紅蓮の血涙-7
攻撃は当たっていない。かすってもいない。ここで膝をつく理由はないはずだ。──GRを油断させる作戦だろうか。いや、そんな器用なことができる精神状態ではないように見える。では、いったい何が起きたというのか。
慎重に一歩近づく。
「来るなっ!!」
アッシュローズが絶叫した。GRが驚きで足を止めた隙に立ち、遠ざかる。足取りがかなり怪しい。
「来るな……私に近づくなっ。……違う、駄目」
一歩。二歩。三歩。
ふらつき、止まり、両手で頭を掴んでうめきだす。
「認めない……っ嫌、だっ。赦さないっ──違うっ!」
変だ。矛盾どころの話ではない。言っていることがむちゃくちゃだ。
「アッシュ!」
びくりと体を震わせ、アッシュローズが伏せていた目を上げた。
朝霧に包まれた薔薇のようだと思った双眸は、今は炎に照らされて深い赤色に染まっている。彼は血の涙を流しながら、GRをまっすぐに見て、そして瞳を揺るがせた。
「止めて、くれっ。止まらない……もう無理、っ!」
瞬間、眼差しが変わった。激怒に戻る。
「裁きを、与えてやるのだっ。邪魔をするならばお前も、────」
しかしまた苦悩の表情になる。
「駄目だ……嫌っ。壊したくない……シアリィっ……!」
深い苦痛ゆえの慟哭じみた声を出す。
「あぁぁあああぁっ、ジー、ルっ……私を、……私、を、殺してくれっ。また、怒りに飲み込……れる、前に……っ、私を殺せっ。止めてくれぇぇぇっ!」
わかった。
やっとわかった。
アッシュローズは今、必死に抗っているのだ。彼は周囲の感情に影響を受けるのだと、ファウラも言っていたではないか。それだけわかれば充分。自分が今すべきことはひとつだ。
GRは棒を手放し、その場に転がした。
「りょーかい。おっけーおっけー、よ~くわかった」
左手に右の拳を叩きつけ、いまだ苦しむアッシュローズに大股で近づく。そして与えられるだろう死に安心したか、わずかに気の抜けた顔をさらす彼を見据え、
──バキィィッ!
横っ面に拳を叩き込んだ。
倒れたアッシュローズが間抜けにも口を開けたまま頬を押さえ、上体を起こす。
GRは言葉もない彼の左手首を掴んだ。ひっぱり上げる。
「ふざけンのも大概にしろよ、コラ」
天使がまとう灼熱はおさまっていない。掴んだ掌が容赦なく焼ける。握力を上げれば上げるほど与えられる熱も強くなる。
「は、離せっ」
アッシュローズが振りほどこうと身をよじる。だがもう片方の腕も捕まえて動きを封じてやると、なおも抵抗する彼の声が泣き声に近くなってきた。
「離せ……離せっ、手がっ」
「うるせえっ!」
「もう自分では、止められないんだ、GRっ。だから、頼むから離してくれ、殺してくれお願いだっ。お前が……このままでは、お前が死んでしまうっ」
「死ぬかっ! ざけんなっ! 舐めてンのかてめーっ!」
頭突きを一発。
やっとおとなしくなった──単に驚愕と衝撃で言葉が出ないだけだろうが、静かになったから良しだ──アッシュローズを見下ろし、GRは深く息を吸う。
「……そんなに嫌いか? この世界は」
喉が痛くなってきた。高温の空気を吸っているからだろうか。
「なぁ、腹ァ立ちすぎてむちゃくちゃになっちまうくらい赦せねえかよ」
もう汗も出ない。
こんなに近くにいるアッシュローズすら霞む。
「なぁアッシュ。お前、天使なんだろ? この世界を高ェとこから見てたんだろ? ずっとずっとさ。……なぁ、ほんとにちゃんと見てたのかよ」
よろよろと顔を上げた彼の表情は、今までに見たことのない悔しげなそれだった。まるで、親に怒られながら必死に涙をこらえている子供のようだ。
なんだか、笑える。
気持ちを抑えず、微笑んだ。
「春は花のいい匂いがして、夏は風が気持ち良くて、秋はうまいもんがいっぱい実って、冬は空がすっげぇ透明なのが綺麗で……。俺は、好きだぜ。この世界」
ふるりと揺れた赤色の双眸。
頬を伝う血がわずかに薄くなった。
「GR……」
ぽつり、ぽつり、と赤い涙が落ちていく。頬から消えていく。代わりに流れるのは透明な涙。ただの、普通の、涙。
「それでも……手遅れなんだ……っ」
アッシュローズの体全部が震え始める。
「もしも今この衝動がおさまったとしても、身の内に宿った炎は消えないっ。消せないのだ! もう……もう、私には、一人で戦い続けることなど、できないっ。だからっ」
「独りだぁ? それ、本気で言ってンのかよっ」
泣きたいのはこっちだ。
「ほんとに、ふざけンじゃねーよっ。お前にとってその程度だったってことかよっ。ンな簡単に手離せるもんだったっていうのかよっ」
フェリスもメイもジルダたちもみんな、彼を慕っている。少なからず傷ついていたに違いない人が心を開いているではないか。なのにアッシュローズは死のうとしている。手離そうとしている。家族だと言って笑う人たちを!
