッシュローズはまたひとつ微笑むが、これは──そう、あきらめと哀しみに沈んだ笑顔だ。
「ま、待てっ」
手を伸ばす。しかし掴む寸前に彼の足はGRから遠ざかっていた。次いで、もうひとつの足音が離れ、アッシュローズに近づいていく。
「もういいのか?」
「ああ」
答えるアッシュローズの声に、金属のこすれる音が続いた。
ふたりの天使が足を止める。
黄金の大剣を構えるイグニスを見ずに、アッシュローズが自嘲の笑みを落とした。
「ひどい役目を、させてしまうな。……すまない」
「まったくだ」
落ち着いた様子だ。アッシュローズも、こちらに背中を向けているイグニスも。そして傍にいるファウラも。しかし自分も同じように冷静でいることなどできない。
「ちょ、待て……待てよぉっ」
「こらGR、動かないのっ。傷口開くよっ?」
「るせぇっ! アッシュ! やめろっ! ……イグニスっ!」
しかし天界一の戦士と名高い男は、鋭く狙いを定める。
「黙っていろ。これが望みなのだ」
「ンなもん却下だ! 馬鹿正直に馬鹿のいうこときくんじゃねーよ馬鹿野郎っ!」
「天使長を馬鹿呼ばわりした者は、お前が初めてだ」
イグニスが小さく笑い、
「すまんな」
覚悟を決めて目を閉じたアッシュローズの胸に、金の刀身を突き立てた。