「捨てンなよ! 捨てるくらいなら最初っから手ェ伸ばすなよっ! 期待させといて裏切るなんざ最ッ低だ! とっとと天界に帰っちまえ!」
口から出たのは紛れもない本音だ。しかしアッシュローズが姿を消したら間違いなく泣く人がいる。そんなことは、ほかでもない自分が許せない。
「くっそぉ……っ、前言撤回しやがれ、今すぐにっ! お前にできねえことは俺がやってやるから! 困ってンならいくらでも助けてやる! 怖ェってンなら護ってやるよ! だからっ」
手に力を込める。伝えたい気持ちを全部入れる。
「この程度のことで尻尾巻いてンじゃねえ! 最後まで責任取りやがれ、ド阿呆ッ!」
歯を食いしばって、しかしGRをまっすぐに見つめてくるアッシュローズの表情に変化があったのはそのときだった。焦点がGRから外れ、どこか遠くを見るような目になる。
「来た、か」
疑問に思うより前に、視線が戻ってきた。
「GR……」
初めて微笑を向けられた。
それは優しく、柔らかく、親愛の情に満ちていて、──どこか重い笑顔だった。
「フェリスと、メイを、頼む」
「え」
それはどういうことなのかと訊く声は、口から出る寸前で止まる。血まみれの翼の向こうに光が落ちてきたからだ。
光は一瞬で人に似た形をとった。翼を持つ、人間に似た姿。黄金色の髪の天使。彼は腰に吊るした鞘からゆっくりと大ぶりの剣を抜いて構える。見据えたのはアッシュローズの背中だ。
「覚悟はできているようだな」
いきなり現れた天使は、確かに、アッシュローズを殺す気でいる。
「……すまない」
そしてアッシュローズも彼に殺される気でいる。
翼が風を切り、水平に構えた剣を突きつけてきた。
──脳裏をよぎったのは幼い笑顔。そして必死な少女の涙。
GRは両手を開いた。突然支えを失って崩れ落ちたアッシュローズの体を蹴り飛ばす。
さえぎるもののなくなった視界を、不自然なほど白い翼が覆い、そして、激痛が腹部を焦がした。一瞬で全身を縛る。
急速に力が奪われていく。わかっても抗いきれず、GRは膝をついた。
「お前、なぜ……っ」
眼前で金色の天使が固まっている。伝わってくる彼の驚愕が笑える。
GRは引きつる頬を吊り上げ、腹に突き立った剣の柄を掴んだ。もぎ取る。
反動で刀身が身体をえぐった。もはや激痛とも言えない衝撃で苦悶の声すら上げる余裕がない。平衡感覚が消えた直後、打撃が右上半身を襲った。倒れたのだろう。しかし立ち上がろうにも体がいうことをきかない。
闇と冷気が侵食してくる視界の中、アッシュローズの顔が見えた。彼はひどく傷ついた表情で、GRを見つめたまま硬直している。
(……なにが『天使』だ)
本当に、笑える。
(どいつもこいつも、馬鹿ばっかじゃねえか)
GRは目蓋を落とした。




